早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでほしい」 赤裸々に綴る連載エッセイ「私をほどく」第49回。



《得体の知れない私》と向き合うとはどういうことか? 自分の...の画像はこちら >>



【過去の私では想像がつかなかった時間】



 どこかにいきたいのに、どこにもいけないと思っていた。



 心の中で「どこへでも行ける」「何でもできる」と思っていても、最後の一歩が思うように踏み出すことができなかった。私に絡みついた鎖は思ったよりも複雑で、事あるごとにじりじりと焼け付くような熱さを帯びて巻きついてきた。自分で行った過去の決断を今の私が受け入れられないというのは、なんと愚かなことなのだろうか。自分で生み出した泥沼から這い上がることができないまま、進んでいるようで進んでいない人生をなぞるばかりであった。



 自分自身と向き合いはじめてちょうど一年が経過した。今、過去の私では想像がつかなかった時間を歩んでいるのは確かだ。行き場のない感情をどうすることもできずに訳もわからないまま咽び泣いたり、自らを悪い思考に突き落として必要以上に傷を抉ったりすることも片手で数えるほどに減り、私の中に生まれた澱みをそのまま放置するような行為もしなくなった。



 それに加えて、身を置く環境ももうすぐがらりと変わる。

これまで色々な考えが思い浮かんでも、東京にいる方が透明な存在のままで守られているような気がして、このまま何年先も留まる、というよりも留まらざるを得ないだろうとぼんやり考えていた。



 今回私にとって安定している場所から抜け出して、何の由縁もない場所に向かうことになる。考えたくはないが、何も言わずとも私の過去が明るみに出て、何らかの支障をきたす出来事も起きないとは言い切れないのは確かである。そんなことはもう既に何度も考えた。ただ、どんな物事を天秤にかけても「東京を出ない」という選択に傾くことはなかった。



 誰かにこうしろと言われたわけでも、何か必要に迫られてそうせざるを得なかったわけでもない。別にそのままでも困ることはなかった。この狭い水槽の中は泳ぎにくいけれど、良くも悪くも安定はしていたのは事実である。飛び出さなければ苦しむことも、傷つくこともない。ただ、「これが永久に続いたとして、それは私の幸せなのだろうか」とぼんやり考える時間は次第に増えていった。



 そんな中でこのエッセイも含め、これまでの流れとは違うと感じるような選択肢が舞い込むことが増えていき、その都度「進む」か「留まる」かを迫られ続けた。これによって全てが変わったなんて原因はなく、私の感覚としては、《一つ一つの決断と出会いが積み重なったことで道が作られ、ここまで歩いてきていた》に近いのかもしれない。

その一つ一つについてはこれまでの回で触れてきたが、今回改めて言葉にしたい変化を綴っていきたいと思う。





【私はどこにも行けない存在なのか?】



 私という存在の輪郭をなぞり一つ一つ言葉にしていくうちに、ある時他人に対して取り繕うような行為をしても意味がないと気がついた。良くも悪くもここに書かれていることが私の思考であり、意志なのだから必要以上に良く見せようとしたり、何かを隠したりしたところでいずれは明るみに出る。最早「ここに書いてあることを読んで、うまくやっていけないと思うならば距離を置いてほしい」と思うほどであった。



 一定数、今目の前に存在している私ではなく、過去の私だけを見ている人間は存在する。彼らはどんなに不適切な発言や存在を軽んじるような発言でも笑顔で受け入れてくれると信じ込み、平気でそう行動する。映像の中の止まった時間を現実と勘違いするとは何と悲しいことだろうか。そして、それを「しょうがない」と諦めていた私は何と愚かなことだろうか。



 人間関係は互いの誠意と維持の努力で成り立つものではあるが、私が一部抱えていたものはそこに満たないもので、私にとって不必要であると分かりながらも無駄に力を尽くしていた。そういったものに対して、毅然とした態度をとっていくうちに自然と繋がりが解消されていき、そして同じような人間が集まってくることも無くなった。



 今、私の周りには《今の私》を見てくれる人間しか存在していない。それだけでこんなにも穏やかな気持ちになれるなんて、少し前の私では想像することができなかった。



 一定の時期から私は《過去の私》を過ちとして扱うようになった。あの2年間、確かに存在していたきらきらとした時間までも全て黒く塗りつぶし、勝手にラベルを貼り付けて触れないようにしていた。ふとした瞬間に苦しむためだけに過去の時間を引き出す、そんな状態であった。



 そんな私を引きずり出し、目の前に座らせて対話をする。このエッセイはその作業の連続で、得体の知れない私というものが、以前よりも理解できるようになった。だからといって、今も完全にそこから脱却したわけではなく、じりじりと痛みがぶり返し我を忘れるようなこともあるし、何かを決断しようとしたときにふと良くない感情が過ぎることもある。ただ、前よりも受け入れられるようになったのも事実で、何よりも今の私がもう苦しむだけの場所に留まるのではなく、もう少し先に歩いていきたいと思えるようになった。



 一つ一つの選択を繋いで、ここまで歩いてこれた。それが正解か、不正解か、成長か、退化か、私ですら分かっていない。ただはっきりと分かっているのは、私はちゃんと自分の足で歩けるように、そして自分が願った場所に歩いていけるようになったということだ。途中で苦しくなっても、苦しくない場所までまた進んでいけば良い。





 もう私はどこにも行けない存在ではないのだから。





(第50回、最終回へつづく)





文:神野藍



※毎週金曜日、午前8時に配信予定 



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