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 新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアといった大所の他にも日本国内には多くのプロレス団体が存在する。今回、インタビューしたレスラーは「プロレスリング・フリーダムズ」の社長も兼任している佐々木貴だ。



 プロレスリング・フリーダムズは、2009年に佐々木が仲間と共に旗揚げした団体。自由奔放なデスマッチで「痛みの伝わる」スタイルが人気を博し、ファンの間では「ダムズ」という愛称で呼ばれている「デスマッチのカリスマ」葛西純も所属している。フリーダムズは今年創立15周年、9月には記念興行が開催される予定だ。



 佐々木はこのフリーダムズの所属選手としてファイトをし、社長として毎日のように走り回っている。氷河期世代でもある佐々木に、今回はプロレスラーとして、社長としてここまで過ごしてきた日々について詳しく話を聞いてみた。



 



◾️「何言ってんの。馬鹿じゃない」 妻の一言で覚悟が決まった

 



 佐々木貴が生まれたのは岩手県一関市。のどかな田園風景が広がる一軒の農家で、プロレスラーを夢見た。実は佐々木の祖父がプロレスファン。当時、ゴールデンタイムで放送していたプロレス中継の時間になると、近所のおじさんたちが自宅に集まり一緒に試合を見ていたという。



「いつからなのか、わかんないぐらい小さい時からおじちゃんたちに囲まれて一緒にプロレスを見ていた。それが原点というか、気がついたら僕もプロレスラーになりたいと思うようになったんです」



 小さい頃のヒーローといえば、ウルトラマンや仮面ライダー、戦隊ヒーローなどがあるが、同じような感覚で幼い貴少年はプロレスにハマったという。

しかしプロレスラーになるために何かをしていたわけではない。部活も野球部だった。 



「僕の地元では、小学校と中学校の男子はみんな野球部に入るって決まっていたんです。なにせ男子が1学年9人しかいないくらい子供が少ないんですよ。1人辞めちゃうと試合ができないくらいだから部活を選ぶなんてできませんでした」



 15歳になって高校へ進学。そこで初めて部活を選ぶ自由を得たという。佐々木は柔道部へ入部し、プロレスラーになる夢の第一歩を踏み出した。3年間柔道で体を鍛えた後、プロレスラーになるために上京を決意する。



 「プロレスラーになるために上京したいなんて言えませんよ。母ちゃんが泣いて、大反対するに決まってるじゃないですか。自分の夢を叶えるためには、どうしたらいいのかなって考えていたんですよ。そうしたら神奈川の大学にたまたま合格できたんです」



 上京した佐々木は大学生として新生活をスタートさせた。

ところがプロレスラーになる夢などなかったかのように、キャンパスライフを謳歌する。野球とバスケットボールのサークルに入り、将来妻となる彼女ができて、茅ヶ崎駅前の喫茶店でアルバイト。プロレスラーになりたいことなどすっかり忘れていた。しかし大学3年になる前の春休みに彼女が言った一言が佐々木に夢を思い出させたという。



「彼女に『卒業したらどうするの?』と言われた時、弓矢で射抜かれたように自分の夢を思い出したんです。それで反射的に『俺、プロレスラーになるよ』と言ったんです」



 その言葉を聞いた佐々木の彼女(現在の妻)は、「何言ってんの。馬鹿じゃない」と返してきたそうだ。当然の反応と言えるだろう。高校時代に柔道の経験はあるものの当時の佐々木の体重は60kgしかなかった。その肉体は強靭なプロレスラーとは程遠かったのである。彼女の言葉を聞いた佐々木は俄然やる気にスイッチが入る。



 



「今に見てろよと。

絶対にプロレスラーになるって決意が固まりました」



 そこから佐々木はすぐに行動を開始する。当時はインターネットもなければ、スマホもない時代。そこでタウンページで近くにトレーニングができるジムがないか探した。見つかったのが、プロレスラー・鶴見五郎が経営していたジムだった。鶴見は1971年に国際プロレスに入団した往年の名レスラー。日本人悪党レスラーとして、独立愚連隊を結成するなど存在感を発揮した選手である。このジムに佐々木は一般会員として入会し、トレーニングをスタートさせる。体ができあがってからプロレスラー養成コースへと移り、鶴見からレスラーとしての基礎を学んだ。



 鍛えられた佐々木がプロレスラーとしてデビューしたのが大学4年の秋。上がったのは鶴見が主宰するIWA格闘志塾のリングであった。





「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】
写真:プロレスリング・フリーダムズ提供



◾️WEWでぶち当たった壁。デスマッチに活路を見出す

 



 大学卒業後はDDTプロレスへと移籍した。

佐々木はそれまでDDTのスタイルに憧れており、大きな期待を寄せていたという。ところが移籍してみると団体は「文化系プロレス」と呼ばれるエンタメ路線へ突き進んでしまう。そして佐々木も小中高と生徒会長を務めていたことから「生徒会長キャラ」を与えられる。



「あの頃はプロレスラーとして違和感が生じていました。でも、ちょうど同じくらいの時期に冬木弘道さん(故人)に声をかけていただいて、冬木さんの団体(WEW)に定期参戦させていただくようになったんです」



 冬木弘道は全日本プロレスで活躍した後、天龍源一郎と行動を共にし、SWSとWARの設立に参加し、新日本プロレスやFMWでも活躍した名レスラーである。



 佐々木はWEWではプロレスラーとしての現実を突きつけられてしまう。



「DDTではシングルとタッグのベルトを巻いたこともあったんですけど、WEWはレベルが違いました。どう見ても自分が実力的に一番下なんです」 



 当時のWEWは冬木を筆頭に、邪道、外道、田中将斗、金村キンタロー、黒田哲広とインディー団体のオールスターと呼べるようなメンバーが在籍しており、WWF(現WWE)に所属経験がある新崎人生、新日本プロレスからも真壁刀義が参戦するほどの団体であった。



 佐々木はそこで壁にぶち当たってしまう。177cmの身長は、レスラーとして大きな部類ではない。体重も90kgとこれまた軽い方であり、真っ向勝負で戦っても当たり負けしてしまう。空中殺法で勝負しようとしても、高所恐怖症でコーナーの上に立つこともできない。

そんな時に先輩である金村キンタローから声をかけられる。



「デスマッチやらへん?」



 金村の言葉を聞いた佐々木は軽い気持ちで引き受けた。しかし、この誘いが佐々木貴の運命を変えることになる。



「お客さんの熱気と、自分の中の高揚感が今までと全然違うんです。全身傷だらけになるし、試合終の処置とかも地獄なんですけど、リング上の熱さというか、熱を体感してしまったときに『これだ!』と思ったんです。アドレナリンが出て興奮状態が続くんですけど、お客さんも熱狂していて『すげえ!』とか『怖え』とかリアクションも凄い。もうね、今まで味わうことができなかった感覚をデスマッチで味わっちゃったんですよ」



 佐々木はデスマッチファイターとして開花した。しかもデスマッチの経験を重ねるごとにある種のプライドが芽生えてきたという。



「メジャーと呼ばれるレスラーから『すごいですね』『デスマッチとかもう怖くてできない』とか『いつもすごいのやってるよね』『真似できない』と言われることがあります。彼らに比べたら名前も、体も全部劣っているかもしれない。でもその人たちが真似できないって言わせるだけのことを俺らは普段からしてるっていうプライドが持てる。それは凄く大きいかもしれません」



「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】
写真:プロレスリング・フリーダムズ提供



◾️「仲間が戻ってくる場所を確保したい」団体旗揚げの思い



 佐々木は、冬木弘道が亡くなった後に設立されたアパッチプロレス軍に参加し、デスマッチファイターとして積極的にリングへ上がっていった。

しかし、先輩である金村キンタローがわいせつ事件を犯してしまい、アパッチプロレス軍は活動休止へと追い込まれる。



 佐々木は各方面へお詫び行脚をし、何とか活動を再開したものの試合をしても盛り上がりを見せることはなかった。



 「『頑張ってね』みたいな感じで観に来てくれてるんですけど、やっぱり心からの笑顔は出てない。そんなんで盛り上がるわけありませんよね」



  その後、アパッチプロレス軍は解散を発表。佐々木は仲間と一緒に「プロレスリング・フリーダムズ」を旗揚げした。



「当時、葛西(純選手)と僕は、大日本プロレスにレギュラー参戦していたので、レスラーとして食えていたんです。でも、同じアパッチ(プロレス軍)でもレギュラーで呼んでくれる団体がないレスラーがいたり、Hi69(ヒロキ/現プロレスリング・ノア所属)やマンモス佐々木は怪我で長期欠場中という状況でした。試合がない仲間を見捨てることはできなかったし、怪我をしている二人がリハビリをしている間に所属団体が潰れたら、どこで復帰をすればいいのか? そう思ったら怪我を治すモチベーションがなくなりますよね。それだったら僕が団体を立ち上げて、それを軌道に乗せるから、怪我が直ったらここで復帰しろと言える場を作ってあげたいなって思ったんです。その二つが大きかったです」



 仲間が戻ってこられる場を作ったが、何も知らずにスタートしたため最初は苦労の連続だったという。



「まずパソコンの電源の入れ方も知らない。選手だったからメディアにリリースを送る方法も知らない。会場を押さえるとか、会社と契約書を結ぶとか、会場費をいつまでに支払うとか、何も知りませんでした。チケットの作り方も知らないので、大日本プロレスの登坂社長やDDTの高木社長に教えてもらってやっていましたね」 



 最初は周りからサポートを受けながら何とか団体を運営していった。そしてチケットを売るために、あちこちへ営業活動をしていくと「プロレスって八百長なんでしょ?」「デスマッチに使っている蛍光灯って痛くないんでしょ?」といったからかいの言葉をぶつけられたという。プロレスを知らない人からは、佐々木の大きくない体格を見ると「本当にプロレスラーなの?」とバカにされたこともあるそうだ。



「そういう時って『ちくしょう』と思うんですけど、たまにシャツを脱いで、全身傷だらけの身体を見せるんです。そうすると大体黙ります。もしくは「ごめん。悪かった」と言ってチケット買ってくれますね。この身体は水戸黄門の印籠みたいなもんです(笑)」



 数多くのデスマッチを行ってきた佐々木の身体は全身傷だらけである。ガラスの破片が刺さったり、蛍光灯で額を割られたりした傷が今でも残っている。その身体を見て、揶揄できる人間は中々いないだろう。



 そうして社長として先頭を走ってきて、今でも大切にしていることがあるという。





◾️「社長が失敗しても率先して走り回る会社は成功する」



「社長って二種類いると思うんです。一つは『俺は社長だから』と椅子に座っているタイプ。もう一つが僕みたいに自分から走り回るタイプ。僕は興行の時もそうだし、営業も率先して動く人間です。動いていないと不安もあるのかな?



  でも以前、僕の出身である岩手で興行した時に、地元ですごく有名な会社の社長とお会いする機会があったんです。その時に『社長が社長室でふんぞり返ってる会社はすぐ潰れるぞ』と言われたんですよ。そして『社長が失敗しても率先して走り回る会社は成功する』とアドバイスされました。その言葉は今でも肝に銘じていますね」



 佐々木は広島で興行があれば、現地入りしてあちこちへ営業に回る。沖縄でも同じようにポスター掲示のお願いをしたり、チケットを売り歩いたりして誰よりも動き回っている。その佐々木の姿を見て所属選手はもちろん、フリーで参戦しているレスラーも影響を受けている。



 デスマッチ団体であるフリーダムズは、試合が終わるとリング上やリング周りに凶器で使ったガラス片、木くず、画びょう、折れた釘などが散らばっている。もちろん全部掃除をしてから撤収作業に入るのだが、その掃除をフリー選手が率先して手伝ってくれているという。



「別に僕が『掃除しないとリングに上げないからな』なんて言ったことはありません。彼らは所属じゃないから帰っていいんですよ。でも、率先して手伝ってくれるんです。ものすごくありがたいですし、嬉しいですよね」



  その思いが観客にも伝わったのが、昨年行われた横浜武道館大会だという。横浜武道館は公共施設のためガラスの破片が飛び散るようなデスマッチはNG。佐々木が頼み込んで、画びょうの使用は何とかOKが出たという。「デスマッチゴミもお客様のゴミも清掃の徹底をお願いします」と釘を刺されていた。



 しかし試合後の会場はほとんどゴミが残っておらず、試合で使った画びょうも全て回収。しかも貸出時間内に撤収作業が完了したそうだ。貸出主からも高評価を得たという。



「僕からリングの上のことに関して、こうしてくれとかああしてくれとか、これはやらないでとか、ほぼないんですよ。リング上では好き放題やらせています。でもリングを降りたら、社会人として会場に迷惑をかけてもいけないし、お客さんに迷惑をかけてもいけないと言っています。レスラーだからって言い訳しても周りの人は関係ありませんからね」



「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】
写真:プロレスリング・フリーダムズ提供



 



◾️プロレスは人に元気と勇気を与えると被災地で教えられた



 2020年に起きたコロナ禍。エンタメ業界は緊急事態宣言によって大きなダメージを受けた。もちろんプロレス界も例外ではない。開催を予定していた大会は軒並み中止。チケットは払い戻しになってしまい、フリーダムズも売り上げが大幅に減少した。



「あの時、無観客試合とかやっている団体さんはあったんですけど、僕の中では無観客はなかった。配信して収益を得るのはわかるんですけど、誰も見てないところでやるデスマッチは地獄だなって思ったんです」



 当時、新日本プロレス、全日本プロレスといったメジャー団体は無観客試合を開いて生配信やPPVで収益を上げていた。お客さんを入れるとクラスターが起きる恐れがあったし、かといって興行をやらないと団体が潰れてしまうため、苦肉の策だったのは言うまでもない。それでも有観客での興行にこだわる佐々木はある行動に出る。 



 「再開するとしたら、何に気をつけたらいいんだ、コロナのクラスターを起こさないためにはどうしたらいいんだ、そういうのを東京都に問い合わせしたんです。向こうもいろいろ親身になって相談に乗ってくれたんですよね。それで今なら当たり前のソーシャルディスタンス取ってくれ、マスクしてください、声を出さないでください、手洗い消毒、検温はしっかりしてください、そういうのを全部アドバイスしてくれて、言われるがままにやったんです」



 そして2020年6月10日、プロレス界では一番早く有観客での興行を再開。本来300人入る会場を上限92人にまで抑えての開催だった。収益は赤字であったが、佐々木は胸を張って取材陣へ答えた。



 「プロレスを見たいというお客さまの声と、プロレスをやりたいという選手たちの声。この二つの要望を叶えてあげたい。その思いだけでした」



 佐々木は、この時のことを振り返り「お金では買えない信頼を得られたかなと思います」と語った。



 そして佐々木が、どうしても忘れられない出来事として挙げるのが東日本大震災である。故郷である岩手も大打撃を受けており、岩手はもちろん宮城や福島へ物資を届けたり、チャリティープロレスを通じて感じたことがあるという。 



「被災地へ行くと食事は冷たいコンビニのおにぎりしか食べられなかったり、ずっと体育館の床の上に段ボール敷いたりしているせいか、うつむき加減の人が多かったんです。そこで僕らが『今からうどん作ります!みんな取りに来てください』と言うと来てくれるんですよ。リングがあると『今からプロレスやります。無料だから見ていってください』と言ったらすごく喜んでくれた。さっきまでうつむいていた人が、大きな声を出して応援してくれてすごく盛り上がったんです。その姿を見て『俺の仕事ってこれだ!」と思ったんです。



 プロレスって、絶対に必要な仕事ではありませんよね。でも、なかったら心が豊かにならない。人をこんなにも元気づけたり、勇気づけたりしているんだなと。誇りに感じられました。



 思い返してみると、日本にプロレスが来たのは戦争に負けて打ちひしがれた時ですよね。当時の日本人は力道山先生を見て、勇気づけられ、元気づけられた。規模は全然違うけど、力道山先生と同じことをさせてもらえたと思ったんです」



 現在、佐々木は今年の元旦に起きた能登半島地震の募金活動も積極的に行っている。他にも熊本の震災や土石流被害にあった地域の支援活動もしているという。



「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】
筆者撮影:取材時の佐々木貴選手



 



◾️フリーダムズは絶対に潰さないという強い意志表明

 



 団体の長、デスマッチファイターの顔を持つ佐々木は一つ決めていることがある。それはプロレスリング・フリーダムズが無くなった場合は自身も引退するということ。その理由を聞いてみた。



 「逆に言えば、引退したくないから絶対になくさないという意味でもあるんです。こんな僕でも付いてきてくれる若い人もいますし、応援してくれるファンもいます。ウチのファンは“箱推し”と言って、フリーダムズという団体を応援してくれてる人が多いんですよ。首都圏だけじゃなくて、地方にも遠征してくれるくらい熱心なファンもいます。彼らの生きがいでありたいんですね。だからこそ命がけでフリーダムズという団体を守りたい。その意思表示だと思ってくれたら」 



 フリーダムズという団体を通じて繋がった人たちのために、いつまでも先頭を切って走り回り団体を守る。リングに上がれば、デスマッチファイターとして自由気ままに戦う姿をファンに見せる。これだけエネルギッシュに動く佐々木に、同年代である氷河期世代へのメッセージをお願いしてみた。 



 「僕は今49歳で来年早々50歳になります。好きなものを追いかけてきて、好きなことを職業にしたんで、気持ちはずっと青春時代なんですよ。同年代の方々が『もう50だから』なんて言うと、何かどんどん自分で自分を駄目にしてる感じがします。気持ち一つで意識が変わると思うから、何か自分が青春真っ只中って思えるものを見つけてほしいですね。それは仕事じゃなくてもいいし、趣味でもいいと思うし、独身の方は恋愛でもいいと思います。それがあれば若々しい気持ちでいられるかもしれないから馬鹿になって熱狂できるものを見つけて欲しいですね。



 僕の場合、それがプロレスだったし、今でも生業としています。それは凄く幸せなことだと思います。だから50歳を迎えても全速力で走れるし、絶対後悔しないと思うんですよ。やりたいことをやってきたという自負があるので、『あれしたかな』『これしたかったな』『あれ実現できなかったな』とは思いません。皆さんにもそういう人生を歩んでほしいですね」





文:篁五郎



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