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第14回 気持ちという質量



【子供の頃の出来事の影響】



 もう何カ月も小説を書いていない。しばらく書く予定もない。最近は、ゲラを読む仕事をのんびりと進めた。4月刊の小説新作のゲラと、6月以降に出る新書新装版のゲラ。後者は急に仕事が舞い込んできた。数年まえに出した新書を新装版として出し直したい、と出版社から依頼があった。ゲラを送ってもらい読み直したが、ほとんど直すところがなかった。数年では世の中も、そして作者自身も大して変化がないということか。



 今年初めての雪が降り、半日で40cmほど積もった。さっそく除雪機のエンジンをかけて1時間ほど作業。自動車を道路まで出せるようにした。翌日からは、庭園鉄道の除雪も始め、3日かけて無事に復旧し、氷点下の庭園内をぐるりと一周することができた。



 工作のプロジェクトも幾つかを同時進行している。最近多いのは、ミニチュアのエンジンに関係するもの。子供のときからエンジンが大好きで、小学生のとき最初に中古の模型エンジンを始動した体験から始まっている。実物のエンジンにも興味はあるけれど、大きすぎて手に余る。模型エンジンは小さいけれど、メカニズムは同じ。燃料を圧縮し、点火し、爆発させてピストンを押し、そして排気する。これを繰り返して、けたたましい音を立て回り続ける。回すだけで実に愉快で爽快だ。



 子供の頃の体験から一生の趣味が始まることは珍しくない。僕が担当の犬は、子犬のとき、僕が鉄道の線路の上に落ちた小枝を拾い横へ投げるのを見ていた。このため、今でも、地面に落ちている枝を拾うだけで大興奮し、投げると吠えながら駆け回る。枝を投げて欲しいとせがむ。自分でくわえるようなこともないし、投げた枝を追いかけるわけでもない。人が枝を拾って投げるところを見たい、という趣味だ。



 子供のときの思いが、その後の人生に支配的な影響を及ぼす、という場合、2つの方向性がある。1つは、今例を挙げたような「面白かった」あるいは「印象的だった」体験が発端の場合。もう1つは、「できなかった」という思いである。子供のときに、やりたくてもできなかったことを、大人になってから実現するものだ。これは、僕の世代では非常に多いと思う。というのも、僕たちの世代が子供の頃、日本は敗戦後でまだ貧しく、現代の子供たちと比べて、はるかに「できない」ことが沢山あったからだ。

逆に、今の子供たちは、望めばできてしまう。欲しければ買ってもらえる。だから、大人になってから、自分は何をやりたいのかわからない、という具合になりやすいのかもしれない。





【幸せは加速度で体感されるもの】



 子供のときの強い思いが大人になっても残っていて、なにかのモチベーションの核になる。ただ、それほど単純ではもちろんない。僕の場合でも、子供の頃とまったく同じことをしているわけではない。あのときが始まりだった、というだけの話で、そこからずいぶん遠くまで来たな、としばしば思う。探究がどんどん深くなっていたり、範囲が広がっていたり、関連する別の分野に飛んでいたりもする。



 また、子供のときにできなかったことを実現する、といっても、環境がすっかり変わっているから、困難さはだいぶ異なっている。かつては、いろいろな条件が重なって不可能だと諦めていた目標が、今では比較的身近で容易に手が届く場合が数多い。メジャな例を挙げれば、子供の頃にはトランシーバで遠くの人と話をすることが夢だったから、アマチュア無線の免許を取得して、無線機も自作した。今では、世界中と誰でも瞬時に、しかも安価にそれができてしまう。

離れているものを思いどおりに操縦したいと夢見ていたけれど、今ではそれが普通になった。「無線」という言葉さえ消えてしまったほどだ。



 ある意味で、子供たちの未来に向けた夢は、ことごとく取り上げられた状況が現代だともいえるかもしれない。なにもかも実現できてしまう魔法のような社会になっているのだから、「技術」ではなく「呪文」を身につけよう、と考えてもおかしくない。もしかして、その「呪文」の一例が、「友達」とか「絆」といった類のものになっている、とも観察できる。まるで、そちらの方向でしか「夢」を求める道が残されていないかのように。



 一方で、大局的に見れば、ここ半世紀の日本は平和だった。誰も、これには異を唱えないものと思う。他国から侵略されることもなく平和が続いた。何十年も物価は上がらなかったし、道路も鉄道もどんどん作られ、それらの恩恵をみんなが受けることができた。子供たちは、平和な未来を夢見なくても良かった。少子化のためか、かつてより受験戦争も穏やかになり、芸術やスポーツに対して憧れを持つ子供が増えた。



 などと書くと、皮肉に取られるだろうか? 夢を見られないことが、いかにも悪い状況のように考える人もいるかもしれないが、そうではない。夢を見たのは、不満な状況だったからであり、今が満足であれば、未来に願いを託さない。さらにいえば、人の幸せというのは、現状の客観的な位置や傾向ではなく、それらの変化、すなわち微分値、つまり「加速度」に依存する。現在の高低値や傾向を感じることはできない。変化だけが、人の感覚を左右する。これは、「力は加速度と質量の積である」という物理の定義にも通じる。





【心の質量も大事】



 人間も機械も、位置や速度を感じる(測定する)ことはできない。感じられるのは、速度の変化、つまり加速度である。現在どこにいるのかは、GPSなどが開発されるまで、測定することができなかった。位置とは、ある起点からの距離であり、あくまでも相対量だ。また速度というものも、周囲との相対速度しか観測できない。唯一、加速度だけが測定できる。

地震計で計測しているのも加速度。宇宙船などに搭載されているのも加速度計である。位置や速度は、加速度の測定値を積分して計算される。



 電車がいくら高速で走っていても、速度が一定の状態では加速度はゼロだから、停止状態と同様にしか感じられない。人が感じることができるのは、速度の変化、加速度であり、ようするに「変化量の変化」なのである。



 「力」というのは、加速度と質量の積だ。加速度を体感できるのは、力を感じることができる、という意味である。ただ、同じ力を受けても、質量が大きいほど加速度が小さい。



 ここからは物理から離れた話。人は加速度を感じるけれど、その人の「心の質量」が軽いほど敏感だといえる。また、経験を積んで質量が大きい心は、少々の力では動じない。人の反応を、このように物理法則で解釈すると、けっこう当てはまる点が興味深い。



 子供のときには、誰もが「軽い」から、ちょっとした力で大きなインパクトを受けやすい。感動したり、幻滅したりしやすい。その体感を覚えていて、大人になってから同じことをしても、同じだけ面白くは感じられなくなっている。体重の問題ではない。心の質量というのは、軽くしたり、重くしたり、その人の思想、信念、興味、知識、経験などによって育まれる。また、ある方面では軽く、こちらに対しては重い、というように、心の質量は一義的なものでもない。ただ、その時点、その方向において、質量に類似した素質を人が持っている、と解釈すると理解しやすい。



 なにか自分にとって悪い方向へ変化が起きていても、人はそれを冷静に受け止めることができる。「嫌な感じだな」と思っていても我慢ができる。ところが、この変化が急に大きくなったとき、瞬間的な「力」を感じて、ストレスとなる。こんなときに、「もう許せない」と感情が爆発する傾向にある。逆にいえば、自己防衛の心理的システムが、このような力に耐えられないのだろう。



 対策を練り心構えをして、自分の感情の質量をできるだけ大きくしておく以外に、冷静さを維持することはできない。力学的に考えても意味のない問題かな、とは思うけれど、しかし、このように捉えることで、多少は客観的になれるだろう。





【ジャイロモノレールが話題に?】



 編集者が知らせてきた。NHKの番組で自著『ジャイロモノレール』(幻冬舎新書)が画面に出たという。キックスケータを綱渡りさせる競争だったとかで、この本が参考にされたらしい。その影響で本が売れています、と伝えてきたけれど、まあ、数は知れているはず(この方面では心の質量が大きい)。



 本の内容を理解すれば、誰でも実現できる技術であり、再現性が認められるからこそ本に書いた。ただし、ちょっと残念に思ったのは、速度を競うルールだったことだ。本来、長く安定を維持するものが高性能なので、ゆっくり走れる方が優秀なのは自明。落ちないでいられる時間か到達距離を競うルールにする方が技術的意味がある。科学的センスのある誰かが、この点をもう指摘しただろうか?







文:森博嗣



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