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第4回 水を差しにくい社会



【秋らしくなってきたかな】



 すぐに2週間が経ってしまう。先日書き上げた小説は、5日ほどかけて手直ししたのち、担当編集者へ送った。今はもう、どんな話だったか思い出せないくらい。



 それ以外では、海外での翻訳の話が一度に数十冊も来て、アドバンス料は嬉しいけれど、大量の契約書にいちいち住所氏名を書くのが大変だ、と申し出たところ、住所は印刷してもらえることになり、おまけに印鑑も不要になった。話してみるものだな、と思った。



 あとは恙ない毎日。樹は黄葉し始め、落葉掃除もスタートしている。疲れないように気をつけようと気を引き締めている今日この頃。



 住まいの半分ほどの部屋には、床暖房をONにした。朝は霜が降りる。霜というのは、本当に空から降りてくるのだ。だから、葉が生い茂っている森の中では霜は降りないし、庇の下も降りない。冷たい空気だけで現れるものではないことが、ここに住んでわかった。



 落葉が降り積もっても、雪が降り積もっても、庭園鉄道は毎日運行する。落葉や雪を吹き飛ばす除葉車、除雪車がある。むしろ、それらを稼働させるのが楽しみだ。



 線路以外の場所を除雪するため、普通の除雪機も5機待機していて、暖かいうちにエンジンのメンテナンスを済ませている。寒い地方なのだが、実は雪は滅多に降らない。ただ、降ったら解けない。放っておくと硬い氷になるから、早めに除雪するのが鉄則。



 床暖房は、灯油が燃料で稼働している。この灯油は、屋外に500リットルくらいのタンクがあって、連絡しなくても業者が充填しにきてくれる。半年くらいつけっぱなしになるが、エアコンの電気代よりはずっと安くすむし、夏はクーラもいらないので、たとえば、東京や名古屋に住んでいるよりも、光熱費は半分くらい安い。日本人の多くは、地価が高くて狭い場所に密集して住んでいることを、ときどき思い出す。



 さて、小説の執筆が一作終わったから、今年の仕事はもうお終い。また来年。いくつか頼まれているけれど、まだ返事をしていない。この頃、書けるかどうか、自分のことが読めないのである。



 アメリカのおじさんから、鉄道模型の関係で極めてマニアックなメールが来て、何度かやり取りをしたけれど、お互いに引き籠もり老人なのに、こういうコミュニケーションはできるわけで、有意義だし面白い。ネットも捨てたものではない。大部分は捨てた方が良いものだけれど。





【記者会見って、どうして必要なの?】



 日本の社会をネットで観察していると、この頃、記者会見に対する応酬や反応が多い。

全然興味がないのでしっかりと読んでいない。でも、どうして記者会見なんかするのか、という疑問をずっとまえから持っている。



 質問があったり、それに答えるのなら、文章でやり取りすれば良いし、みんなにも見てもらいたいなら、それらの文章を公開すれば良い。文章の方が、論理的なもの言いが可能だし、不用意な発言も少なくなる。どうして、そうしないのか理解できない。



 よくあるのは、用意された文章を読み上げるのではなく、自分の言葉で発言してほしい、という意見。どうして、自分の発声でないと駄目なのか? 誰かが考えた文章であっても、自分の責任で公表するなら、それで良いのではないか。僕は、ちゃんと考えられた、きちんとした文法の、間違いのない表現で出てくる言葉を重要視する。



 たとえば、学術論文は、口頭発表は価値が認められず、発表論文としてカウントされない。どんな世界的なシンポジウム、国際会議でもあっても、口頭発表は軽視されている。そうではなく、学会の雑誌に発表される論文が業績として認められる。



 どんな顔で、どんな口調で、どれほど上手にプレゼンしても、評価は内容、コンテンツで判断される。

だから、緊急を要する問題でなければ、文章でやり取りすれば良い。記者会見など必要ないのでは、と感じる場合が多い。そんな記者会見をわざわざ生放送で電波に乗せるのも無駄だと感じてしまう。



 おそらく、これ自体がエンタテインメントなのだろう。それ以外に考えられない。つまり、発表している側も、質問している側も、どちらもタレントで、演じている。ようは、フィクションなのだ。それなら、いちおうの存在価値があるのかな、と思う次第。



 だって、質問しているのは「記者」なのでしょう? 文章を書くことが仕事の人たちなのでしょう? だったら、質問も文章でぶつけてほしい。答える方もしっかりと文章で答えてほしい。それを何往復かさせるだけのこと。大した時間はかからない。

大勢でやりたかったら、ネットの掲示板を利用すれば良い。みんなが見ると思う。ただ、TVには向かない。こんな旧式な儀式が存在する理由は、結局はTV向けだから?





【水を差す人がいない社会】



 地方のお祭りで起こる事故や動物虐待が、最近になってようやく少しだけ問題視されるようになった。僕は20年以上まえから書いているので、今さらなにかつけ加えることもないけれど、マスコミは、これまでずっとタブーにしてきた。つまり、地方、伝統、庶民の味方であり続けたいから、見過ごしてきた。ところが、ネットで一般市民が声を上げるようになり、しかたなく少しは対応する姿勢を見せなければ、と方向転換したのだろうか。このあたり、某事務所の問題を見過ごしたのと、同じメカニズムに見えるが、いかがだろうか?



 人が死ぬような事故が毎年のように起こる。是非、祭りに参加していた人たちにインタビューし、「お酒を飲んでいましたか?」くらいの質問はしてもらいたい。その程度のことも、報じられないのは、やはり不自然だろう。



 90年代中頃、僕がデビューした頃には、マスコミはまだ勢いがあったから、僕が「このままではジリ貧になりますよ」と警告しても、「日本人は新聞やTVが大好きだから、ついてきますよ」と笑っていた。それから、新聞を読む人は半減し(購読者数でわかる)、TVを見ない人も増えた(視聴率だけでも明らか)。

当時、既にインターネットはあった。数十年後に、ネットがTVや新聞を凌駕することを、まさか予見できなかったのか?



 時間を遡って責任が追及されるようにもなった。水に流さない社会になりつつある。早めに手を打った方が賢明だろう。



 だいたい、タブーというのは、自分で作るものだ。自粛が大好きな日本人は、「これは駄目だ」といわれなくても、自分で駄目なものを決める。だから、なかなか自分ではタブーを壊せない。遠くの人から指摘されて、初めて重い腰を上げる。



 神輿を担いで、わっしょいわっしょいと汗を流している当事者は気づけない。大事なのは、それを見ている人たちが、「水を差す」ことである。一緒になって拍手をしている人が多いようだけれど、中には水を差すことができる人が必ずいるはず。そういう少数の人の声を、見逃さないことが、のちのち効いてくるだろう。



 最近の社会全般にいえることだが、とにかくみんなが「美談」で頷き合って、頑張れ、と励まし合っている。人情が通り、正論には耳を傾けない。本当のところはこうなのではないか、と意見がいいにくい。水を差す人がいない。水を差すと、周囲から睨まれてしまうから、黙るしかない。今の日本は、そんな社会になっているように観察される。



 それも悪くはないだろう。ただ、大きな問題が、美談で包み隠されたままタブーになる。そして、何十年も経ってから明るみに出て、どうしてみんな黙っていたんだ、と反省するしかない。正論が通らない社会って、平和だけれど、一部の人たちが泣き寝入りする環境といえる。正論の味方がいない。マスコミが、その任務を放棄しているからだ。



 ネットには、大勢を頷かせる美談の正義しかない。大勢が見て見ぬふりをして、タブーには踏み込まない。そんなネットに、僕は嫌気がさして、こんな引き籠もりになってしまったみたいだ。書くべきことは書いたから、落葉掃除でもしますか……。







文:森博嗣

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