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第12回 僕にはテーマがない



【作品から感じるものとは】



 芸術作品に限らず、いろいろなものにテーマがあるような感覚を大勢の方がお持ちのようである。これは、日本に限らないように見受けられる。悪くはない。テーマ性みたいなものが大事だ、と考える人もいる。



 僕は、面白ければ良い、楽しければ良い、新しければ良い、驚かされればそれで良い、その作品に接したときに自分が感じるもの、ただそれだけで良い、と考えている人間である。たとえば料理だったら、美味しいなあ、と感じられたら、その料理を食べた甲斐があったと思う。それで充分だ。しかし、その料理を作った人は、材料に拘り、試行錯誤をした、その努力を訴えたいと思っているかもしれない。

あるいは、歴史的なものを再現したのかもしれない。料理を作るときに、そういったなんらかの「思い」を込めた、と言葉で訴える。これが、一般に「テーマ」と呼ばれているものだ。



 テーマなんてどうでも良い、といっているのではない。そういったものがないと、ものが作れない人もいるし、受け取る側も、ただ美味しいだけでは満足できず、料理人の思いや、何を目指したのか、といった、いわば物語性みたいなものを知りたい、と思うかもしれない。そういう人もいる。でも、みんながみんなそうなのではない。



 絵画においても、作品に込められたテーマがある。だいたいの場合、それはタイトルに表れている。絵を見ただけではわからないが、タイトルに触れると、ああ、そういうことをいいたかったのか、と気づかされる。でも、だからといって、その絵の価値が変わるとは、少なくとも僕は考えていない。絵を見て、自分が感じたものがすべてであって、作者の気持ちを理解するために絵を鑑賞しているのでは(僕の場合は)ない。

絵が美しければそれで良い。



 たとえば、スポーツは芸術ではないが、僕はスポーツを見て、凄いな、と感じられればそれで良い。その選手がどんな境遇であるかは無関係だ。知っていると、少し感じ方が変わることは確かだが、しかし、スポーツにテーマがあるとは認識していない。



 音楽もまったく同じ。しかし、歌が含まれる音楽になると、言葉が作品に混入するから、テーマが前面に出やすくなる。したがって、多くの人たちが、テーマを含めてその曲を愛する傾向が観察されるけれど、僕はそうではない。聴いて、凄いな、と感じられたらそれで良い。どんな「いわく」があろうが、関係ない。格好良ければ、それだけで良い音楽だと評価する。良い悪いに理由はいらない。



 音楽を作った本人が、その曲にどんな思いを込めたのかは、僕には関係がない、ということである。

もちろん、そういう感じ方をしない人もいらっしゃるだろう。その感性を否定しているわけではなく、僕の場合はこうですよ、という話。





【作品に込める思いはない】



 そんなわけだから、僕はなにかを作り出すときに、なんらかのテーマを決めたことは一度もない。訴えたいこともなければ、自分の気持ちをわかってほしいとも考えない。ようするに、僕にテーマはないのだ。人生にテーマはない。日々の工作でも同じで、テーマなんてものはない。ただ、面白いものを作っている。作っているときが面白い。理由なんかない。



 仕事で小説を幾つか書いたけれど、なにか思いを込めたことはない。どう受け取られてもかまわない。

テーマというものがもし存在するとしたら、それは読者それぞれが、その作品を読んだときに感じたイメージであり、つまり、それぞれで異なっているはずだ。



 読者の多くは、「作者はこれがいいたかったんだ」と自由に感じるだろう。それこそが、読者のテーマとなる。ただ、作者がそんなことをいいたかったかどうかはわからない。森博嗣の場合は、いいたかったものがそもそもない。



 もし、いいたいことがあったら、わざわざ小説など書かずに、直接言葉で説明すれば良い。テーマがあるのなら、それをそのまま書いておけば良いだろう。「世界平和を願っている」なら、そう書くとか、それをタイトルにすれば良い。物語からそれを汲み取ってほしい、とぼかすようなことを僕はしない。「この作者は何を訴えているのでしょうか?」と国語の問題にありそうな問いかけが、好きではない。いいたいことがあったら、ずばり伝えれば良い。そんなに大事なことなら、歌や物語などに込めないでほしい、とさえ思うけれど、そういう回りくどいことが好きな人もいるだろう。

人の趣味に文句はいわない。それぞれが好きなようにする自由がある。



 特に僕の場合、小説家になりたくてなったわけではないし、子供の頃から憧れていたわけでもない。小説を書かずにはいられない、なんてこともない。鍋を作る職人は、鍋を作るときになにかを訴えようとしている、とは思えない。それと同じように、僕は職人として小説を書いている。ただ、鍋が役に立つように、長持ちするように、という思いがあるのと同様に、読者が読んで満足できるように、長く読まれるように、とは考える。そういう「品質」は重要だと思っている。品質の良いものが出来上がると嬉しい。工作でも、それは同じだ。そういうものを作れたら、自分が嬉しい、というだけである。



 たしかに、読者から「面白かった」という感想をもらうと嬉しい。

しかし、こちらの思いが伝わったとは感じない。そういう「思い」がそもそもないからだ。どのように受け止められても良い。どう解釈されても良い。読者がテーマを見つけたのなら、それは大変けっこうなことだと思うし、興味深いとも感じる。





【作品を売る人はテーマが欲しい】



 一方で、鍋を売る商人は、その鍋にどんな価値があるのか、を訴えたいだろう。そうすれば、なにもない鍋よりも売れる可能性がある。ほかにはない特別さがあると謳いたい。これも自然なことだと思う。鍋を作った職人として、多少の違和感はあるものの、既に自分の手を離れたものであるから、とやかくはいいたくない。嘘でなければ許容できる。



 書店に本が並んだら、あとは書店の売り方の問題になる。どんなポップを立てても、僕はかまわない。最近では、書店がオリジナルのカバーを被せて本を売ったりもしているが、まあ、このくらいのことも許容している。自作品の本質には影響しないからだ。



 たとえば、自分の作品で何が大事なのか、というと、僕の場合、第一にタイトルである。だから、映画化、漫画化、ドラマ化、あるいは翻訳においても、「タイトルを変えるな」という条件を出す。ついでに、作者名の表記を「MORI Hiroshi」とすることを条件としている。それ以外にはなにも口出ししない。内容が変わっても、新しい作品を作ったのだから当然のことだ。まったく同じ内容である方がむしろおかしい。わざわざ新たに作る必要がなくなってしまう、とさえ感じる。



 二次創作を、読者の多くは反対する。それは、それぞれの読者が自分で抱いたイメージと異なっているからである。ただ、読者どうしでもイメージは同一ではないはず。みんながそれぞれ違ったイメージ、違ったテーマを既に持っている。それと同様に、新たな作品でもまたイメージやテーマが作られる、ということ。



 そういえば、『スカイ・クロラ』が映画化されたとき、スポンサのTV局の人がわざわざ自宅を訪ねてきて、「タイトルを変えたい」と要望された。唯一の条件でさえ守られないのかな、と呆れた。当然「だったら、映画化はなかったことにしましょう」と答えた。その方は、「こちらのタイトルにしたら2倍売れますよ」とおっしゃった。なるほど、それがこの人のテーマなのだ、でも、そんなことは僕には関係がない、と思わず、吹き出してしまったことを覚えている。2倍も売れるはずはないのに、真顔でおっしゃったのが可笑しかった。人それぞれ、自分で築きたいものがある、ということだ。





【意味がないものが面白い】



 一人で工作室に籠もり、日々暗躍している。修理をしたり、組み立てたり、切ったり削ったりして、ものを作る。上手くいくと嬉しいし、上手くいかないと溜息をつく。だが、目的はない。なにかをテーマにして作っているのではない。だから、人が見たら「そんなことをして何の意味があるの?」となる行為といえる。



 僕から見ると、大勢の人が求めている「意味」というものは、単なる「言葉」でしかない。実体のない「物語」でしかない。でも、悪いとはいわない。偉大な人の言葉でも、アニメの主人公の言葉でも、それを聞いた人の心に響けば、そう、一時的には「意味」が生じるだろう。「テーマ」も、「意味」も、所詮その程度のものだ。



 その言葉を聞いて、心に響いたとおっしゃる当人が、次に何を作り出すのか、という点に僕は注目する。それがその人の「価値」だと思う。テーマや意味などなくても、その価値は面白いし、楽しいし、たまには新しいものを生み出す。その可能性だけで充分だ。







文:森博嗣

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