早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」赤裸々に綴る連載エッセイ「私をほどく」第28回。





  



【読書の記憶は常に孤独と隣り合わせだった】

 



 本を読むか、読まないかでいったら読む方に分類されると思う。大抵休日のどちらかは本屋に入り浸っているし、書籍代だけは糸目をつけないようにしている。SNSのイメージもあってか、たまに人から「昔から読書が好きだったんですか?」と聞かれることがある。社交辞令的な質問のときは当たり障りなく答えるが、実際のところの答えは次の通りだ。 



「確かに昔から読書はしていたが、別に本を面白いとか好きだと思ったのはほんとここ最近のことである。」



 私の読書の記憶は常に孤独と隣り合わせだ。



 小学生のとき、学区の境界線のあたりに住んでいたため、登下校はバスに乗るか、親が迎えにくるかの二択であった。都会のようにひっきりなしに運行しているわけじゃないので、一本逃してしまうと次にやってくるのは三十分から一時間後というのが当たり前で、最初はそれまでの一人で過ごさなければいけない時間をどうにかやり過ごしたいという気持ちで、公民館に併設されている図書館に通い始めた。あまり光が差し込まない北向きの室内に、自分の身長をはるかに上回る高さの本棚が所狭しと並んでいた。利用客もそこまで多くないので、常にしんとした冷たい空気に包まれていて、本を探しているときはまるで暗い森の中を彷徨っているような気分にさせられた。

絵本や児童書から読み始め、そこを巣立つころにはかなり大人びた内容のものまで手を出すようになっていた。



 中学生になってからは、喧騒を逃れるために図書室に通い、相変わらずジャンル問わず本棚の端から端まで読みふけった。ただかなりの冊数を読んでいたのにもかかわらず、そのころに読んだ本のことをなぜかあまり覚えていない。かろうじて記憶に残っているのは、高校入試の手持無沙汰な時間に読んでいた宮部みゆきの『荒神』ぐらいだ。面接会場に付き添っていた母親に「あなた、相変わらず余裕なのね」と冗談交じりに愚痴をこぼされたエピソードがあるから印象に残っているだけで、具体的な感想の一つも出てこない。これは推測ではあるが、読書という行為に対して好きも嫌いも感動も生まれてこないまま、紙の上に綴られているものを知識として吸収していただけだったのだろう。でも、その当時はそんな風に自分の読書というものについて考えるほどの思考力もなかったので、気にも留めていなかった。



  



【脳天を突き抜けるほどの衝撃的な読書体験】

 



 高校三年の冬、人よりも入試が早く終わり、何となく居心地が悪くなって図書室に居場所を求めるようになった。ここが私にとっての大きな転換点となる。ようやく中学生から始まっていた受験というものに区切りついたことが、少しずつ本との向き合い方が変化するきっかけとなったのだ。



 受験で使う現代文は「書いてあることをそのまま受け取ること」が最重要事項で、余計な推測や解答者の感情は排除すべきと教えられてきた。使っていたぼろぼろの問題集には「余計なことを考えるな」とでかでかと注意書きを書いていたぐらいだ。

きっと全員がそうではないだろうが、私はなるべく受験に最適化した状態でいたかったので、本を読むときも無意識に同じようにしていたのかもしれない。だからこそ、読む本は評論寄りの内容が多く、小説は何となく避けていた。これまでずっと本が心の底から面白いと感じなかったのは、本自体が問題なのではなく、面白く感じる読み方ができていなかったことが原因だろう。受験が終わった瞬間にそのような試験の点数を稼ぐための呪縛みたいなものから解放されたのだと思う。



 ようやく小説を読み始めるかと思ったときに手をとったのが谷崎潤一郎の『痴人の愛』であった。手に取った理由は単純明快で、「日本史の問題集によく出てきたけど、どんな内容なんだろう」と思ったからだ。特にあらすじすら読まないままページを開いた。初めて読んだときに脳天を突き抜けるほどの衝撃を受けたことをはっきりと覚えている。「こんなに美しい日本語が世の中にあるなんて」と惚れ込んでしまったのだ。一生に一度の恋に落ちたような感覚だった。今でもあの胸のきらめきは忘れることができない。



 この出会いから、本の世界に深くのめり込むようになった。

もちろん、私は気の向くままに読んでいるので、「早稲田文学部ならば読んで当たり前」「本が好きなら知っている本」みたいな作品をいまだに読んでいないことが多い。太宰治の『人間失格』は途中で止まっているし、村上春樹にいたっては一冊も手を出したことがない。いい加減「読んでみないと」なんて思いつつ、何となく先延ばしにしているが、あまり焦ってはいない。何でもかんでも早めに読んでおくのが良いというわけじゃないだろうし、「読んでみたい」と機が熟したときに手を出すので十分だと思っている。



 



【私の中で生まれつつある「新しい変化」】

 



 このような経緯で本そのものを、読書という行為を愛せるようになった。きっと途中で気が付いていなければ、少し毛嫌いをしたまま過ごしていたのかもしれない。その場合はまた何か違う愛する対象を見つけていただけの話だろう。



 実は、最近また新しい変化が私の中で生まれつつあるのだ。



 それについては次回解いていきたいと思う。



 〈なぜ、最近本を恐ろしいと思うようになったのか〉ということを。





(第29回へつづく)





文:神野藍





※毎週金曜日、午前8時に配信予定 

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