森羅万象をよく観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。
第7回 鬼に金棒、意見に理由
【理由がなければ理解してもらえない】
その後、おかげさまで(という科学的根拠はないが)、ずっと体調は安定している。毎日ぐっすり眠れて幸せだ。落葉掃除も80%くらいの出力でのんびりとやり遂げている。工作はいつもの半分くらいに自重。小説の仕事はしていない。ただ、今週からゲラを読まないといけない。小説でもエッセィでも、自分の書いた文章を読むほどつまらない時間はない。仕事だからしかたがない、という言い訳で自分を納得させる以外に手はない。
校閲の人がときどき、「表記の揺れ」について指摘してくる。たとえば、僕の場合、「何」と漢字で書いたり、「なに」と平仮名で書いたりしている。どちらも読めるし、間違いではないけれど、気まぐれで定まらないから「揺れ」ていることになり、少々みっともない。プロの物書きとしては避けなければならないのである。
しかし、これには理由がある。僕は「what」の意味なら「何」とし、「any」の意味なら「なに」と書く。そういう自分のルールに従っている。だから、「何が心配ですか?」「いや、べつになにも」となる。場所の「前」「後」は漢字だが、時間の「まえ」「あと」は平仮名にしている。swingは「ふる」で、shakeは「振る」と書くから、「首を左右にふる」「首をぶるぶると振る」となる。「繰り返す」は動詞だから「り」を送るが、「繰返し」という名詞なら「り」を送らない。
このまえ、文章は論文を書くことで覚えたという話をしたけれど、自分だけなら面倒くさいルールはいらない、と感じる。どっちだって良いじゃないか、と思う方だ。
しかし、学生が書いた文章に赤を入れる場合、「ここは漢字に」「これは平仮名」と直すときに、指導する側が「揺れ」ていては困る。学生から、「どうしてここだけ漢字なのですか?」と質問されたときに、明確な理由を答えなくてはいけない。たとえ勝手なルールであっても、従うべき規準があれば、以後はそれを準拠するだけで楽ができる。つまり、「ここは、なんとなく平仮名の方が良いような気がする」という曖昧さ、あるいは個人の気分は、他者に理解してもらえない。
これは、広く応用できる。たとえば、意見を述べるとき、なにかの要望をするとき、相手に納得してもらえるだけの説得力が必要だが、「なんとなく」とか「そうしてほしい」とか「その方が好ましい」といった感覚ではなく、なんらかの「理由」が必要であり、その理由は、個人の感情・感覚とは無関係な、誰でも判断ができる規準となる表現でなければならない。この点が、一般的に理解されていないと、しばしば感じるところである。
【意見の対立の典型的パターン】
どこかの並木を開発のために伐採することになり、これに対して反対運動をする。反対する側は、「市民の憩いの場だった。
また、もっとよくあるパターンとして、次のようなものが挙げられる。
まず、批判する側が、「これこれこのような疑惑が持ち上がっている」と指摘すると、批判された側は、「調査をしたところ、そのような疑惑は確認されなかった」と応じる。すると、批判側は、「疑惑を否定した」「疑問に答えていない」と反発する。
この場合、「疑惑は確認できなかった」と疑問に答えているのだから、疑惑を否定しているわけではないし、また答えていないわけでもない。次に、批判側がしなければならないのは、疑惑の証拠を示すことである。
もう少し一般化すると、批判側が「このような問題があるがいかがか?」と疑問を投げかけると、批判された側は、「このように対処している」と答える。すると、批判側が、「そんな解決法は信じられない」と反発する。このケースが非常に多い。
この場合も、信じるか信じないかは個人的な感覚であるので、それで相手を牽制することはできない。信じられないのなら、何故信じられないのかという理由を、できれば証拠を示して述べるべきである。
多くの場合、なにかの意見に反対する側も、あるいは賛成する側も、自分の感覚的な判断を主張しているだけなので、その時点で議論が止まってしまう。議論が止まると、対立がそのまま持続するだけで、解決には至らない。
また、「このような危険が考えられる」と反対し、「その危険を最小限にする努力をする」と答える、といったパターンも多い。もう少し表現を赤裸々にすると、「絶対にこうだと考える」と「そうは考えられない」の対立である。両者ともに、考えるか考えないかの違いにすぎない。何故そう考えるのか、という理由がまったく示されない点に問題がある。
問題は、このような対立を「議論」や「意見交換」だと認識していることだ。両者が歩み寄らず、睨み合っている状態では、解決を導く要素がない。
【問題解決を遅らせる文化】
結局のところ、両者が解決しようと考えないかぎり、問題は解決しない。逆に見ると、解決しないままの問題は、両方か、あるいはいずれかが、解決したくないと考えている。解決したくないのは、相手が気に入らないからであって、問題が生じている対象はどうだって良い、と位置づけている。気に入らないから気に入らないのだ。その相手がいなくならないかぎり、この種の対立は続く。
そういうわけで、このような問題は「謝罪」では解決せず、お決まりのパターンは、トップが辞任することである。問題を解決しようとせず、相手を排除することに主眼があるため、すぐに「辞任するおつもりはありませんか?」と尋ねることになる。
日本にこれが多いように感じるのは、根拠のない感覚かもしれない。ただ、日本には、「禊(みそぎ」の精神が古来ある。
それを繰り返してきた歴史があるようにも思われる。具体的な対処をしないで、ただ人間を入れ替えるというのは、コンピュータでいうと、エラーが出たらリセットする、という対処に似ていて、その場はとりあえず復帰できるかもしれないが、根本的な問題解決にはならない。文系・理系とあまりいいたくないけれど、この解決は、文系的な解決であり、理系的には解決ではない、とも感じるが、いかがだろうか?
そう考えてしまうのは、理系の問題には、「これが原因」という部分が存在するからだ。だから、そのエラーの原因、つまりバグを取り除けば良い。しかし、文系の問題には、そのような確固とした原因が存在しないのかもしれない。僕にはそのあたりがよくわからないから、想像で書いている。
つまり、問題を解決したくないのは、そもそも問題の原因が存在しないからかもしれない。原因がある問題と、原因がない問題があって、まずはその見極めが必要だろうか。
もし、本気で問題を解決したいときは、対立する相手と合意できる妥協点を探るしかない。相手が、ただ主張したいだけの人の場合、それは「対立」でも「問題」でもない、と認識する以外にない。
【犬のシャンプーをした】
朝から100立米ほどの落葉をドラム缶6基で焼却した。そのあと、僕が担当の犬をシャンプーした。再び庭に出て、落葉をまた100立米ほど袋に集めた。このあと、重さ10kgのブロワ(エンジンで空気を噴出し、落葉を吹き飛ばす道具)を背負って、掃き掃除の予定。秋は忙しい。ほとんどが肉体労働。若いときから、コンクリートを練る以外では、肉体労働というものに縁がなかったから、最近になって「良い汗」の意味が少しわかった。
本連載のまえに書いていた『静かに生きて考える』がもうすぐ本になる予定だが、その再校ゲラが届いた。まずは、初校ゲラと突き合わせて、指示した修正がされているかをチェック。これに3時間近くかかった。こういう文字を読む仕事が苦手である。どうして作家になったのか、と不思議でならない。
好きで得意なものが、実は仕事として向いていない。逆に、嫌いで苦手なものが、仕事として向いている。そういうことが世の中は、ままあるようだ。
文:森博嗣