昨年末に公開された映画『市子』が静かに、楚々と人気を続けている。その証として、上映を続ける映画館もある。

スペシャルな作品として、映画館で観たいと思うファンは絶えることはない。一般的な劇場公開期間を終えて、一般視聴者のために動画配信サービス『Amazonプライム・ビデオ』で観ることもできる。さらに、熱狂的なファンのために、7月には円盤化(Blu-ray、D V D化のこと)も予定されているという。つまりあちこちで『市子』は残っていく。あまり聞かない現象だ。 



 主役の川辺市子を演じるのは、杉咲花。市子と三年間、共に暮らしていた長谷川義則役には若葉竜也。現在放送中のドラマ『アンメット』(フジテレビ、関西テレビ系)で共演中の二人が、先に共演した作品でもある。あらかじめ伝えておくが、役柄は映画とドラマでは全く違う。 



 この作品に込められた言説はなんだろう。作品の評判を聞いて、自宅で鑑賞したけれど物語が進むにつれて思うところが勃発。結局2回も観た私の感想をどうぞ。





◾️市子が抗うことはできない過去



 “長谷川義則(若葉)は三年間、共に暮らした恋人の川辺市子(杉咲)にプロポーズをした直後、市子は義則の前から姿を消す。家出というレベルではなく、忽然と消えた。警察に捜索願いを出して、刑事に事情を話すと、義則が全く知らなかった市子の過去が次々に浮上してくる。どれだけ彼女を探しても、存在の決定打に辿り着くことはなく、ついに知ったのは彼女が”市子“ではないこと。結婚しようと思っていた相手の素性に、義則はひたすら苦悩する”



 



 現在放送中の春ドラマでは、記憶喪失を主軸にした連続ドラマが5作品も放送されて、ネットニュースの話題をさらった。同レベルではないけれど、ここ数年、映画では戸籍をめぐる作品がいくつか上映されている。『市子』も同じく、物語の原点になっているのは市子の戸籍だ。



 上映時間の126分中、自宅で観ているにも関わらず、息つく時間がなかったように思う。自分の動作で思い出すとするなら、鑑賞中は目をかっ開いていたことくらいだろうか。それほどに一人のおばさん(私)が吸い込まれたのは、やはり杉咲花の鬼気迫る演技。市子が高校生のシーンから彼女は登場する。 



 「今日も、暑いなあ……」



 生まれてきてから、一度も自分の居場所を持ったことがない市子。

劇中、たった一言のセリフにも何か狂気が込められているような気がしてしまう。ただ居場所そのものを知らない彼女は、自分の狂気に気がついていない。





 





◾️「花は水をあげないと、枯れるから好き」



 



 目を見張ったのはパンニング(カメラの位置を変えないまま、左右の場面を映すこと)の激しさだ。セリフの応酬には、市子の魂の叫びが篭っている。私が観てきた邦画作品では一番長く、そして激しかったように思う。このシーンへ対するかのように、杉咲花による約6分間の、全くセリフがないシーンもある。一つの作品に表れた、激情と沈黙の応酬。注目してほしいシーンだ。そして映画には他にも市子の寂しさと狂気が、濁流のように流れてくる。 



 「ただ普通に生きたいだけ」 



 彼女が放った一言には、私たちが知る由もない願いがある。どんなに大人になっても見つかることのない自分の在処と、常に隣り合わせの壮絶と地獄。



  「花は水をあげないと、枯れるから好き」



 映画のセリフとして聞いているだけなら流してしまうけれど、この一言には彼女がここまで経験してきた、凄惨な事実が込められている気がした。

他にも胸打たれたシーンやセリフはいくつも流れてきたけれど、これ以上は盛大なネタバレに繋がって、皆様の楽しみを奪ってしまうので、本編についてはここまでにしておこう。



 



◾️市子の最期はどんなものだろうか

 



 鑑賞中、市子が逃げ走る姿を見ていたら、一人の人物を思い出した。殺人、逃亡犯だった福田和子(2005年没)だ。1982年に殺人事件を起こして、1997年に逮捕される。約15年間、逃げ回っている最中、いつも彼女には味方になってくれるパートナーがいた。それだけ魅力があったのだろう。特に石川県の和菓子屋の主人に見初められて、若女将のように働いていたエピソードは色濃い。主人からプロポーズも受けていたという。ただ周囲の警察への通報で、福田はまた逃亡する。着の身着の儘、自転車で逃げたというのは有名な話だ。



 市子と環境やスタートは違うけれど、この狭い日本国内を逃げ回っていたという事実が、私に二人の女性を彷彿させた。福田は逮捕から約五年後、まるで逃亡で知力体力を使い切ったかのように病死にて、獄中で人生の幕を下ろした。

57歳のことだった。映画『市子』はフィクションであり、主人公も架空の人物ではある。もし、市子が実在する人物だとしたら、彼女はどんな最期を迎えるのだろうか。



 「きっと明日はいい天気」



  劇中で市子は童謡『虹』を口ずさんでいた。このワンフレーズが物悲しくもあり、彼女の最後を示しているようで、少し震えてしまった。そして映画『市子』が公開から全く色褪せることなく、むしろ色が深まりながら皆に愛されていく理由がわかった。それは観ている私たちも義則や北秀和(演:森永悠希 市子の高校時代の同級生)のように、市子の虜なのだ。



 



※映画『市子』はAmazonプライム・ビデオにて配信中。その他、上映映画館もあり。詳しくは公式サイトにて確認を



 



文:小林久乃(コラムニスト、編集者) 



 

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