『検証  ナチスは「良いこと」もしたのか?』という岩波ブックレットが発売されたのを機に、「ナチスは良いこともした」、と受け取られる発言をすると、この共著ブックレットの著者の一人の信奉者と思われる人たちから、ネット上で集中攻撃され、「お前は、ナチスを肯定するネトウヨだ」、と人格攻撃される事態がたびたび生じている。私も少し前に、被害にあった。

「別にナチはなかなかいい所がある、と言いたいわけではない。神でもないのに、ナチスは一切良いことをしなかった、という主張を受け入れるか否か、他人に二者択一の選択を突き付けるような行為がおかしい、と言っている」と説明しても、彼らは聞く耳を持たず、「お前それでも大学教授か」「こんな程度か」「これで全体主義の解説本書いているなんて、ヤバい」、と私が嫌がりそうな、ありとあらゆる罵声を浴びせかけてくる。彼らは一体何のために、こういう「反ナチ」活動をしているのか。こういう言動がどうして変なのか考えてみた。



 念のためにもう一度言っておくと、私自身は「ナチスが何か良いことをやった」と主張したいわけでもないし、そういう主張を擁護したいわけでもない。むしろ、そういうことを言う人とは距離を取りたい方である。私のナチスに対する好き嫌いの話ではなくて、「ナチスは何もいいことはやっていない」と言われて、「そうかな、いろんな側面を細かく分けてみれば、少しくらいはいいこともしているんじゃない」、という素朴な疑問を呈する人に対して、そういう発言を許さず、「お前は分かってない。これを読んで勉強しろ。そんなレベルで発言するな」、などと強要する行為を問題にしているのである。



 そして、そうした傲慢な態度の“根拠”になっている、「ナチスは全く良いことをしなかった」という断定は、いかなる意味でも学問的な態度でなく、宗教めいている、とも言っておきたい。疑似宗教的な前提に基づいて、意見が違う(ように見える)人を集中攻撃して精神的に参らせ、黙らせるのが、真剣にナチズムについて学び、考えようとする人間のやることか。まるで異端審問だ。



 「ホロコーストの問題があるので、ナチス政権は全体として肯定的に評価できない」と、「ナチスは一切良いことをしない。絶対悪だ」は全く別次元の主張である。ナチ・プロ的な活動をしている人たちは、前者ではなくて、後者に拘る。無論、「ナチスは良いことをしない」が単なる言い回しで、実質的に前者と同じなら、目くじらを立てるつもりはない。また、世の中で言われているナチスがやった「良いこと」のことごとくを否定したいと思い、そういう意見を表明することは、それこそ本人の自由である。それを、キリスト教の教理問答のような形で、他人に強要しておきながら、正義の味方のふりをする態度が傲慢極まりないと言っているのである。





 



 このように言うと、「お前はブックレットを読まないで批判している。ナチスがやることが全て悪だとは言っていない」と騒ぎ出す連中がいる。「ナチスは「良いこと」もしたのか?」というタイトルは明らかに全否定を示唆しているし、著者の一人の田野大輔君――彼が若手で、あんな尊大ではなかった時代を知っているので、こう呼ぶ――の信奉者たちは、そういう態度を取っている。ブックレットが異端審問の金科玉条になっており、彼自身がそれを煽っているふしがあることが問題なのだが、彼の信奉者がしつこいので、該当箇所を引用しておく。ブックレットの三頁で、



 



「現代社会においては、ナチスには良くも悪くも『悪の極北』のような位置付けが与えられている。ナチスは『私たちはこうあってはならない』という『絶対悪』であり、そのことを相互確認し合うことが社会の『歯止め』として機能しているのである」





 ナチスに対する批判が「社会の歯止め」であるというのであれば、私も同意するが、「絶対悪」とはどういう意味であろう。

悪いことしかしない、善は一切やらない、ということではないのか。彼らはそんな深い哲学的意味で言っているわけではなく、気構えとして“絶対悪と思う”という程度のつもりで言っているのかもしれないが、肝心なところで、そういう曖昧な言葉使いをする感覚は私には受け入れがたいし、教祖様が「絶対悪」と言っているのに、それを無視して、そんなことはおっしゃってないと強弁する信者たちはどうかしている。「ナチスは良いことを一つでもしたか」を検証すると表明しておきながら、「絶対悪」がどういうものなのか明らかにしないのはダメだろう。



「絶対悪」は哲学的過ぎて定義できないというのなら、肝心なところで、こんな宗教じみた言葉を出すべきではないし、少なくとも、自分たちが何をもって「善/悪」を判定しているのかを最初に明らかにすべきだが、このブックレットのどこにも判定基準は示されていない。



五頁では以下のように述べている。



 



「善悪を持ち込まず、どのような時代にも適用できる無色透明な尺度によって、あたかも『神』の視点から超越的に叙述することが歴史学の使命だと誤解している向きは多い。端的に言ってそれは間違いだし、そもそも不可能である」



 



 その通りであるが、逆に、開き直って、勧善懲悪の判定をする歴史書も普通はないだろう。歴史家の価値観が記述に反映するのは致し方ないことだが、まともな歴史家なら、価値判断を前面に出すのなら、自分の判定基準を最初に示すはずだ。ましてや、ナチスが「良いことをした」という見解を全否定しようというのだから、自分の「善/悪」の判定基準を誤解のないよう、最初にはっきり示すべきだ。でないと、何を証明する本なのか分からなくなる。彼の信奉者たちはこの点を一切に気にしていない。







  



 第四章~第八章にかけての、よく知られたナチスの政策の評価をまとめた部分についてはさほど違和感はない。

従来から言われていること、歴史の教科書類に書かれていることをまとめ、比較的ナチス政権に対して厳し目の意見を強調する形で参照しているだけだからである。しかし、ナチスの政策がプラスなのかマイナスか判定する尺度はどこにも示されていない。ナチスの功績とされるものには、これだけ負の面があると指摘されているよ、と示唆しているにすぎない。基準の取りようによっては、「良いこともやった」と言えそうな記述さえある。例えば、四六頁では、アウトバーン建設の経済効果について、「効果は限定的だったと判断するのが妥当だろう」と述べられているが、これは「良いことをしなかった」もしくは、むしろ「悪いことをした」ということなのだろうか。だったら、どれくらいの「効果」があったら、「良いことをした」ことになるのか、正解は何か、という疑問が出てくる。



 私がこういう疑問を呈示すると、信者たちは、「答えは出ている。お前はレベルが低い」と騒ぐ。この人たちはどういう教育を受けてきたのか、と思う。



 アウトバーンの雇用効果の正解は、経済学のプロに聞いても得られないであろう。いろんな前提条件があるので、はっきりした答えを出すのは無理だろう。それを素直に認めて、ポジティヴな面もあると言っている人と、焦点を絞って議論すればいいのである。

「答えは示された。お前は遅れている。黙れ!」、というのはおかしい。



 先ほど述べたように、歴史の叙述に、「善/悪」という概念を開き直るような形で持ち込むのは論外だが、どうしても「善/悪」について語りたいなら、対象を絞り込む必要がある。「ナチス」とは具体的に誰か、党か国家か。党の場合、一般党員やヒトラーに反逆した人まで含むのか、国家の場合、一般国民や公務員まで含むのか。あるいは、ヒトラー個人や幹部だけを指すのか。幹部という場合、どこまで含まれるか。



 どの範囲(分野と時期)、どの側面(倫理的な視点、経済効率的視点、政治的視点、エコロジー的視点)、誰にとってかも、特定しないと意味がない。少なくとも、ナチスの国家運営には、ブックレットに扱われている以外にも、金融や司法、治安、国防、治水土木などの分野がある。「経済」に関係するあらゆる政策を「経済政索」と一つにまとめて、一九頁で全て語ったことにするのは乱暴すぎないか。いずれのポイントについても、◇◇には経済効果があったと言われているが、それは〇〇したおかげであり、それには△△の副作用が伴ったというような書き方になっている。

正解は何なのかが示されていないので、「良いことはしていない」と証明されたとは思えない。



 信者たちは、そんなのは難癖だ、そんな細かいこと言わなくても大体分かる、というのだろうが、その“大体”を根拠に、違う見方をする人を「ナチス肯定者」として責めるのだから、どうかしている。 





 「良い」という言葉を強引に定義すれば、「ナチス」は絶対に誰にとっても「良いこと」をしていないことにできるかもしれないが、それは学問的に意味がないし、この世界に、絶対的な悪の権化が存在するかのような印象を与えることになる。絶対的な悪の権化は、殲滅しなければならない、となる。それこそ、“ナチス的”ではないか。



 いかなる意味でも「善」をなさない、「絶対的な悪」というのは、この世に存在し得ないし、もしそれが生身の人間として実在するとしても、それが誰か見抜くことができるのは神だけだろう。私たちには、他人の本性を見抜くことなどできないし、他人の行動の全てを把握することさえできない。



 滅ぼすべき「絶対悪」(=ユダヤ人)を実体視したから、ナチスの行動はどんどん、民族絶滅の方へエスカレートしていったとは考えないのか?歴史上の集団虐殺のほとんどは、それに起因するのではないか?



 「絶対悪」という概念を哲学的に掘り下げて考えるのはいいが、実在する人間を「絶対悪」の化身と見なすのは、それがナチスの最高幹部であったとしても危険である。何故なら、その人物を基準に、絶対悪人の属性を特定し、それに当てはまる人間を探したり、自分にはその要素がないと安心することに繋がるからだ。ナチ・プロたちは、「ナチスは少しでも良いことをしたと思うか」、と問いただし、「イエス」と答えた相手を叩きのめすことが正義だと思っている。「ナチス」を、他人を悪魔化し、自分を正義の味方にするための尺度にしている。「絶対悪」という言葉は、それと戦うものは、「絶対善(正義)」であり、何をしても許される、という錯覚を与えやすい。



 ナチスを肯定しようとするネトウヨを封じるためには、こうした強圧的なやり方も仕方ないと言う人もいる。しかし、そんなことを言い出せば、「全体主義の危険を未然に刈り取る」ための言論弾圧も正当化される。本末転倒だ。全ての人に、ナチスについて「正しい語り方をしろ」というのは傲慢であるだけでなく、危険である。ナチスの財政・金融政策等を学んだ人が、ナチスの政策を全体としてどう評価するかは、本人に任せるしかない。それが自由主義社会だ。ナチスがやったことを一つ一つ分解して、どう評価すべきか考えることを許さず、「答えは出ている。これに従え」と口封じするのは、自由のための戦う人のすることではない。そんな口封じ、教理問答が当たり前の社会は既に、自由主義社会ではない。



 これは「統一教会問題」と共通する点である。統一教会のやることに、少しでも肯定的なポイントを指摘したり、解散命令請求に問題があったと述べたりすると、「お前は壷(信者)だな」、と異端審問にかけられる。「ナチス」について肯定的なトーンで語れば、異端審問によって、言論の自由を否定されても仕方ないように、統一教会信者やその“シンパ”は言論の自由の適用対象外扱いされる。



  “敵”を悪魔化し、殲滅することが正義だと思い始めたら、自分の方が悪魔になっている、という、九〇年代には当たり前だった議論が、今ではほとんど通じなくなっている。



 



文:仲正昌樹

編集部おすすめ