森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。

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第15回 火よ、我とともに行かん



【経済的自立とか早期リタイアとか】



 今回は「Fire」について思うところを書こう。断っておくが、誰かを揶揄するつもりはないし、自分がこうだと主張するのでもない。誰もが自分の思ったとおりに生きれば良いし、現にほぼそうなっている、と観察できる。

思ったことを書くのが、今の僕のささやかな仕事なので、適当に読み流していただきたい。腹が立つ人は、腹を立てたい人である。気づくのが遅かったと諦められる人か、自分だけは関係ないと思い込める厚顔の人でなければ、読まないで済ませる手があることを確認しておきたい。



 『ツイン・ピークス』に出てくる言葉を、今回のタイトルにしたけれど、ネットで翻訳させたら、「私と一緒に火遊びをする」と訳してきた。なるほどね。



 この頃、森博嗣が「Fire」を実現している、と書かれたものに幾つか出合った。

経済的自立(FI)と早期リタイア(RE)を足した流行り言葉らしい。僕には心当たりがない。僕は経済的に自立していないし、また早期にリタイヤしたわけでもない。この言葉を僕は使わない。何故なら、それに当てはまる現象を実際に観察したことがなく、つまり、そんな概念が実在するとは考えていないからだ。



 経済的自立が成立するのは、一切他者と関わらない生活である。

たとえば、投資をしたり、貯蓄をすることも自立ではない。衣食住を自給していても、エネルギィはどうだろうか? 太陽光発電しているなら、そのパネルをどうやって自作した? 農作業などに必要なガソリンはどうする? など、どの例でも自立していない。自分が作ったものをなにかと交換し、それで生活しているとしたら、それは世界中の人がしていることと同じだ。となると、誰もが経済的に自立していることになる? 人から恵んでもらっている場合も含めて同じでは?



 早期リタイアというのも、何を基準に「早期」なのかが曖昧である。ただ、日本以外では、若いときに一発当てて大儲けした人が、あっさり引退して悠々自適な生活を送る例が少なくない。これを早期リタイアと呼んでいた。

このような例が日本で見られないのは、トップの報酬が安いのと、仕事をしている人が偉いといった古い感覚が根強いからだろう。会社や組織の金で飲み食いし、楽しい体験をするらしい。「この仕事をしているからこそ、こんな良い待遇なのだ」と思い込んでいる人が多く、引退したら「ただの人」になってしまうと恐れている。「ただの人」は偉くない、みんなからちやほやされない、と絶望しているようだ。なかなか面白い考え方ではある。



 僕はそもそも、仕事が人間の価値に影響するとは考えていない。

仕事をしているか、していないかなど、どうでも良いことだ。仕事をするのは、単に働かないと好きなことをするだけの資金が得られないからだ、と見なす。仕事をしても偉くなるわけではない。金を持っているから偉いわけでもないのと同じだ。



 ただ、金があったら仕事をしなくても良い。単にそれだけの問題であって、儲かったから早期にリタイヤするというのは、あまりにも自然で、わざわざ「リタイヤ」などと呼ぶほどのことでもないと感じる。

お腹が空いたら食事をする、満腹なら食べるのをやめる、というのと同じだ。自立とか早期とか、人と比較するほどのことでもないだろう。





【かつては「脱サラ」といった】



 そういえば、かなりまえ(僕が成人する以前から)、「脱サラ」という言葉があった。会社員を辞めて起業することを示すが、辞めるだけでも、言葉の定義としては立派な「脱サラ」だ。好景気の時代には、個人の商売が成立しやすかったから、小さな商売を始めて、会社の給料以上に稼ぐチャンスが多々あった。



 僕の父も脱サラで、自分で工務店を始めた人だった。喫茶店などの建設を請け負っていた。施主も、脱サラで喫茶店を始めるという人が多かった。給料の何倍も儲かる、という話をよく聞いた。そういう時代だったのである。



 その父が、僕には会社員になることをすすめた。「これからの時代は、個人の商売は続かない」と話していた。僕が大学を受験する頃、父は心臓発作で倒れ入院していた。だから、これといって目指す未来はなかったけれど、なんとなく建築学科を選択した。このとき、両親は嬉しそうだった。しかし、4年生では卒業せず、大学院に進学。父も病気から復帰した。結局6年後に卒業したときには、父は自分の工務店の跡を継がせなかった。僕が大学に就職したことを、両親とも喜んでいた。あの頃に時代が変わったのだな、と今になって思う。



 脱サラしても、商売をすれば、客に頭を下げなければならない。どんな仕事をしても、誰かに頭を下げ、妥協をし、我慢を強いられるだろう。独立すれば、「もう誰にも頭を下げなくて良い」なんて小さな自由は、さほど意味がない。会社を辞めて経済的に自立することで、何が変わるのかといえば、人からあれこれ命じられることなく、自分の好きなように働けることくらいだ。しかし、逆に見れば、人からあれこれ命じられることに、文句をいわず従っているだけで安定した給料がもらえる環境も、けっして悪くない。どちらを取っても、さほど差はないように僕には見える。



 会社勤めでストレスを感じている人は、自営業で暮らしていけたら、と夢を見るのかもしれない。また、自営業の苦しさで悩んでいる人は、会社勤めに憧れるだろう。僕の母は、後者だった。自営業の主婦は、会社勤めの主婦よりも格段に気疲れする、とよく話していた。





【問題は「ノルマ」の重さにある】



 田舎へ移住して農業で生計を立てようとする人もいる。しかし、田舎というのは、その村自体が、会社と同じような組織になっている場合が多い。けっして完全な自由ではない。また、天候に強く依存しているから、社会から離れ、周囲に人間がいなくても、思いどおりにならない自然と対話をしなければならない。コミュニケーションという意味では、これも同じように必要。漁業でも林業でも、きっと同様だろう。



 いずれにしてもいえることは、人間は一人では生きていけない、という現実である。病気になれば、医者や病院に頼らなければならない。既にあるインフラに依存した生活にならざるをえない。税金や保険料は収めないといけないし、警察や消防の世話になる場合だってある。今では、ネットを利用せずに生きていくことは困難なのでは?



 一方、リタイヤはどうだろうか。森博嗣は既に引退している、と公言して久しいのだが、今でもこの記事のように執筆の仕事を細々としている。1週間で1時間か2時間くらいの仕事量だけれど、まったくのゼロではない。それに、過去の仕事に対する報酬を今も連続していただいている。ようするに、夜逃げでもしないかぎり、仕事の縁を完全に切ることは無理だ。おそらく、生きているかぎり、なんらかの関わりは絶えないことになるものと予想できる。



 ただ、時間内にこれをしなければならない、といったいわゆる「ノルマ」は今はない。そういうものがない状況を工夫して築いたからだ。仕事というのは、さきざきの予定を決め、大勢で足並みを揃えて進めるものだが、その予定を決めなければノルマは発生しない。たとえば、気が向いたときに作品を書き、書き上がったあと、出版社に通知し、発行予定を相談して決め、そのうえで刊行の案内を公表すれば、ノルマは生じない。おおよそこのようなものが僕の理想だ。現に、僕の趣味の活動はこの方式である。



 ただし、その場合の「ノルマ」とは他者に対するもの、他者から押しつけられたものである。他方で、自由な理想の状況を築くためには、自身が課したノルマを地道に果たしていかなければならないだろう。いずれにしても、ノルマは存在する。人生の時間が限られている以上、避けられない。





【やりたいことを順調にやっている】



 この5カ月ほど、まずまず健康に過ごしてきた。家族も調子が良いようだし、犬たちも元気だ。自動車の調子もまずまず。庭園鉄道も異常はない。雪が一度降ったので、除雪作業が必要になったのと、犬のために決まった時間にフードを作ること以外では、特にノルマはない。しかし、機関車や戦車やエンジンの模型をあれこれいじっていて、手を真っ黒にして忙しい。エンジンを始動したいのだが、外は氷点下。室内だと排気ガスで危険だ。そこで、排気管を屋外まで伸ばし、工作室でエンジンを回して調整できるように工夫をした。そうまでしてやりたいのかといえば、イエスである。







文・写真:森博嗣