このサイトで「言葉狩り」について書くのは2年ぶりだ。前回の記事は2022年春に配信された「有名人の『顔』に厳しかったナンシー関のテレビ批評は現在の言葉狩りルッキズムに耐えられるか」というもの。

同年1月、筒井康隆が文春オンラインの記事で呈示したルッキズムと言葉狩りをめぐる指摘をとっかかりに、ナンシー関とて今の時代では苦労するだろうということなどに言及した。



 なお、筒井の指摘にはこういうものも含まれていた。



「ルッキズムだけではなく『主人』『旦那』『奥さん』のように、性別によって立場や役割を決めつけるような言葉も使わないほうがいい、とされているとか。私に言わせれば、その程度でワーワーと騒ぎ立てるほうがおかしい。それこそ本当の言葉狩りになってしまいます」



 そんな「本当の言葉狩り」をメディアがこぞってやっているのが「女優」問題だ。最近、NHKをはじめ、多くのメディアが女優のことを「俳優」と呼ぶようになった。

「女優」という呼称をこよなく愛する筆者にとっては堪えがたい状況で、お気に入りの女優がテレビでそう紹介されるたび、チャンネルを変えたくなる。



 いや、当事者からも疑問の声が上がり始めた。2月7日には、川上麻衣子がSNSで、



「最近肩書きを女優から俳優に代える場面が増えてきました。これも時代の流れなのでしょうか。元々男優さんは男優とは表記せず俳優や、役者とする方が多いようです。でも女優はその響きへの憧れもあり、私としては無くしたくないニュアンスがあるのですが、どう思われますか?」



 と、問いかけたのに対し、横山めぐみがこんな返信を。



「私も常日頃から考えていることです。自分のことを俳優と呼ぶことに違和感を感じてしまい、自分から発信できる時は女優と言い張っております。女優という言葉の響きはとても美しいと思います」



 また、その4日前には土屋太鳳がブログにこう綴っていた。



「最近は女優という言葉を使わず俳優や役者や表現者という言葉が選ばれることが多いのですが、私はちょうど10年前の今頃、ドラマ『今夜は心だけ抱いて』に出演して自分のお母さんと入れ替わる役を演じた時に、女性だからこその演技、表現があるのだなとすごく痛感したんです。平等ではないからこその、平等であるべきだからこその『女優』という感覚。身体の性別とは別の、自分の心を見つめた時の『女優』という言葉が持つなんともいえない、せつないような不思議な響きを、時代のなかでは使われなくなっていく言葉かもしれないけれど心のなかではこれからも大切にしてみたいなと思っています」



 その一方で、秋元才加のように3年前「私は女優って肩書きが正直しっくり来なくて」という理由から所属事務所に「俳優」への肩書き変更を求めた人もいる。

メディアが最近「俳優」への統一に熱心なのも、秋元のような人に合わせようということだろう。





 が、それでは「女優」でありたい人がないがしろにされることになる。じつは先日「週刊女性」がこの問題をとりあげた際、コメントを求められ、こんな話をした。



「50年後、100年後には『昔は女性の俳優を女優と呼んでいた』なんて振り返る時代になるのでしょう。ただ、川上さんや土屋さんのように女優という呼称を肯定している人たちもいるので、その人たちの声を潰すようなことがあってはいけないと思います」



 未来について悲観的なのは、このところの世の流れがそういうものだからだ。看護婦は看護師に、スチュワーデスはキャビンアテンダントに、呼び方が変わり、さらには本来、男性に付けられるものだった「氏」が女性にも付けられるようになって「女史」や「嬢」は使われなくなってきた。

デヴィ夫人が死んだら「夫人」も消えるかもしれない。



 そんななか、マイナンバーカードの新しいデザイン案がデジタル庁から発表された。性的少数者への配慮から性別の記載はなくす方針だという。他に氏名のローマ字表記を加えたり、生年月日を西暦表記に変えたりするつもりのようで、こちらは在留外国人への配慮だろうか。



 まったくもってくだらないのは、そこにポリコレの影が垣間見えること。「政治的正しさ」とも訳されるポリコレはいまや暴走しすぎて何がどう正しいのかもよくわからないものになりつつあり、一種の文明病ともいえる。

文明は何かと便利だし、一見、正しく思われがちだが、文化とは対立する。文化は多様性にあふれ、それぞれに美しくあろうとするものだからだ。



「女優」問題もまたしかり。女の役者を女優と呼ぶという、長い歴史のなかで育まれた文化を、便利で正しいとされる文明が壊そうとしている構図である。



 もっとも、人によっては文化より文明が、美しさより正しさが優勢になるのは当然だと考えるかもしれない。筆者の考えはその正反対だ。

文化なしでは生きていけないし、幸せにもなれない。



 というのも、筆者は昔「聊斎志異」を子供向けに訳した「中国のふしぎな話」という短篇集を読み、女医萌えに目覚めた。「かわいい女医さん」という子供向けのタイトルがついた話に出てくる女医の姉妹が魅力的だったからだ。その後、大病院の娘を好きになったり、女子医大生と関わったりということを何度も繰り返しながら、女医と結婚。現在、幸せな家庭を築くことができているのは、女医萌えのおかげである。



 それとともに、女優萌えという傾向もあり、それは女医と女優が似た存在だからだ。どちらももっぱら男がやってきた仕事を女がやるようにもなったことで生まれた呼び方。いわば「紅一点」的な特別感が反映されている。





 他には、女子アナや女流作家というのもこれに近い存在。だからこそ、女子アナは良くも悪くも注目されるし、女流作家が紙幣の顔や大河ドラマの主人公になったりもするのだろう。



 女優と俳優と言い換える風潮は、そんな特別感のある文化を台無しにする暴挙なのだ。



 実際、何もそこまでという事例も増えてきた。たとえば、3月13日に配信された「工藤夕貴『俳優ではなく歌手になりたかった』有名人の娘であることを隠して12歳でデビュー 味わった挫折と葛藤の日々」(CHANTO WEB)というネットニュース。本文ではいきなり「今や日本を代表する国際派女優としてその名を知られる」と紹介されているし、彼女自身もデビュー当時について、



「歌手になりたかったけど、CMやドラマに出たり、役者の色が濃くなっていき、いつのまにかお芝居が中心になっていきました。(略)女優さんと控室が一緒だったりすると子役は控室に入れてもらえない、なんて時もありました」



 と、語ったりしている。つまり、本人が自分を「俳優」と呼んでいないにもかかわらず、タイトル内が「俳優ではなく歌手になりたかった」という表現になっているのは、担当者が時流に配慮したのだろうか。しかし、そのせいで本人による生きた言葉という印象が薄れてしまい、逆効果だ。



 そもそも、無理して「俳優」に統一しなくても、その人その人に合わせるやり方でよいはずだ。ちなみに、前出の秋元才加の場合、日比の混血で、米国文化への憧れを持ち、マッチョ志向でもある。ドラマでは巴御前や熊の生まれ変わりのような女といった、男まさりな役を得意にしてきた。女優のなかでも少数派のタイプであり、そのあたりが「私は女優って肩書きが正直しっくり来なくて」という感覚につながっているのだろう。



 つまり、そういう人はそれとして、逆にというか、まだおそらく多数派だと思われる「女優」という肩書きがしっくり来ているという人まで俳優と呼ぶ必要はないわけだ。と、俳優呼びがどうにもしっくり来ない筆者としては言わざるをえない。たとえ自分が最後のひとりになっても、女優のことは女優と呼ぶつもりである。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)