どのようにして我々はこのような状況から抜け出し、生き抜いていったらいいのだろう? 子供に模範を示さなかければならない学校で起こったことである。
6月19日(2024年)、朝日新聞を読んでいました。
「(先輩教師から)振り付けは(中略)毎日のように1時間ほど厳しい指導を受けていた」
「(6月には授業研究をめぐって先輩教員が)18~21時ごろまで、きつい言葉で指導している日があった」
また、公務災害に認定された認定書によると、
「担任する児童の宿題忘れや係決めに関して、先輩教員らと時間外勤務中に話し合いがもたれた。ここで男性が泣いていたことが確認された」
そして、男性は、その夜、自殺を図り翌日に息を引き取ったのです。
私は一人の教師として、複雑な思いを持ちながらこの記事を読み終えました。
私の脳裏には、教師になってから今に至るまでの様々な言動が、小さな渦になってぐるぐる回り始め、そして、私の思いは言葉となって浮かびあがってきたのです。それはいたってありきたりなものでした。
「この出来事はけっして他人ごとでは済まされない。今現在学校現場にいる教師の誰にも起こりうることだと認識しなければならないのではないだろうか」それは私自身に向かった言葉でした。
今の日本では、このような出来事が全国どこの学校でも起こり得るのです。これは異常なことです。
また、記事の中では、関係者から聞き取られた多くの言葉が記述されていますが、言葉というのは、誰がどのように発するか、発する者(教える者)と受け取る者(教えられる者)との関係性によっても受け取る内容が大きく変わってきます。学校現場では、教員同士の直接対話が少なくなっているのが現状ですが、発する者(教える者)と受け取る者(教えられる者)との間に信頼関係が成立していなければ、言葉の強弱いかんは関係なく、「きつい言葉」は到底受け入れられないでしょう。受け入れられない言葉は大きなプレッシャーにしかならないのです。
私も経験年数がほどほどにある教師なので、後輩教師たちを指導することがありますし、アドバイスをすることもあります。しかし、すべての「指導」や「アドバイス」が後輩教師に素直に受け入れられるとは思っていません。残念なことですが、私の伝えた言葉(指導やアドバイス)を、後輩教師が予想外の受け止め方(曲解)をして困ったことも何度かありました。その度に、後輩教師との間にある「意識のギャップ」「言葉のギャップ」に困惑したものです。
■私が本音で助言した同僚の教師は翌日学校を休んだ
数年前になりますが、「私の授業を西岡先生に観ていただいて、西岡先生の思い考えをお聞きしたいのですが、宜しいですか」そんな話が後輩のA先生からありました。自分のペースを守り、同時に自分のスタイルを貫きながら授業をしているA先生の日常からは、想像できない突然の要請でしたが、善は急げ、です。その日の放課後、私とA先生は職員室で長い時間話をしました。
私は、A先生の授業を観て感じたこと、思い考えたことを素直に話しました。その内容はA先生にとって耳当たりの良い話ばかりではありません。それは当然のことです。しかし、「A先生は見かけや行動に反してとても繊細な人だ」と私は思っていたので、A先生にとって耳当たりの良くない事は、言葉を選んで丁寧に話をしたつもりでした。
次の日、A先生は学校を休みました。しかし、私はA先生が休んだことと昨日私とA先生が話をしたことを結びつけることはありませんでした。私は自分の思いや考えを素直に話しましたが、話し終わった時のA先生の様子は、けっして否定的なものではなかったからです。
ところが、しばらく時間が経過したある日、思わぬ情報が私の元に飛び込んできたのです。
「A先生が休んだのは西岡先生の話にショックを受けたから、のようですよ」
その情報に私は心底驚きました。
「えーっ、それはないでしょう」
思わず言葉が出るほどのびっくりでした。
しかし、今思い返し本音を言えば、(A先生にも伝わっていたと思うのですが)、私は「A先生の授業を変えなければならない」と強く思っていたのです。A先生の思いや考えを聞けば聞くほど、今のままの授業では子どもたちには「ゲーム感」しか残らないし、授業内容が子どもたちに伝わらないと判断したからです。
A先生は休むという行為(エゴ)で自分の思いを表現しました。ところが、私と話をしている時にはA先生が休むという選択肢を持っているなどと微塵も感じませんでした。A先生の休みと私の言動が繋がっているのであれば、A先生は私に自分の言葉(エゴ)をぶつけるべきでした。無批判に私の言葉を受け取るべきではなかったのです。それは同じ学校に勤める者同士にとって必須です。今、教師たちは自分の言葉を失いつつあります。
■学校現場の劣化したコミュニケーションを立て直せるか
春日市の「新任小学校教諭」へ向けた「先輩教師ら」の指導や叱責は、自分たちの価値観を「新任小学校教諭」に押し付けたということにすぎません。「先輩教師ら」の思いの中に「新任小学校教諭」を「困らせてやろう」「自死に追い込もう」など微塵もなかったはずです(そう信じています)が、「新任小学校教諭」の気持ちをくみ取ろうという思いもなかった。やはり、言葉が一方通行では、言葉がどのように伝わっているか分からないのです。
「先輩教師ら」の思いはどのようなものであったかはさて置き、学校という場でのコミュニケーションが一方通行では、教師にとっても、子どもにとっても、学びの場とは言えません。
異なる思いや考えを持った多くの人たちが、共に生きていくのは簡単なことではないと思います。さらに、お互いが分かり合えるようになるには大きな困難を伴います。しかし、学校というのは、分かり合えなくても一緒にやっていかなくてはならない所なのです。それは教師同士であっても、子ども同士であっても、教師と子どもの関係であっても同じです。
■忘れられない教室の風景
ある年の5年生の教室で、私にとって忘れられない出来事がありました。それは算数の時間のことです。
「先生、授業中に注意をするのはもうやめてください」
突然、言葉が飛んできました。話を聞いているのか聞いていないのか分からない男の子に対し、私が言葉をかけていた時のことです。
発言したのは、しっかり者の里子(仮名)でした。
「ちゃんとやっていなければ注意するのは当然だろう」
私も勢いで言葉を投げ返しました。
「でも、注意しなければならない人はごく一部の人たちです。その人たちには個人的に話せばいいと思います。授業が中断され他の人に迷惑です」
すると、これまたしっかり者の杏子(仮名)が、里子に賛成するような声を挙げました。
「私も里子ちゃんと同じです。いつも注意される人は同じです。その人たちにもいい加減にしてほしい!」
里子の言葉には思わず言葉を投げ返しましたが、その後の私は案外冷静でした。「ここは時間を取った方が良さそうだ」と判断し、他の子どもたちに話を振りました。
「2人は自分には全く関係ないことだと思っているようだけど、他の人はどう思う?今の出来事」
教室にいるみんながどのように思い考えているか知りたい、という気持ちもあったのですが、それ以上に、他の子どもたちに話を振らなければ、教室にいるすべての子どもたちの自分事にはならないと思ったからです。
すると、これまた自分のペースで動く大志(仮名)が手を挙げました。
「俺は、注意することがあったらその場で注意した方がいいと思う。
この後も、自分事になった子どもたちの発言が続きます。いつの間にか、算数の時間が学級会のようになってしまったのです。
里子が自分の思いを私にぶつけてきたことをきっかけに、「注意は必要」派と「注意は必要ない」派のディベートになったのは、里子にとって予想外の事だったにちがいありません。それでも、里子は嫌な顔を見せず、自分とは違う子どもたちの考えに耳を傾けていました。
里子は自分の思いや考えを支える言葉を持っていました。それがたとえ教師であっても、自分の思い考えと違っているのであれば、きちんと伝えるという意志を持っていました。里子以外にも、この教室にいる子どもたちの多くは、語るべき思いや考え、そして言葉を持っていたのです。
■「必死になって議論したことがとても懐かしいです」
この教室にいた子どもたちが成人になった年に、太一(仮名)から手紙が来ました。その手紙の中に次のような文が続いていました。
「先生と必死になって議論したことがとても懐かしいです」
その文を読んでいると、一番後ろの席で口から唾が飛び出す勢いで話をしている太一の姿が浮かんできました。その姿を思いだすと、思わず笑いがこみ上げてきます。
ある研究会で久しぶりにお目にかかった東大名誉教授の佐藤学氏との雑談の中で、「自分の言葉で語らなくなった教師が多くなった」ということが話題になりました。確かに、私が参加したその研究会の様子を見ていても、多くの教師たちは自分の体験や思考を言語化することを、自ら放棄しているように見えました。やはり、教師自らが自分の思いや考えを表現する言葉を持たなければ、子どもたちも自分の言葉で自分の思いや考えを語ろうとはしないでしょう。
もう一度繰り返しますが、学校は、子ども、教師、保護者などなど、様々な思いや考えを持った人たちが集まっている所です。その中で、一人ひとりが生きていくためには「言葉」はなくてはならないものです。この5年生たちを見てください。異なる思いや考えを持った人たちが言葉をぶつけ合い、語り合い、さらに、お互いをよく見合うことで、お互いの程よい距離感を獲得しようとしているのです。また、相手に向かった言葉は、自分にも向かい、そして、自分の体の中に積み重なり発信者自らを育てていく、ということも実感しているのです。私たちが言葉を持つこと、それをぶつけ合うことを面倒くさがっているうちは、今のような状況からけっして抜け出すことはできないでしょう。
文:西岡正樹