早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
✴︎連載全50回分を加筆修正し、書き下ろし原稿を加えて一冊に編んだ単行本『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』が6月17日に発売決定・予約開始!作家・鈴木涼美さんも絶賛した衝撃エッセイ!
【医師が私に話してくれたこと】
ある日、一通の封筒がやけに目についた。きっと普段だったら中身を一瞥して「まあ面倒だからいいか」とそのままゴミ箱の中に放り込んでいただろう。ただ、あの夏の日だけは捨てることなく、その紙に記載されていた通りの手順ですんなり予約まで済ませていたのだ。大した理由などなく、本当にただ何となく、呼吸をするぐらい自然なまでに。
「1058番さん、診察室Aにお入りください。」
淡々としたアナウンスが廊下に鳴り響く。何度も自分に割り振られた数字を確認していたので、呼ばれたのが自分であることはすぐに分かった。腰かけている待合の椅子から目的の場所までは三メートルほどしか離れていないのに、ドアの引手を握るころにはどっと身体が重くなっていた。私を待ち受けていた医師は「早速だけど」と説明をし始めた。自分の内側にしまってある臓器をまじまじと見るのは初めてで、なぜか少しだけ「ちゃんとこの世界で生きているんだ」なんて感動してしまった。
〈子宮頸がんの一つ手前の異変が起きている状態。何もできることはないけれど経過観察は必要で、半年後にまた検査をしないといけない。〉
家に帰っても状況が掴めずにふわふわとしていたが、組織をぐりぐりと抉り取られた痛みが先ほどの出来事が現実であることを教えてくれた。私の心に処理しきれない感情が雪崩れ込んできて、何も感じられない状態へと落ちていった。悲しいとか苦しいとか、そんなのがどろどろに混じり合っている。どうにか現実を飲みこむために、ネットで〈原因〉とか〈治療〉とか思いつく言葉を打ち込んで、大量の文字を摂取しても全てが無駄であった。その日は無理やり思考のスイッチを切るために睡眠薬を摂取して眠りについた。目が覚めても、全てが夢だったなんてオチもなく、身体に何か異変が起きたままの日常が始まるだけであった。
【「これは天罰だ」と思ってしまった私】
2021年の夏に告げられてから早二年。内臓の中身を撮影し組織を削り取る検査をちょうど四回繰り返した。
このことは血のつながりはないが、私と同じぐらいに、私を一人の人間として尊く扱う二人にだけ話した。それだけで十分だった。「心配をかけたくない」といった優しい強がりでそうしたわけではない。誰にもこのことについて勝手に判断され、処理されたくなかったのだ。行き場のない破裂しそうな感情を誰かの慰めや心配で癒すのではなく、自分自身の手で沈めなければ意味がないと思ったからだ。
どうしようもない絶望は嫌いじゃない。
【人生の転換点】
人生の転換点はいくつかあって、この出来事もその一つだ。今回書いたのは自分の中できちんとした答えが見えたからだ。また季節を一つ越えれば同じ検査がやってくる。肉壁を削り取られる痛みにも、待合の椅子に一人でじっと座っている孤独感にも慣れたわけではない。ただ自分自身の感情を言葉にできるようになった今、最初のあの日よりも得体も知れない怖さみたいなものは薄くなり、それ以上もそれ以下でもないあるがままの事実を受け入れられるようになったのは事実である。
また一つ、私という存在の輪郭がはっきりと見えた気がした。
(第26回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定
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