早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【「まお」とわたし。虚構と現実の狭間で】
「私を忘れて、幸せになるな。」
カメラの前ではしたなく腰をくねらせながら、不敵な笑みを浮かべるあの子がわたしに呪詛を吐いた。彼女はおもむろに私に近づいてきて、耳元で静かに囁く。
「どんなときでも、私がわたしの肩代わりをしてあげたよね?ほら思い出して、ほら。」
「一番逃げ出したいところから連れ出して、バランスを保ってあげていたのに。そうやって汚いって、おかしいって私のことを捨てるんだ。」
「おまえも大事な人ができたときに同じように捨てられてしまえ。」
けたけたと甲高い声で笑っている。かつての半身は誰よりもわたしの弱みをぎゅっと握っていて、彼女が望めばいつだってわたしの精神の灯火は簡単に消すことができるのだ。どこにも逃げることができず、わたしの魂に彼女の鎖が巻きついて離そうとはしなかった。
2020年2月。
虚構と現実の狭間で、彼女はいつだってわたしの手を握って隣で微笑んでいた。現場の敷居をまたいだ瞬間に、わたしから彼女にすっと入れ替わる。わたしが考えていることを彼女に適した表現方法―身振りや言葉で出力する。彼女はわたしよりずっと軽やかで、人の懐に入り込むのが上手だ。目の前にいる人間に対して、決められた筋書き通りに好きにも嫌いにもなれたし、「心の底からあなたのことが大好きだよ」なんて、挨拶と同じぐらい簡単に吐いていた。
わたしが外から彼女を見つめ、わたしが考えたように彼女は動く。そうやってセックスを構築していく。わたしが連日のように赤の他人と肌を重ねられたのも、彼女が全ての感情を肩代わりして、一身にダメージを受け止めてくれたからだ。何度もえずいて涙が溢れたあの日も、一刻もここから立ち去りたいと願ったあの日も、わたしは彼女を身代わりに捧げることで、現実を直視することなくずっと逃げてきた。そんな時間を積み重ねていくごとに彼女は〈救いを求める存在〉であり、〈わたしにとっての嫌な記憶を封じ込める存在〉として、わたしの中を占拠するようになり、わたしは彼女の深みに落ち、離れることができなくなっていった。
【無意味なセックスと八方塞がりの空間】
所詮、芸名が作り上げた人格の一つで、引退して名前を失えば「まおちゃん」は自然と消えていくものだと思っていたが、それは大きな間違いであった。わたしがずたずたにした無残な姿のままで隣に居座り、わたしの喉元にぴったりと吸い付いて、「もう用済みなの?」とにっこりと笑ってみせた。
きまって彼女はわたしが幸せになろうとした瞬間にふいに現れて、嫌な夢を見せるようになった。わたしが少し離れていたところで眺めていた凄惨な行為を、当事者、つまりは彼女として追体験させられる内容だ。本来、わたしがその当時抱えなければいけなかった苦しみや悲しみといった感情たち、その全てを混ぜ込んだ狭い水槽の中にわたしを突き落とし、溺れさせる。彼女は藻掻いているわたしを見て、静かに告げるのだ。「一人で幸せになろうとしないで。
時折、無意味なセックスをするようになった。行為の後に「ああ汚い」「あさましい」と思うことが一種の安心を生んでおり、内容が歪であればあるほどその夜はよく眠れた。もちろん、そんなわたしの状況が普通でないことは分かっていたけれど、どうすることもできずに、ただただ終わりがくること、何かの間違いで〈渡辺まおという存在そのもの〉がこの世の中から消え去らないかと祈ることしかできなかった。あんなに好きだった存在がこんなにも憎く思えるなんて、おかしな話だ。
2023年4月。たまたま取材で知り合ったライターの方に、この連載を担当してくださっている方を紹介していただいた。「神野さんのこれまでについて書いてみませんか」と言われたときは、光が差し込んだかのような感覚に陥った。その頃のわたしは四方八方が塞がれた水槽の中で、彼女が暴れ出さないように機嫌をとりながら、抜け出す手立てもなくのうのうと生きていた。常に酸欠を起こしているような空間で頭がぼんやりとしつつも、これが偶然巡ってきた最後の望みであることははっきりと自覚していた。これまでの人生や彼女と過ごした時間を書いていくことで、わたしと彼女のがんじがらめになった状態を少しでも解すことができたならば、再び彼女を愛することができるかもしれないと。あの頃彼女がわたしを救ったように、今度はわたしが彼女を救わないといけない。
【塞いでいた過去の傷をこじあけた瞬間に】
当然、そんなことをすれば彼女の逆鱗に触れてしまう。初めの頃は、涙でぐちゃぐちゃになり、視界がぼやけて書けなくなってしまうことがよくあった。「私を知った気になるな」と彼女が騒ぐたびに、「わたしが一番知っている」と真正面から向き合い、塞いでいた過去の傷を無理やりこじあける。わたしと彼女の身体の真ん中を掻き切って、どくどくと流れ出した血をインクにして文字を紡ぎ続ける。
書き続け、絡まりあった糸を一つ一つ解きほぐすうちに、あんなに恐ろしかった彼女が、本当は小さくてか弱い存在だということに気がついた。それは不思議と20歳のころの、誰かに必要とされたくて、寂しがり屋で、どんなに傷ついたとしても自分を犠牲にして頑張ってしまう、そんなわたしによく似ていた。ごめんねとありがとうを伝えると、彼女は一番初めに見せてくれた笑顔を浮かべた。わたしの中で彼女の感覚が薄まっていくのを感じた。誰よりも近くにいてくれた彼女との別れは、苦しいものではなく、なぜかわたしに力を与えてくれるようなものだった。
2023年12月。私は海にいる。ちょうど初めて彼女と出会ったのと同じぐらい静かで冷たい海だ。
私の一番愛おしい存在だ。彼女がいるから今の私が存在して、彼女がいたからこそ出会えた世界と、出会えた人間がいる。けれど今、彼女は隣にはいない。少し離れたところで私を見守ってくれている。
書くという行為はわたしと彼女を救ってくれた。けれど、これで終わりではない。
明日も明後日も、年が変わろうが私は私の血をインクに、言葉を紡ぎ続ける。私が生きている限り、その行為に終わりはないのだ。
読者の皆様、『私をほどく』を毎週読んでくださりありがとうございます。私の過去について書くというテーマで始まり、正直なところ私もここまで続くとは思いませんでした。「読んでくれる人がいる」というのはここまで人を奮い立たせるのか、と実感しております。
文:神野藍
✴︎ 第33回は1月12日に配信予定です。