早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでほしい」 赤裸々に綴る連載エッセイ「私をほどく」第47回。







【「あの子は馬鹿だから」】



 その瞬間、何かがパキッと割れる音がした。



 そのとき、不意にとあることを思い出した。小さな頃、凍えるような寒さの日に地面に張った薄い氷を無邪気に踏みつけては、パリパリと音を立てて割れていくのを見て喜んでいた。ほんの少しの力で粉々になり、どうやっても元の形には戻すことはできない。朝にだけ、しかもその日に一度しか味わえない楽しみに心を躍らせていた。それから何年も経過して、あのときと同じ、何かが粉々に、しかも簡単に割れていく音をきいてしまうなんて、あの頃の私は想像もつかなかっただろう。



 何年も会っていない人間から「どうしても相談がしたい」と連絡があったのはついこないだのことであった。特にこれといった断る理由も見つからなかったし、わざわざ私のところに連絡するのには、身近な誰かでは解決できないような特別な事情があってのことだろうと思い、了承した。相談の内容は想像していたよりも単純な内容で、付き合っていたパートナーが自分には内緒で水商売で働き始めていたらしく、そのパートナーとやり直すつもりはないが、一度自分が関わった人間が、これ以上深みにはまらないために自分はどうすれば良いかといったものであった。

誰もが相談にのれるような内容でもなければ、似たような業界に身を置いていた人間に聞いた方が探していた答え、もしくは答えに繋がるような何かが手っ取り早く得られると考えたのだろう。確かに、と思う。確かに仕事だって勉強だって、自分で対処できないことは自分よりも造詣が深い人間に聞くのはよくあることだ。ただ、話を聞き始めてから、それが終わった今もなおざらついた心の不快感は拭えないままでいた。





「あの子は馬鹿だからそういう選択肢を取るんだ」



「きっと先のことを考えている様子もないし、やっていくうちに色々価値観がおかしくなっていくんだ」





 話を聞いているうちに、心の奥底に抱えていた言葉が徐々に吐き出され始める。最初に話していた聞こえの良い言葉たちはどうやらはりぼてに過ぎなかったようだ。そんな言葉たちに黙って耳を傾けながら、頭の中で同じ言葉を浴びせられた昔の日々を思い返していた。





【「どうやって助けて欲しかった?」】



 こういう場合、人間は自分の理解を超えるようなことや遭遇したことがないような出来事を目の前にしたとき、それが発生した理由を探し始める。そこで筋の通った何かが見つからないと、相手のどこかに欠損があるかのような疑いを持ち始め、勝手に点を線で繋ぎ始め、最終的にはそれが真実であると思い込み始める。そこに至る背景や感情を深く知ろうともしなければ、本質的に介入するような行為をするわけでもなく、何の攻撃も当たらないような場所から「ああでもない」「こうでもない」と、まるでワイドショーを見ながらケチをつけるかのごとく、自己満足のために物を語るのだ。この人もこんな風に物事を見るのだな、なんて考えながら聞いていると、思いもよらない言葉が私のところに飛んできた。





 「あのときさ、どうやって助けて欲しかった?」





 突然、柔らかい部分に立ち入られた。

急に心臓の脈打つ音が頭の中に響き、このままでは何か大事なものが粉々になってしまうと、いち早く相手に対して身体が拒絶を示していく。私は〈誰かに助けられなければいけない存在〉に見えていたのだと思い知らされ、そしてこうやって誰かの自己満足のために利用されるのかと絶望し、このときに負う痛みにはまだ慣れない。心配から出た言葉、と思う人もいるかもしれないが、そのときの声色や雰囲気で何を意図して話しているかぐらいはおおよそ見当がつく。





 ――どうやって助けて欲しかった?



 助けるって何なのだろうか。何も知ろうとしないのに「こういうものだ」「こういう風に考えている」と勝手に決めつけて、「あなたに対して自分は手を尽くした」という証拠が欲しいために他者の存在を利用しないで欲しい。そんな静かな願いは思ったよりもこの世界では届きにくい。私の過ごした時間や歩んできた人生をこうであると決めて良いのも、結論を出して良いのも、この世界でたった1人、私だけである。



 数日が経過した。こういうときにどうして瞬発的に言葉を返せなくなるのだろうとぼんやり考えながら、ざらついた感情を原稿に吐き出している。いまだに心に堆積した不快感は拭い切れていないが、言葉にしていくうちにじきに解消されるだろう。こんなとき、私には言葉があって良かったと感謝してしまうのだ。



(第48回へつづく)





文:神野藍



※毎週金曜日、午前8時に配信予定 



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