文春による松本人志氏の性強要疑惑報道に代表されるように、近年マスコミで“疑惑”が報じられると、警察の捜査や裁判、専門家による正規の調査等によって公式的な「答え」が出る前に、ネットの世論で“決着”を付けてしまい、当人を社会的に葬ってしまおうとする傾向、キャンセル・カルチャーの過激化が目立っている。本当に犯罪を犯したのなら、いずれ法の裁きを受ける可能性が高いし、そうすべきなのに、どうしてそんなに焦って他人を裁こうとするのか。



 答えは、ある意味、簡単である。著名人を引きずり下ろすことは、他に刺激がないのでネットにへばりついている暇人にとっては、かっこうの「祭り」である。不満ばかり溜まっている人間は、人を神のように祭りあげる「祭り」よりは、ひきずり下ろす、ネガティヴな「祭り」の方が楽しい。しかし、ただ炎上が続いて、偶像が崩壊するのをじっと見ているだけでは、面白くない。自分も参加し、偶像の破壊に少しは貢献したい。警察に逮捕されたり、裁判で損害賠償請求が認められたりする前に、できる限り早い段階で攻撃に参加し、自分の貢献で全体の意見を多少なりとも動かした、という“実績”を残したい。



 無論、そういう傾向はネットが生まれるずっと前の時代から、考えようによっては、文明社会が成立した時からあったろうが、単なる口頭の噂だと、どのような経路で誰が広めたのかははっきりした証拠は残らない。また、その共同体である程度影響力のある人でないと、噂を信じさせるのは難しい。ネット、特にX(旧ツイッター)のような媒体だと、普段あまり目立たない人でも、インパクトがある文言をポストすれば、多くリポストされ、その痕跡は残る。



 そもそも、身分の違いがはっきりしている社会だと、一般人が有力者を引きずり下ろすのはかなり困難だったが、SNSの発信は、有名な芸能人でも無名で匿名の一般人でも同じ資格でできる。お互いに「同じX利用者」という立場だと思うと、自分も芸能人と対等の立場で戦い、不正を見つければ告発して引きずり下ろすことで、その対等さを確認したくなってもおかしくない。対等な人間のはずなのに、相手は著名人で好き勝手に振る舞っている(ように見える)のが許せない、という思いが強くなるのだろう。



 やっている本人たちは、のさばっている著名人の真実を暴いて、“民主主義”を実現することに寄与しているつもりかもしれないが、当該に事実を調査する能力も、似たような経験も持っていない匿名の個人が集まって、これは本当だ、あれは嘘だと言い合っても、真実が明らかになるわけではない。インターネットでのコミュニケーションの理想とされる、平等市民間の対等な立場での対話とか、集合知の形成といったものとはかけ離れている。対等な市民の話し合いから集合知が形成されるのは、家電の使い方とか汚れの落とし方のような、普通の人が日常で経験することに限られる。



 無論、興奮したSNSユーザーたちがその話題をめぐってしばらく言い合っただけで、“結論”がどうであったかすぐに忘れられ、ほとんどその痕跡が残らないのであれば、裁かれた人には嫌な思い出が残るだろうが、大して害はないだろう。しかし、「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる昨今の風潮では、単に一時的に評判を下げるだけでなく、仕事や生活を妨害し、場合によっては、それまでの仕事ができなくなって経済的に困窮し、家族を始めとする人間関係を壊してしまうこともある。





  松本人志氏の場合、現に仕事ができない状態が続いている。

しかも、窃盗とか暴行のようなやったかやらないか事実関係が比較的はっきりしている事案と違って、“性被害”や“ハラスメント”の場合、グレーゾーンが残りがちである。たとえ裁判で勝ったとしても、それは文春の報道が、問題になっているケースで不当に事実を捻じ曲げていた、と認められただけであり、当たらずとも遠からずのことをやっていたのではないか、との印象は残ってしまう可能性が高い。現に三月末からマスコミやネットは、既にその方向に軌道修正し始めているようにも見える。



 「キャンセル・カルチャー」の問題は、一度「キャンセル」されてしまった人は、たとえ“冤罪”か“嫌疑不十分”と判明しても、元の立場に復帰できなくなる可能性がある、ということだ。やりかけていた仕事が中断されたり、まとまりかけていた企画が流れたりして、本人以外にも大きな経済的損失が生じる恐れがある。



 今更、言うまでもないが、世論の多数派によって物事が決まってしまうのは危険である。



 



① 何が真実かをめぐるきちんとした議論がないまま、事実上その時の雰囲気で“真偽”が決まる



② 大勢が真実だと言っているので、自分もそう思っていいと考えてしまう



③ 自分たちが勝っていると思う多数派が少数派に圧力をかけて黙らせてしまう



④ 世論の帰結で特定の人を処罰したり、取り返しのつかない判断ミスがあったりしても、誰も責任を取らない。



 



 ②と④は、保守主義の元祖とされるバーク(一七二九-九七)が『フランス革命の省察』(一七九〇)で、フランス革命が失敗するであろう原因として挙げた問題で、③は、トクヴィル(一八〇五-五九)やミル(一八〇六-七三)が「多数派の専制」と呼んだ問題である。



 こうした世論の暴走が起こらないよう、具体的な法律を作る時は議会、それを実行する時は内閣、法律で具体的な個人を罰する時は司法が専門機関として担当し、いろんな要因を考え、バランスの取れた答えが出るように調整しているのである。役人、議員、裁判官の不祥事が続いているからといって、マスコミの世論調査やネットの動向に従って物事を決めようとすると、多数派の専制と無責任が横行することになるだろう。



 



 四月に入って、国会での弾劾裁判によって、SNS(ツイッター、ブログ、ASKfm)で殺人事件の遺族を侮辱した、ベテラン裁判官の罷免が決定したが、このことは、プロである裁判官でさえ、SNSの世論をやたらに意識し、SNSで多数派になろうとする欲望に突き動かされていることを暗示しているように見える。裁判官が、ネット世論での「正しさ」を前提に判断するようになったら、司法の独立の意味がなくなる。

それどころか、司法が「多数派の専制」を代行する場になってしまう恐れさえある。



 少なくとも、ある人の人生を変えたり、団体を消滅させるようなペナルティを課したりする決定は、世論から離れたところでなされる仕組みが必要だ。誰かにペナルティを課すのであれば、それを課す決定をした人間(たち)に、判断が誤りだと判明した場合、何らかの責任を取らせるようにする仕組みだ。



 松本人志氏のような芸能人や著名なビジネスマン、芸術家など、世間一般での評価が契約に影響を与える職種の場合、スポンサーとなる企業が、ネットでの声に忖度して、さっさと切り捨てるので、それで“答え”が出されたような形になる。企業とすれば、自分の利益を考えて判断しただけだろう。自由主義経済の下では、企業の“経営上の判断”に公権力は干渉しにくい。



 しかし、いくつかの主要企業の連鎖的な判断で、その人の活動の場が奪われ、個人としての発信力が減り、一ネット民と変わらなくなると、出てしまった“答え”を覆すのは難しくなる。企業の思惑によって、表に出さずに暗黙の内に何となく処理されてしまうことも多いだろうが、そうなると、事情を知らない普通の人には、何かヤバいことをした有名人が自然と消えていった、まあ、そういう人だったのだろう、という印象しか残らないかもしれない。



 ネット世論とGAFAのような巨大企業の相乗作用によって、「物語」が作られ、“真実”が決まっていくというのは、SFとかミステリーにありそうな悪夢の設定だが、それが現実になりつつある。松本人志氏が実際に加害者かどうか、本当の真実に関心を持っている人はごく少数だろう。関心があるつもりの人もほとんどは、マスコミとネットとエンタメ業界が紡ぎ出す「物語」の新たな展開に関心を持っているだけである。時折、生じる「キャンセル」によって、注目を浴びるスターが入れ替わる社会が、人々が対等にコミュニケーションできる民主的な社会だろうか。



 有名人だけの問題だったと思っていたら、一般のユーザーも同じ目に遭うかもしれない。リアル社会ではほとんど無名のSNSのユーザーが、プラットフォーム企業などの都合でキャンセルどころか、デリートされても、誰も気付かない。



 



文:仲正昌樹