早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、しずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」詐欺容疑で逮捕された21歳〝頂き女子〟 。彼女の最終陳述が〝私〟の心のざらつきにひっかかった。連載30回。



✴︎連載全50回分を加筆修正し、書き下ろし原稿を加えて一冊に編んだ単行本『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』が6月17日に発売決定・予約開始!作家・鈴木涼美さんも絶賛した衝撃エッセイ!





 



【「大切な人に捨てられるかもしれない」】

 



 ずっと一人ではなかった。そう気がついたのは少し時が経ってからであった。



 ぽつぽつと縁が切れていく中、「こうやって孤独になっていくんだ」と勝手に思い込んでいただけで、私の周りには純粋な好意を持った善良な人間がきちんと存在して、彼らはしっかりと私の魂を繋ぎとめていたのだ。凍えてしまうような寒さのまっくらやみの海に落ちて、そこでずぶずぶと沈んでいかないように。



 



 先日電車に揺られているときに、画面をスクロールして流れてくる話題をぼんやりと眺めていた。どれもこれも気が滅入るような話題で思わずため息をついてしまいそうになる。その中で、スクロールする指をぴたっと止めてしまうような記事を見つけた。



 それは“頂き女子”と呼ばれる、色恋をかけたり、情に訴えかけたりして男性たちから大金を巻き上げる女の子たちに関することであった。以前歌舞伎町に通っていたころの顔見知りに、似たような手口で大金を巻き上げている女の子がいたのもあって、何となく動向は追ってしまっていた。



 今回のニュース記事では逮捕された中の一人である、21歳女性の最終陳述の内容が詳細に記載されており、興味を惹かれて読み始めた。彼女は陳述の中で周囲の存在について繰り返し触れていた。 



 「私は孤独じゃなかった」



 「大切な人に捨てられるかもしれないと思いました。でも、それは未然に終わりました」



 彼女が発した言葉が私の心にある未だざらついている部分に引っかかる。一瞬なぜだろうなんて考えたけれど、すぐにその答えは見つかった。彼女が得た気づきと同じことを、私も同じように得ていたからであると。



  



【彷徨い、不安定だった私が正気を失わずにいられたのは】

 



 20代前半の多感な時期に、私は同年代の大多数の人間とは違う環境に身を置いていた。そこは世間一般と比べて、様々な物差しが異なっている場所であった。普通は人に見せるべきものではないセックスを全世界に公開することを生業とし、皆が一か月のバイトで稼ぐ額以上を一日で稼いでしまう。日々現場スタッフやファンからちやほやされる一方で、赤の他人からこれでもかというぐらい陰湿にこき下ろされ、にこにこと微笑んで寄ってくるのはセックスがしたいだけの馬鹿かちょうどよく利用したい大人たちが大半だった。



 これまで教えられてきた道徳が役に立たないことはすぐに理解したし、本来私を支えるはずの自己肯定感みたいなものは積み上げては崩されての繰り返しだった。本名と芸名を行ったり来たりする中で、私の価値観はどこにだって、それは良い方向悪い方向、どちらにも滑り落ちていけるほどに不安定な状態であたりを彷徨っていた。 



 そんな状況で、ある意味正気を失わずにいれたのは、私のことを「渡辺まお」とは認識していない友人たちのおかげだった。当たり前のことだが、私が「渡辺まお」だということは皆が知っていた。しかしながら、彼らはどんなときでもたった一人の、私個人として扱ってくれており、私がそうして欲しいと頼んだわけでもないのに、いつだって無断で私のテリトリーに土足で踏み込んでこようとはしなかった。仕事の話を根掘り葉掘り聞かれることもなかったので、その時間だけは普通の大学生でいることができたし、加えて後から聞いた話だが、外部からの面倒な誘い―「あの子と友達なら飲み会呼んでよ~」みたいなものは私の耳に入る前に全て断ってくれていたらしい。余計な神経を使わずに日々を平和に過ごせたのは間違いなく彼らのおかげだ。



  彼らがそのように振る舞うのはもちろんデビュー後だけの話ではない。私が男にそれなりの金額を貢いで空虚な恋愛ごっこにかまけていたときや、突然AV女優としてデビューすると宣言したときも同じであった。個人的な善悪の判断をつけることなく、ただ静かに、「無茶だけはしないでね」と声をかけてくれたのを覚えている。



 もしかしたら「大事な友人ならそういったことをやる前に止めるべきなのでは」なんて思うかもしれないが、当時の私にとっても、今振り返ってみても、それは必要なかったと断言できる。誰かの言動や行動を理由に何かを断ち切るのはとても便利で簡単ではあるものの、そこにきちんとした己の意志がなければ、表面的には異なるとも、本質的に似たようなことを繰り返し、何も変化しないままになってしまうからだ。

その点、彼らは私が自分で判断をつけるまで何も言わないものの、「何かあったら言うんだよ、いつでも話聞くから」とどっしりと構え、私を孤独にはさせなかった。そうした絶対の安心感があったからこそ、激動の日々の中でも正気を保てたし、〈わたし〉という輪郭を維持できたのだと思う。



 たまに、想像してしまうときがある。これまであったあらゆる分岐点を全て悪い方向に、「私なんて孤独だ」と勘違いしたまま突き進んでいたらどうなっていただろうかと。きっとただただ恐ろしい怪物になり果てていただろうなと想像し、少し怖いけれどそんな自分にも出会ってみたかったと思ってしまう。



  



【無理やり介入するだけが愛じゃない】

 



 ある一定の年齢を超えてから、無理やり介入するだけが愛じゃないと思いはじめた。どんなに大事な相手であれ、たとえそれが恋人や家族であっても、その相手は一人の人間で、自分の行動や言動に対して責任をもって始末をつけられるし、たとえ現時点でそうは思えないにせよ始末できると信じて待つのも、一種の尊重であり、愛ではないかと思ってしまうのだ。



 人間は他人が手を尽くしても簡単に変えられる存在ではない。自分で変わろうとしなければ変われない。その機会を奪わずに、いつでも頼れる距離感を保ち続けてくれた友人たちには感謝以外の言葉が出てこない。彼らがそうしてくれたように、私も同じようにするつもりだ。きっとそれが彼らに対する唯一の恩返しだと思うのだ。



 



(第31回へつづく)





文:神野藍





※毎週金曜日、午前8時に配信予定 



 

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