早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【どうしようもないほどの快楽と恐怖心】
寝食を忘れて本を読み耽っているときがある。ページをめくる手が止まらなくて、数百ページの本もほんの二時間くらいで読み終わってしまい、少しだけ「途中でやめておけば良かった」なんて思ってしまう。ケーキの上にのっている苺は最後まで取っておけるのに、本だけはそれができないのだ。
本を読んでいるときは他のことを考えずに、目の前の綴られている言葉を咀嚼することだけに集中している。読み終わった後で、「そういえばあの言葉良かったな」と思い返してメモに打ち込んだり、「ああ、さっきの自分だったらどう考えるだろうか」なんて気持ちを巡らせたりはするけれど、最中はずっと本にのめり込んでいたくて、完全に離れたときでしか行わないようにしている。
研鑽されつくされた言葉と思想が私という存在と交わって溶け合う瞬間に、私の頭の中ではどうしようもないほどの快楽と、それと同じくらいの恐怖心が一度に押し寄せてくる。この瞬間がたまらなく愛おしく感じてしまうのだ。
きっと私は本が好きなのだ。
それに比べると本に対しては大きく括るならば好きではある。でもその好きは綺麗なものではなくて、もっと感情がぐちゃぐちゃに入り混じった、それこそ怖さとか苦しみ、それ以上の敬いと愛、うまくは表現できないが、恋愛の縺れの末に生まれてくる依存心のようなものに近い。きっと私は本が与えてくれるものの虜になってしまったのだ。
本を読み始めるとき、覚悟の現れからか不思議と背筋を伸ばしてしまう。私にとっての本は今までに出会ったことがない価値観や思想、知識を運んできてくれる存在である。それと同時に、私の人生そのものや腹の奥底に隠した不安や悩み、どろどろの汚い感情の全てを見透かしてくる存在でもあるのだ。そのため、常に〈生身のわたし〉と対峙しながら読み進めなければならず、それは本を読み終えた後にも暫くはその状態が続く。
彼らは「お前はどうするんだ?」「お前が放っておいた感情をそろそろ考えるときじゃないのか?」と見たくもない現実を目の前に並べ、私の心に刃物を突き立てながら、半ば強引に回想と思考の道に引きずり込んでいくのだ。もちろんその過程はどうしようもなく苦しくなる。
【鈍感で無知なままでいる方が幸せ?】
目の前の道に陰りが見えたとき、たまに思うのだ。この世の中、ある程度鈍感で無知なままでいる方が幸せではないかと。自らが置かれている状況や抱えている心情を事細かに把握し言葉で表現しているから、こんな思考の濁流に飲み込まれているんじゃないかと。このように考えつつもそうしないのは、鈍感で無知なままでいることの恐ろしさを知っているからだ。
自らが起こした突飛な行動や説明がつけられなかった感情の多くは、正体を丁寧に解き明かすことでそれらの抱える怖さを乗り越え、人生の血肉として昇華してきた。もし、そのまま放置したとしたら気が付かないうちに同じ人生のステージで、同じ成功と失敗を繰り返し、これまでと同じように自分と他者を傷つけて、「ああ、私は何でいつもこうなんだろう」と愚かな嘆きをこぼして生きていくのだろう。
ああ、想像しただけでぞっとする。とても楽だけど、思考が溶けていく液体で満たされた水槽の中にいるみたいだ。そんな場所に留まりたくなくて、様々なものを吸収することで言葉と知識を得た。得体の知れないゆえに対処できなかったこと、けじめがつけられなかったことが一つずつ減っていくと共に、自分の足取りが軽くなるのを感じたのは事実である。
気がつけば、ちゃんと一人で歩けるようになった。目の前の不幸ばかりを嘆いていたところから、ずいぶん遠くまで来た。ただ、私がこれからも真っすぐ歩んでいくためには、本を読むことや何かから表現を吸収し続けないといけない。私と対峙しながら、私への思考を深めていく。きっとやめてしまったら、また同じ道を延々に歩くことになるだろうから。
今日も明日も、目の前の本に、言葉に、刃を突き立てられようとも手を止めることはない。私にとって本はどうしようもなく愛しく、どうしようもなく恐ろしい人生のパートナーなのだ。きっとこの関係はずっとずっと続いていくのだろう。
(第30回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定