松本さんは「何者でもなかった自分」に戻れるか。そう、たけしさ...の画像はこちら >>



週刊文春の報道に端を発した性加害疑惑によって、突如として表舞台から姿を消した「松ちゃん」こと松本人志。渦中の松本へ、ゆかりのある識者たちがそれぞれの視点から寄稿した『ありがとう、松ちゃん』(ベストセラーズ)が話題だ。

ただし本書は単なる礼賛本ではない。過去に「お笑いオワコン」発言で松本と一悶着あった脳科学者の茂木健一郎氏の寄稿も収録している。「僕は松本さんに代表されるお笑いのあり方、そしてそのファンの方々とは反対のスタンスを取ってきた」としつつ、ビートたけし氏を引き合いに松本にエールを送った。



■今の日本のお笑いでは「スケール」しない

 大前提として、今回松本さんがこういった形でテレビから消えることは全く望んでいませんでした。僕にとってダウンタウンのお笑いは必要不可欠ではありませんが、彼らの笑いを必要としている人がたくさんいるのは知っています。実際、SNSを眺めてもいまだに松本ファンは根強いですよ。僕もよく彼らとバトルしています(笑)。でも、お笑いの価値は人それぞれ。誰かのお笑いを聞いて笑うのは脳にとっても良いこと。だから今回のことで彼らが笑えなくなってしまったのは、本当に残念なことだと思っています。



 僕と松本さんって別に遺恨はないですからね。確かに昔、僕が「日本のお笑いはオワコンだ」とツイートしたことがあって、松本さんの「ワイドナショー」に呼び出されてキツいことを言われたことはあります。

でもそれに恨みなんて全くないですよ。



 ただ、お笑いに対する考え方は違う。松本人志を古典とする日本のお笑いは、もう先に進めないなと思っていたのも事実です。



 M1を観ていても思うのが、今の日本のお笑いって「人間関係」に縛られているんですよ。会社や家庭での人間関係と同じように、お笑いの世界でもお互いの関係性を大切にして、空気を読んでコミュニケーションし合っているというか。そもそもボケとツッコミというスタイルからもわかるじゃないですか。お互いに上下関係があることが多い。また奇抜なことを言ったボケに対して、ツッコミが言わば世間の空気を代弁するように蓋をする。そんな構造になっているでしょう。



 ちなみにこのボケとツッコミというスタイルは、日本独特のもの。アメリカだと「スタンダップコメディ」という名前で、芸人が一人でボケまくるスタイルが主流になっていますから。



 この日本的なボケとツッコミは、人間関係の機微とか、当意即妙の掛け合いが楽しめるという良さはあります。

でも、結果的に社会に対する大きなインパクト、いわゆる「スケール」することができない。「スケールしない」というのはベンチャー企業の経営者がよく使う言葉ですけど、つまりその事業が社会に大きな影響を与えられない、ということなんです。お笑いに当てはめれば、社会の大きな問題を笑いに変えることができない、ということですね。





■国力とお笑いの力は比例する

 例えば、第一原発の問題、リニア新幹線の工事をめぐる問題、自民党の裏金問題……海外のコメディアンなら飛びつくようなネタも、日本の芸人はあまり扱いません。風刺のタネにして権力者を茶化す、それがコメディアンの本来の役割のはずなのに。日本のお笑いはそこまでいけない。人工知能とか生成AIといった最先端テクノロジーの話題にしても、ダウンタウン的なお笑いでは扱いきれないでしょう。



 そうやって日本のお笑いがスケールできないこと、そして内輪で忖度を重ねた結果日本が世界の中でオワコンになってしまったこの「失われた30年」。この2つは無関係ではないような気がしているんですよね。



 そんなふうに考えて、僕は松本さんに代表されるお笑いのあり方、そしてそのファンの方々とは反対のスタンスを取ってきたつもりです。もちろん松本さん個人については、すごくお笑いのセンスがある方だと思っていますし、義理人情に厚い信頼できる人だとも思っています。でもそれだけでは先に進めないんですよ。



 今回のこの本も、最終的にどういう立て付けになるかわかりませんが、「松本人志こそ至高の存在なのに、なんでテレビから消えなきゃいけないの?けしからん!」というような内容だとすると、正直それは古臭いなと思ってしまいます。もうそんな時代じゃないでしょと。



 今回の一連の報道に関しては、事実関係がまだはっきりしていないので、僕からは何もコメントできる立場にはありません。ただ、この問題の根っこにあるのは週刊文春だ、というのは違うと思っています。



■週刊文春だけが問題の根っこじゃない

 確かに、文春の記事をきっかけに物議を醸すことは多い。でも結局、文春がどれだけ下世話なスクープをしたところで、燃えないものは燃えないじゃないですか。昨年の年末に、文春の元編集長である新谷学さんと対談する機会があったのですが。新谷さんいわく、文春の記事というのは「この人にはこういう一面があります」ということを示すのが役割だと。つまりその先の是非の評価は読者に委ねられているんだそうです。最終的には私たち自身が決めること。記事の受け止め方次第だと。



 実際、イギリスでもボリス・ジョンソン前首相が在職中に複数の女性との間に婚外子がいるという報道が出たことがありました。

子供の数が確定できないから、ウィキペディアでさえ「3人から6人の間」とか書かれていたほど。でも、それがさほど大きな問題にはならなかった。世間は別に興味なかったんですよ、そういう話は。



 僕の友人の成田悠輔くんのケースは真逆でした。最近、彼はキリンの「氷結」のCMキャラクターを降ろされてしまった。理由は彼の過去の「高齢者は集団で切腹すべき」発言が物議を醸したからです。でも、そもそもキリン側はその発言を知った上で起用を決めていたんですよ。にも関わらず、ある時を境に突如として抗議の声が殺到し、そしてキリンはその声に屈してしまった。



 つまり何が言いたいかというと、著名人のスキャンダルにおける本当の「ラスボス」は週刊文春ではない、むしろ世間の声なんだということ。敵を見誤ってはいけないなとは思います。





■「大日本人」の失敗でこじらせてしまった

 話を松本さんに戻すと、彼にとって転機になったのは何と言っても映画「大日本人」の失敗だったと思うんです。



松本さんは「何者でもなかった自分」に戻れるか。そう、たけしさんのように。【茂木健一郎】
▲ターニングポイントとなったと指摘する「大日本人」



「大日本人」って別に悪い作品じゃないですよ。

松本人志節が炸裂した、シュールな笑いに溢れた意欲作でした。でも、「わかる人にしかわからない」創作になっていたのかもしれません。残念ながら日本でも海外でも受け入れられることはなく黙殺、爆死と言える結果でした。この結果が松本さんにとって相当こたえたのではないでしょうか。



 本心を言えば、あの頃の松本さんはたけしさんのような存在になりたかったんじゃないかな。



 たけしさんだって、言葉を選ばずに言うと「映画を観ていない人」なんですよ。「オイラさ、小津(安二郎)も黒澤(明)も観ないまま映画つくっちゃってたんだ」って、以前僕に話してくれたことがあって。でも、だからこそ既成概念に囚われない斬新な映像が撮ることができて、それが世界でも評価された。まあ天才ですよね。映画を、ひとつの「絵」として切り取るところも新しかったというか。



 一方で松本さんは、あの頃はまだ「お笑い」の枠から脱し切れていなかったのかもしれません。それ以降、「日本のお笑い界のドン」みたいなポジションに閉じこもるようになったように見えました。



 松本さんが内向きになった一方で、お笑い界にはゴマすりばかりする後輩芸人がわんさか集まってきた。これも良くなかった。松本さんの言うことを鵜呑みにして、時には周りから批判の声が出ても猛烈に擁護してみせる。そんなイエスマンばかりに囲まれていて、腑抜けてしまったところもあるんじゃないかな。某ジュニアさんなんか、松本さんに批判的なことを少しでも言おうものなら、すかさず釘を刺してきますからね(笑)。僕もやられたし、ウーマン(ラッシュアワー)村本くんもやられてたなあ。あれはどうかと思います。とにかく彼らの存在も、松本さんがダウンタウン全盛期のトガった感じを失ってしまった要因なんじゃないかな。



■松本人志の芸人としてのポテンシャル■

 ……と、ここまで色々と批判めいたことを言ってきましたが、だからといって松本さんの才能を否定しているわけでは全然ないんです。むしろ、芸人としての彼の持つポテンシャルはまだまだ計り知れないものがあると思っているからこそ、今の状況が「もったいないな」と思うんですよ。



 今こそ松本さんには、日本のテレビから離れることをおすすめしたい。正直、令和の時代になって、日本のテレビにはもう全然価値を感じません。今の若者、Netflixの「シティハンター」には食いついても、地上波のバラエティ番組なんて観ていませんよ。



 松本さんがこの騒動の最中にXに「お笑いがやりたい」と投稿していて、それを見て僕は「甘えるな!」ってコメントしちゃったんですけど。あれはつまり、松本さんがまだテレビの中に留まって、自分のお笑いをやりたがっているように見えたからなんです。でも、そんな殻は思い切って捨てちゃった方が、次のステージに行きやすくなると思うんですよ。やっぱり新しいことを生み出すためには、今あるものを捨てる勇気が必要で。だから松本さんには、テレビへの未練を断ち切ってほしいんです。





■日本のテレビは「良識の牢獄」

 日本のテレビなんてもう「良識の牢獄」になり下がっちゃって、昭和の頃のようなぶっ飛んだ企画なんてできなくなってる。例えば僕が子供の頃は、ゴールデンタイムに突然「野球拳」が始まったりしてましたからね。萩本欽一と坂上二郎のコンビがMCの番組で、女性タレントが脱いでいくと期待させて、最後は男性芸能人が脱いでいくんですが(笑)。いずれにせよ今考えると完全にアウトです。ビートたけしだって、「寝る前に締めよ、ガスの元栓と親の首」とか「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんていう猛毒ギャグをカマしたり。あとは、「8時だよ全員集合」という番組で加藤茶がいきなり「ちょっとだけよ~」と言い出してストリップを始めたのを覚えてます。そんな時代がありましたよね。



 でも今は、お笑い芸人がみんな「優等生」になりすぎている。特に松本さんなんて、ワイドショーのMCになってから「良識の番人」「権威側の人間」のようになってしまっているでしょ? 本人にその気がなくても、そう見られてしまっていること自体がもったいない。芸人たるもの、「常識と非常識の狭間」その危うい世界線にいるべきなんですよ。昔、ダウンタウンが初めてテレビに殴り込みをかけた頃を思い出してほしい。あの反骨精神。30代にして本気で『遺書』を書いていた、あの狂気。今の彼からは、ちょっと感じられないんですよね。



 別に年齢は関係ないと言うか。こないだ僕、ボブ・ディランのライブを観てきたんです。めちゃくちゃかっこよかったですね。82歳にもなってあれだけ混みいった大阪のフェスティバルホールで、ぶっ通しで30分以上に渡る大作を歌いまくるパフォーマンスには圧倒されましたから。曲が終わった後もしばらくステージに佇んで、最後は何も言わずに去っていく。もうトガりまくり。ボブ・ディランといえばノーベル文学賞も受賞してるけど、あの授賞式すら完璧にスルーしてましたしね。松本さん、ボブ・ディランのようになれると思うなあ。



■何者でもなかった自分に戻れるか

 そしてやっぱり、松本さんの今後の身の振り方を考える上で参考になるのは、たけしさんの生き方だと思うんです。



 たけしさんも「フライデー襲撃事件」という、完全なる傷害事件、刑事事件を起こしてしまったことがある。そこから間を開けて今度は、不倫相手である細川ふみえさんに会いに行く途中でバイク事故を起こし、重体になってしまうんです。あの時誰しも「たけし、終わったな」と思った。でもそこから本当のビートたけしの伝説が始まったような気がするんですよね。



 なぜ、たけしは這い上がれたのか?その答えは「何者でもない自分」に戻れる強さがあったからだと思います。



 東大に行った兄に比べて劣等感を抱えながらも、教育ママのもと、なんとか明治大学に入学した青年・北野武。でもある日、彼はその生き方に疑問を感じて大学を中退してしまう。お母さんには怒られながらも、その日の心境は「空が青かった」と表現するぐらい晴れ晴れとしていたそうです。大卒の学歴がどうだとか、そういった肩書への執着がまるでないですよね。



「世界のキタノ」と呼ばれるようになった今でも、海外映画祭で賞をもらってコマネチをやっちゃう。そういうスタンスを崩さないところが、彼の真骨頂だと思うんです。



 松本さんにも、そういう「原点回帰」が必要なんじゃないか。彼だって、尼崎という下町で育った「何者でもない少年」だったはずです。「夏になると近所のおばさんが暑いからって上半身裸で歩いてた」なんて話を聞くと、松本少年も別に特別な存在じゃなかったんだな、と。



 何も失うものはない。これまでの「松本人志」の看板にとらわれなくてもいい。そう考えるとこれから何でもできるんじゃないでしょうか。持ち味であるシュールさを今一度突き詰めてみるとか。あるいは「大日本人」の反省をいかしてもう一度映画を撮ってみてもいいと思いますし。



 松本さんには早く戻ってきてほしいと思っていますが、とにかく輝く場所はテレビじゃなくていいんですよ。



『ありがとう、松ちゃん』より構成〉

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