岡田有希子を語るうえで、4月は特別な月だ。



 ちょうど40年前の4月21日に歌手デビュー、その2年後の4月8日正午すぎ、所属事務所の入っていたビルの屋上から身を投げ、自ら命を絶った。

彼女が18年の生涯を終えた場所には毎年、命日の昼間に有志が集まり、故人を偲ぶことが恒例化している。



 地方在住の筆者は今年、20数年ぶりにその光景に加わってみた。前日、都内に住む息子のマンションを訪ねて首都圏のホテルに泊まったことと、あの年と同じように桜が満開だったことに心を動かされたからだ。



 11時50分頃に現地に着き、黙祷が行われる12時15分すぎまで滞在。ちゃんと数えたわけではないが、百人前後が集まっていたように思う。交差点とビルのあいだの数メートル四方しかない場所なので、仕切り役の男性が通行人の妨げにならないよう、苦労しながら差配していたし、警察官もふたり来ていた。



 集まっていたのは中高年の男性が多いとはいえ、若い女性たちや外国人のカップル(?)もいる。若い女性は昔のアイドルみたいな装いだったりもして、そんな百人前後が臨時に設けられた祭壇をほぼ無言で囲んでいるわけだ。通行人のなかには事情を知らず、不思議なものを見るようにして歩き去る者もいた。



 たしかにそこは現世でありながら、わずかに冥界ともつながっているような異空間でもある。なんにせよ、佐藤佳代というひとりの少女がアイドル・岡田有希子として約2年間活動した証しのひとつがそのカオスな光景だった。



 さて、ここからが本題である。

彼女が自殺した1986年4月、世の中では何が起きていたのか。









 まず、彼女が身を置いた芸能界はというと、おニャン子クラブが一世を風靡していた。オリコンのシングルチャートでは全52週のうち3分の2を超える36週の第1位がおニャン子関連。3月末から5月中旬にかけては、河合その子、ニャンギラス、新田恵利、おニャン子クラブ、うしろゆびさされ組、国生さゆりという顔ぶれで8週連続だ。



 2月には岡田の生前最後のシングル「くちびるNetwork」が1位に輝いたが、同じ週に初登場した国生の「バレンタイン・キッス」のほうが全般的に売れている印象もあった。これについては「ポスト松田聖子」として期待されていた岡田の格を高め、勢いをつけるため、彼女の陣営が買い支えをやったのではともいわれている。

オリコンのデータに反映される店で大量買いすることで、順位を上げる工作のことだ。



 なお、彼女の事務所の先輩にあたる松田聖子はこのとき、活動休止中。前年、神田正輝と最初の結婚をして、子作りに取りかかり、この時点ですでに娘を身ごもっていた。



 岡田が自殺した翌日には、会見を開いて妊娠を公表。前年の婚約発表から丸一年という節目だったが、事務所としては「ポスト聖子」と呼ばれた岡田の死の衝撃をわずかでもかき消せるという効果も期待していたかもしれない。



 この「娘」がのちの神田沙也加だ。

ある意味、正真正銘の「ポスト聖子」だった沙也加もまた、2021年にホテルの高層階から身を投げ、自ら命を絶つことになる。



 それにしても、ソロアイドルとして史上最高の存在というべき松田聖子の休業中に、おニャン子ブームが吹き荒れ、また、岡田有希子が非業の死を遂げたことは何やら象徴的だ。やがて、おニャン子に触発されたつんく♂がモーニング娘。を作り、おニャン子のスタッフでもあった秋元康がAKB48や乃木坂46などを手がけていくことを思えば、グループアイドルの時代が訪れることを予告していたかのようでもある。





 ところで、この年、岡田とは違う意味でファンをロス状態にした芸能人がいる。当時20歳の尾崎豊だ。

1月に活動休止を発表して、6月に単身渡米。渡米中にクスリにハマってしまい、翌年、逮捕された。



 それ以降、十代での輝きを取り戻すことはできず、92年の4月に26歳で変死。岡田と尾崎という、ふたりのY・Oは、ともに芸能的才能と芸術的志向性を併せ持ち、純粋さと自由に憧れながら、もがき苦しむという思春期的葛藤のなかで挫折していった。年齢は二歳違うが、二卵性双生児みたいな趣きがある。



 ではここで、スポーツ界も見ておこう。

岡田が自殺した日の夜、プロ野球において初の先発出場を果たしたのが西武ライオンズの新人・清原和博だ。



 その3日前には途中出場ながら、プロ初本塁打も記録。最終的には年間31本塁打という高卒新人としての記録を作り、日本シリーズでは4番を任されてチームの日本一に貢献した。



 生年月日は1967年の8月18日で、同年同月生まれの岡田(というか、佐藤佳代)より4日早い。世に知られるのも、清原のほうが早かった。岡田が歌手デビューする前年の夏、PL学園の1年生4番打者として甲子園を沸かせ、一躍注目。そこからずっとスターであり続けたが、2016年にはクスリで逮捕されてしまう。



 岡田や尾崎、そして清原は筆者にとって人生有数の「推し」たちであり、その3人の運命がこうして交差するのは感慨深かったりもする。



 そういえば、清原がプロを引退する頃、彼についての本を書きたいと思い立ち、86年からの全記録を調べ始めたことがある。野球殿堂博物館の資料をあたるうち、この4月には世界を揺るがした大事故も起きていたことを思い出させられた。



 ソビエト連邦で4月26日(モスクワ標準時)に発生したチェルノブイリ原発事故だ。ウィキペディアを見ると、当時の最高指導者・ゴルバチョフのこんな回想が紹介されている。



「自身がペレストロイカを実施したこと以上に、ソ連崩壊の真の要因であったであろう」



 実際、国力の退潮を露呈させたようなこの事故は、5年後のソ連崩壊を暗示するものでもあった。ちなみに、ロシア連邦大統領のプーチンはKGB(ソ連国家保安委員会)の出身で、現在のウクライナ侵攻にも、強大国復権への渇望が働いている。チェルノブイリはめぐりめぐって今の世界にも、影響をもたらしているわけだ。



 ただ、プーチンのように、滅びを経験したことが復讐心のようなものにつながることはわりと珍しい。むしろ、無常観を抱くことのほうが多いのではないか。



 たとえば、立原正秋の遺作短篇「空蝉」には、ハタチ前後で日本の敗戦に遭遇した男たちがそこで「滅亡の美しさ」を視てしまったがために、その後の人生をどこか「空蝉(ぬけがら)」のように生き、死んでいく姿が描かれている。立原は死の香りのするこの作品を書いた直後の80年4月8日に食道がんで入院、4ヶ月後に54歳で亡くなった。





 話を冒頭に戻すと、岡田の自殺現場で毎年出現する光景にも死の香りがして、無常観のようなものが漂っている。それこそ、最近話題になったドラマ「不適切にもほどがある!」(TBS系)には、不適切があふれていた時代として「1986年」の芸能界が出てきたが、彼女について触れられることはなかったようだ。当時と今とのギャップで笑わせつつ、変わらないはずの人情の機微で感動させようとした軽み重視のこの作品において、手に負えるものではなかったのだろう。



 そもそも当時、彼女の自殺は「不適切」なものとして、禁忌事項となった。新曲は発売中止、テレビやラジオで彼女の姿や歌を見聞きすることもできなくなった。その死が青少年の自殺を誘発したという「ユッコシンドローム」対策がその根拠だが、実際には彼女の死の前から青少年の自殺は目立ちつつあり、おそらくチェルノブイリの事故も青少年の厭世的な思いを増幅させたのではないか。



 当時を知るファンには大なり小なり、彼女の死が「不適切」とされたことへの無念があり、死後ファンになった人にもそのあたりの事情を知る人はいる。そのためか、黙祷が終わり、仕切り役の男性が「ひと区切り」的なあいさつをしても、立ち去る人はごく少数だった。



 筆者は人込みと集団行動が苦手なので、1、2分で立ち去れたが、そうしたくない人たちの気持ちもわかる。「滅亡の美しさ」に魅せられ、無常観や憐憫、未練、憧憬といったものを抱きながらそこに集まる人たちにとって、彼女がいるかもしれない冥界と年に一度つながることができるかのようなその場所をすぐには離れがたいのも当然だ。



 そのカオスな光景もまた、彼女が命と引き換えに遺した作品といえる。そして、そこまでして生きるに値する芸能界の凄みを教えてくれるようでもある。



 そんな芸能の魅力の前に、不適切がどうとかこうとかなど些末なことだ。不適切にもほどがあるどころか、美や感動においては「不適切などほとんどない!」に決まっているのだから。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)