森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。
第11回 余計なものを持つことの価値
【もったいないから捨てない】
髪が長くなっている。放っておいても伸びるのだから、僕のせいではないが、僕のものではあるから責任は僕にある。といっても、誰にも会わないし、外に出るときは帽子を被り、フードを被っているから問題ない。長州力くらい長くなったが、長州力が通じないかもしれないし、僕自身、長州力をよく知らない。
僕が面倒を見ている犬は、首の周りに白い毛がふんだんにあって、マフラかショールをしているような具合だが、シェルティのこの白い首の毛は「カラー(つまり、襟)」と呼ばれていて、白い毛が首を一周している子のことを「フルカラー」という。フルカラーのシェルティは、少し値段が高くなるのだけれど、コンテストに出るわけでもないので、大部分の人には関係がない。
奥様(あえて敬称)や長女が、さかんに犬の服を通販で買っている。僕の犬にも着せようとする。防寒のためではなく、汚れを防ぐために着せている。
振り返って我が身を鑑みるに、タートルネックの服に頭を通すと、長い髪が出きらないから、最初は短い髪のように見える。しかし、動いているうちに、髪が外に出るのだ。犬と同じだな、と思った。なんの不自由もない。まあ、それだけの話である。
どうして髪が長くなったのかというと、その理由は、奥様が足を怪我したため切ってもらえなかったからだ。寒くなるまえにウッドデッキで散髪してもらうつもりだったが、時期を逸した。今は寒くて散髪どころではない。
髪の毛とか髭とか爪などは、長くなったら切る。これを「もったいない」からといって躊躇する人は滅多にいない。長期間かけてロングヘアにした人だったら、たしかにもったいない。切った髪の使い道もあるし、その目的で伸ばしている人もいる。
「もったいない」というのは、日本人らしい感覚だといわれる。都会の人は住む場所が狭いから断捨離するしかない、と風の噂に聞くけれど、田舎へ行くと、納戸とか納屋とか土蔵とかがあって、古い品々がいろいろ収まっている。いつか使えるだろうと、ものを取っておく習慣が見受けられる。使えるものは捨てない、というポリシィなのだ。
【膨大なガラクタを眺める毎日】
まえから何度も書いていることだけれど、僕のガレージや倉庫や地下室にある夥しい数のおもちゃは、誰が見ても絶句するほど凄まじい。僕自身も、「よくも、まあ、こんなに」と溜息が出るほどである。
これらの収納スペースだけでも、平均的な住宅の床面積よりも広い。収納スペース専用の掃除機が3機も常設されているし、ものを移動させるための専用の台車も4つほどある。ゆくゆくは鉄道を敷いて、このスペースで乗って楽しもうかと考えているほどだ(地下倉庫で実現すれば、正真正銘の地下鉄になる。おそらく、個人の趣味として世界初となるのではないか、と妄想している。否、妄想ではない。既に線路は買ってある。
一年で一番寒い時期なので、屋外では遊びにくいため、最近はガレージや地下倉庫をぶらぶらと歩いている。地下はボイラ室がある関係で、暖房がないのに暖かい(ちなみに、夏は涼しい)。
「お、これは!」と発見するものが必ずある。
図書館や博物館が好きな人なら、この物体というか、ヴァーチャルではない現実の品々に囲まれた雰囲気がわかるのではないか。文章や写真はデジタルになる。しかし、ガラクタは電子化できない。何故なら、それらをさらに分解し、組み直し、新しいものを作る楽しさを、今のデジタルの解像度では実現できないからだ。
ときどき、これを少しいじってみよう、と思いついたものを工作室へ運び入れ、そこでいろいろ試してみる。修理をしたり、復元したりして、また新たな楽しみが生まれる。それを感じられるのは自分一人だけで、誰かに見せるつもりはない。
修理をして、動くようになったら嬉しい。どんな仕組みになっているのかが理解できたときも嬉しい。
【断捨離の反対】
そういえば、数年まえに『アンチ整理術』という本を上梓した。出版社から「整理術に関して書いて下さい」と依頼され、その逆の指向の内容を書いた。世の中では「断捨離」なるものが流行っているらしいが、僕はその正反対だ。ものを集め、ガラクタを溜め込む。スペースがなくなったら、もっと広い場所へ引っ越す。田舎に住めば、それが可能だ。整理も整頓もしない。雑然、無秩序、しかも多くは収納さえされていないから、埃を被っている。しかし、人に見せるものではない。埃を被っても、その品物の本質に変化はない。必要になれば手に取り、また復活させる。
飽きたら、あっさり別のものに手を出す。しかし、飽きたからといって不要になったわけではない。またきっとやりたくなる。それまで少し休んでいてもらうだけだ。今不要だからといって未来の価値が消えたわけではない。
どんどんものを捨てて、持ち物を少なくしようという考え方に異を唱えているわけではない。たしかに身の回りがすっきりして一時的に気持ちが良くなる効果はある。だが、それだけだ。気持ちが良くなっても、新しいものが生まれなければ、夢を見ているのと同じ。夢を見るのが趣味で、それが人生の目的という人には向いている。だが、僕は現実のものを作り出したいし、自分で触って遊びたいのだ。
何故、書斎や図書館には本があんなに沢山並んでいるのか。あの空間を眺めていて、ふと思いつくこと、思い出すことがあって、そのとき、「たしか、この辺りに……」と探して発見し、「あった、あった」と本を広げて、新たな発想に出会う、その楽しさのためである。読んだ本をすべて手放せば、発想を生む環境も消えてしまうだろう。
人間は、ただ消費するために生きているのではない。与えられたものを消化し、毎日健康であることが人生の目的ではない。それでは、機械と同じこと。そうではなく、消費をしたものが頭に残り、ときどきそこから、「えっと、なにか、気になるな」と連想し、発想し、これまでになかったものを生み出すこと、そのために生きていると考えたい。
断捨離が悪いとはいわない。ただ、断捨離が無条件に良いことだとする考え方には反論したくなる。少なくとも、僕は断捨離しない生き方を楽しんでいる。断捨離しないことで生まれる価値は非常に大きい。
【エキサイティングな年始だった】
というわけでは、年始は古いガラクタを見つけて、同時に8つほど修理をした。どれも1時間ずつくらい、少しやっては、別のものへ移り、気持ちをリセットして作業をする。とても楽しかった。4つほどは復活し、残りもいずれは蘇るだろう。今が一番寒い時期だから、工作室や書斎に籠もり、腰を落ち着けて、あれこれ考えながら、手を動かすのが面白い。
庭に出て、鉄道を走らせたり、犬と遊んでやることが2月は難しい。ドライブも冬の道路は危険なので控えるつもりだ。その分、インドアで暗躍する毎日である。今年も相変わらず、こんなふうに遊び続けよう。
文:森博嗣