森羅万象をよく観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。
第6回 救急車に2回乗せられた
【救急車に4回乗ったこと】
ここ何回か、ちょっと体調不良だと書いたが、先週がそのピークだった。なにしろ、2回も救急搬送された。普通はピークを過ぎれば改善するが、またピークが訪れるかもしれない。そうなったらツイン・ピークスだ。
戦車もヘリコプタも1回ずつしか乗っていないのに、救急車はこれで4回乗ったことになる(うち1回は付添人として)。搬送されるとき意識はあったので、「ああ、また乗ってしまったな」との感慨があった。救急隊員とも顔馴染みになってしまい、「このまえよりも苦しいですか?」なんて質問されてしまった。
結局、1回めは1日だけ入院。医者は帰っても良いといったが、とても帰れるような状況ではなく、入院させてくれ、とお願いした。2回めは、医者も学習したらしく、注射と薬が効いて歩けるようになり、迎えにきてもらった車で帰宅した。
今は、普通。調子が良いわけではないけれど、不調でもない。だいたい、子供の頃からこんな具合なので慣れている。夜ぐっすりと眠れることが一番の幸せだといえる。
死にたくない、とは何故か考えないのだが、しかし、苦しみたくない、とは思う。これは、皆さんだいたい同じなのではないか。長生きしたいとは思わないけれど、苦しむ期間はできれば避けたい、というのが一般的な心理なのでは? だから、延命措置などは無用で、意識がないうちにあっさり死んでしまいたい、という願望を抱く。
沢山の薬を飲むことになった。僕は成人してから60歳になるまで、薬というものを一切飲まなかった。子供の頃、親が医者を信仰していたのか、不調になるとすぐに病院へ連れていかれ、薬を沢山飲み、そのせいで余計に体調が悪化した。だから、成人したときに飲まないことに決めた。以後40年間、病院や医院へ一度も行っていないし、風邪薬も頭痛薬も飲んだことはない。
しかし、歳を取って、その程度の体力もなくなったらしい。しかたがないところだろう。あとは騙し騙し生きるしかないようだ。薬を飲むのは、苦しさを一時的に避けるためであり、健康を取り戻すためではない。そもそも健康ではなかったので、取り戻すという表現が間違っている。
さて、ここ3日ほどは、なにごともなく過ごしている。ようやく食事もできるようになり、庭園内を犬と歩いたりもしている。ちなみに、食事制限はないので、なんでも食べられるのだが、そもそも、なんでも食べたいと思ったことがない。あれが食べたい、これが食べたい、といった欲求が皆無なのだ。それでも、久しぶりに林檎を食べた。
庭園は、落葉が降りそそぎ、僕が不調な間に厚さ10cmほども積もった。
【点滴とか注射とかであった誤解】
今回の入院でも点滴を長時間受けた。点滴を知らない人はいないと思うが、ようするに血管に直接なにかを流し込む行為。たいていは、栄養補給であり、点滴を受けていれば、口から食べなくても生きていられるようだ(確信はないが)。
透明の容器に入った溶液が、高い位置に吊り下げられていて、そこから腕に刺さった針までチューブがつながっている。途中に流れを止めたり調節したりするコックがある。高低差が液圧となって加わるから、体内へ溶液が少しずつ流れ込む。一気に沢山入れると危険だから、時間をかけてゆっくり入れる。チューブの途中に少し太い部分があって、そこで一滴ずつ溶液が落ちるのを見られるようになっている。
さて、かつては点滴の溶液がなくなるまえに、ナースコールで看護師を呼ぶとか、自分でコックを閉めて流れを止めるかしたものだ。僕は子供の頃に何度か点滴を受けたから、そう指示されたのを覚えている。
ミステリィのトリックの本に、血液中に気泡を入れる、という殺害方法が書かれていた。空気が混入すると血液が凝固するからだそうだ。それが心臓近くで血流を止め、心不全を招くとあったように記憶している。この殺害方法を用いたミステリィ小説もあるらしい(読んだことはないし、どんな作品かも知らないが)。
最近は点滴慣れしてしまい、点滴中でも僕はすぐに眠ってしまう。そして、気がつくと溶液はなくなっていて、チューブの途中まで液面が下がっている。「おっと、危ない。死ぬところだった」と飛び起きるかというと、そうではない。
人間の血管中の血液には、心臓というポンプによって圧力がかかっている。これを「血圧」と呼び、普通は「mmHg」の単位で、脈動の範囲を高い値と低い値で示す。この単位は、水銀の高さで示される液圧であり、100mmHgならば、水銀を10cmだけ持ち上げることができる圧力だ。水銀の比重は13.6なので、水だったら、この13.6倍。
それから、血液に小さな気泡が紛れ込んだだけで死に至る、というのも事実ではない。詳しいことが知りたければ、ネットで検索すれば良い。
【ミステリィに向かない科学技術】
点滴には関係ないが、「刑事コロンボ」で、サブリミナル効果(わからない人は検索)を利用した殺人の話があった。かつては、これが信じられていたのだ。でも、サブリミナル効果というものは存在しないことが、既に科学的に証明されている。ミステリィのネタは、時代とともに枯渇していく。
最初に思い浮かぶのはDNA鑑定、その次は携帯電話、さらには防犯カメラなどの増加。これらが実現・普及したことで、数多くのミステリィのトリックが不可能になってしまった。
そもそも、躰の一部でさえ、他人とすり替えることはもうできない。かつては、指紋だけが個人を特定する手がかりだったから、入念にそれを拭き取ったり、手袋をして犯行に臨んだりしたものだが、今では髪の毛一本落とせないから、犯人は大変である。どんなに洗っても、血液の反応が出たり、グラスに口をつけただけで、個人が同定できる。しかも、それが決め手となるほど重要な証拠となる。
一方で、かつては供述が重視されたのに比べ、今では自供はほぼ証拠として扱われない。探偵による謎解きで追い詰められ逃走を図っても、それだけで犯人だとは確定できない。今でも、このような結末のミステリィが多い気がするけれど、そんなに簡単に事件は解決しない。
ニュースを聞いていると、「警察が動機を調べています」と語られているが、動機を調べることにどんな意味があるのか、僕には理解できない。もっと気になるのは、「何らかのトラブルがあったものと見て調べています」という文句。人が殺されているのだから、トラブルがあったことは自明であり、わざわざいうほどのことか、と思う。それとも、動機もなく、トラブルもないのに、趣味で殺人を行う加害者の可能性を示唆しているのだろうか?
そんなこともあって、ミステリィ小説は書きにくくなった。昔の話にするか、科学捜査ができない状況(たとえば、嵐の孤島など)を無理に設定するしかない。海外のドラマでも、近代化が遅れているリゾート地を舞台にしたシリーズが幾つかある。この種の物語のクリエイタの多くが困っているのは確からしい。
【落葉掃除とドライブ】
その後、病気は一段落した(医者のお墨付きも出た)ので、庭園内の落葉を集めて燃やす作業を始めている。その合間を見て、庭園鉄道も毎日運行している。僕の担当の犬は、ドライブが大好きで、2日に1度は車に乗せないと欲求不満で元気がなくなる。乗せたら、人(犬)が変わったかのごとく、大喜びし、興奮して騒がしい。対向車とすれ違うごとに1回ずつ吠える。陸上部のコーチがトラックを走る選手たちを激励しているみたいな感じである。反対車線が渋滞していたら、どうなるのか心配だが、幸い、この地では渋滞というものはない。
文:森博嗣