覚醒剤取締法が制定される前までは、市販薬として薬局で販売されていたという大日本製薬の「ヒロポン」。その名前の由来は、「仕事を愛する人」を意味するギリシャ語とラテン語の造語だったという。
◾️新製品の命名に企業は腐心
企業は常に新製品の開発に腐心しているが、開発した後は、その製品の名前が消費者に浸透するように努力する。商品名に工夫を凝らすのも、そのためである。
時には、商品名が普通名詞になるほどの成功例もある。「カップヌードル」(日清食品)、「ウォークマン」(ソニー)、「マジックインキ」(内田洋行)、「セロテープ」(ニチバン)などがそうだ。それぞれ、「カップ麺」「ヘッドホンステレオ」「フェルトペン」「セロハンテープ」が普通名詞である。企業の広報部では機会があれば、それが自社の開発した商品の商品名であることを強調している。
◾️ ヒロポンは「仕事を愛する」の意味
しかし、中には、商品名が普通名詞化するほど大ヒットしながら、逆に企業側が自社の商品であることを隠したがる場合もある。覚醒剤の「ヒロポン」がそうだ。覚醒剤は乱用による中毒がさまざまな犯罪を惹き起こし、またその所持・使用そのものが覚醒剤取締法に触れる犯罪である。
現在、覚醒剤は俗語で「シャブ」と言う。これは、骨までシャブりつくすという意味らしいが、俗語の常として語源ははっきりしない。
覚醒剤取締法制定当時の俗語は「ヒロポン」であった。こちらは由来がはっきりしていて、大日本製薬の覚醒剤の商品名なのである。語源は、ギリシャ語の「フィル Phil(愛する)」とラテン語の「オプス opus(仕事)」を組み合わせて薬品名らしい語尾をつけたもので、綴りはPhiloponである。戦時中、軍需工場で徹夜作業をする時に使われたから、「ヒロポン=仕事を愛する」はいかにもそれにふさわしい商品名と言えよう。戦中から戦後の一時期にかけて、「ヒロポン」と同一もしくは類似成分の「ホスピタン」「プロパミン」「ゼドリン」などが他の薬品会社でも作られていた。小説家の坂口安吾が愛用して中毒になったのは「ゼドリン」である。
◾️方言「ボボ塗る」が由来の秘薬があった?
ところで、商品名には人を食ったものもかなりある。子供向けの菓子に多いが、これは親しみを感じさせる演出だろう。
ある時、B級マンガ雑誌の片隅に性感増進の秘薬の通信販売広告で気になるものを見つけた。その名前がちょっと気になったのだ。「ボヌール」である。これは何の変哲もない名称だが、しかし、何の変哲もないからこそ、逆に気になったのだ。
この種の秘薬は、漢方薬か支那古典文学の一節を想起させるような命名のものが普通だ。いかにも神秘的な薬効がありそうだからである。その中で、フランス語の「幸福・幸運」を意味する「ボヌール bonheur」は、あまりにも凡庸すぎて不自然である。何かありそうだなと、しばし沈思黙考、やがてはたと気づいた。この性感増進の秘薬は、女性性器への塗り薬である。語源はフランス語に見せかけながらフランス語ではなく、日本語の九州方言の語呂合わせ「ボボ塗る」と考えた方が自然なのである。
フランス語風で実は日本語と言えば、1980年代に大流行したノーパン喫茶の第一号店、大阪にあった「エミルマ」もそうだ。もちろんフランス語とは全く無関係で、下から見ると「丸見え」とは、これも人を食っている。
B級雑誌の通販品の商品名には、まだまだ傑作がある。男性向けの人造女性で局部が電気で動く仕掛けになったものに「腰のフラメンコ」というのがあった。語源考証の要など全くない、誰にもわかる爆笑ものの命名である。それにしても、こんな商品名をつけてマジメな消費者が購入するのだろうか。かえって購買意欲をミスディレクションしているとしか思えないが、これも名のない命名者の不条理な情熱が伝わってくるようで、私は好きである。
(呉智英著『言葉につける薬』より抜粋)