『痩せ姫 生きづらさの果てに』が世に出た2016年から、今回の重版にいたるまでのあいだに、世の中で起きた最大の出来事といえば、コロナ禍だろう。
19年の暮れに中国から始まった新型コロナウイルス感染症の流行は全世界に広がり、WHOによれば約1500万人の命が2年間で失われた。
そんななか、コロナとはまた別に、激増した病気がある。摂食障害だ。
今年8月に、KADOKAWA児童書ポータルサイト「ヨメルバ」がnoteに掲載した記事(「ご存じですか? 成長期の小学生、ダイエットの危険」)には、こんな説明がされている。
「2019年と比べて、新型コロナ感染症の流行した2020~2021年は、神経性やせ症、いわゆる拒食症の患者数は2倍に増えました。中でも小学生、中学生の数が増えています」
説明しているのは、日本摂食障害協会理事長でもある医師の鈴木眞理。彼女によれば「ネットに触れ続ける環境+コロナの巣ごもり環境」というものが、関係しているという。
「この時期に、例えば家でネットサーフィンをしたり、テレビを見たりする機会が増え、ダイエットの必要性がいわれるのを目にして『私も家にこもっているのでダイエットしなくちゃ』といった光景がみなさんの身近にもあったかもしれません。(略)こういったダイエット願望の入り口は、ふとした外的な刺激からもたらされるものですが、それが深刻化するときには、必ずといっていいほど『心の問題』がからんでいます」
たしかに、痩せ姫になるような人には、何かを頑張ることで達成感を得たり、承認欲求を満たしたりしたい気持ちや、他者よりも優れていたいという願望、さらには孤独感や不安が強いという傾向がある。コロナ禍は彼女たちの心身のバランスにつけ込み、それを崩してしまうような魔力も持っていたのだろう。
実際、SNSではこの時期、摂食障害の娘を持つ親(もっぱら母)がブログなどに自身と娘の葛藤を綴る姿がよく目についた。
なお、感染症の世界的流行と摂食障害というつながりから、思い出す文章がある。1986年に出版された『彼女たちはなぜ拒食や多食に走る。』(鈴木裕也)の帯に書かれた推薦文だ。
「食行動異常。それはあるいは、AIDSよりもさえ恐しいかもしれぬ、二十世紀の『死に至る病』である」
で始まるその文章を書いたのは、評論家の中島梓。彼女は摂食障害を「種としての存続の本能、そのものに忍びよってくる、いわば人類という種そのもののガン細胞」だとして、こう続けた。
「なぜならば、それは我々の本能自体が病み、生存への基本的な欲求をさえ見失いかけたことのあかしであるからだ。アイドル歌手のあとを追って若者は死に急ぎ、学校ではいじめによる自殺者がふえつつある。食行動異常もきわめて顕著な、現代そのものの内包する病根の突出である」
ここから40年近くがたった今、AIDSにはもう「死に至る病」というイメージはないだろう。おそらく、摂食障害のほうが死亡率は高いし、予後もよくないはずだ。
ちなみに、中島はこの5年後に出した評論集『コミュニケーション不全症候群』において、拒食症に言及。健全なコミュニケーションから逃げる方法として、男性のオタク化、女性の拒食症やBL嗜好を対比させつつ、それが人類の未来に及ぼす悪影響を指摘した。
ただ、その姿勢は過激すぎたきらいもなくはない。彼女自身がBL好きな腐女子的原点を持ち、創作の成功によって成熟と社会適応を果たしていったからか、それこそ逆に、中二病的なこじらせを引きずり続けることへの拒絶反応、その否定の強さが引っかかるのだ。
たとえば『仮面舞踏会』という小説がある。栗本薫の名で作家としても活躍した彼女が95年に書いたものだが、パソコン通信という新たなコミュニケーション空間を舞台に、そこでの歪んだ人間関係がリアル空間にもたらしてしまう悲劇を描いた傑作だ。
その歪みを象徴する存在として、姫野というオタク大学生と「姫」というハンドルネームを名乗る年齢不詳的な拒食女子が登場する。そういう意味では痩せ姫小説のひとつといえるが、筆者は長年、これを読むことを避けてきた。「姫」の容姿や性格がかなり醜悪に書かれていると耳にしたからだ。
そんな小説を今回、初めて読んでみた。「姫」の描写についてはだいたい予想通りだったが、改めて考えたのは中島(ここでは栗本)がなぜ、こういう書き方をしたかということだ。
オタク大学生にせよ「姫」にせよ、それこそ「コミュニケーション不全症候群」の最悪の見本みたいな書き方になっている。たとえば、重篤な摂食障害に、ひどい関係妄想を抱え、心身ともに破綻寸前だった「姫」について、その悲劇的状況に同情を示しながらも、
「現実に直面する勇気、というものからだけ逃げて逃げて逃げ延びようとしたあまりにも悲惨な努力」
の結果だとしている。これはちょっと救いがない。おそらく書き手は、人として「あってはいけない」かたちとして、この拒食女子やオタク大学生を呈示したのだろう。ある意味、反面教師的な人物造型であり、そうではない生き方を志向するべきだという啓蒙である。
それをやりたかった気持ちもわからないではないが、筆者の気持ちはまた別だ。奇しくも『仮面舞踏会』が出たのと同じ月に、筆者の単行本『ドキュメント摂食障害』も出版された。その前後から宮沢りえの激痩せが取り沙汰され始めたりもして、痩せ姫への世間の関心が高まりつつあった時期でもある。
ちなみに、2年後には東電OL殺人事件が発生。これも悲劇だったが、痩せ姫が被害者側だったおかげで、世間は同情的な見方をした。また『ドキュメント摂食障害』では91年に起きた母子無理心中事件に言及。これは拒食症の長女(高1)を母親が殺し、長男(中2)を道連れにして心中したというものだ。
しかし『仮面舞踏会』の「姫」は加害者側として登場する。悲劇的だが、心身ともに醜悪な存在として――。この時期に読んでいたら、もっとモヤモヤしたに違いない。
その「モヤモヤ」は、前出の「悲惨な努力」云々への違和感によるところが大きい。痩せ姫は現実から逃げているだけではなく、逃げながらも必死に戦っていて、そうした生き方自体にも非凡な魅力がある、というのが持論だからだ。
その持論を一冊の本にまとめたのが『痩せ姫 生きづらさの果てに』である。『ドキュメント摂食障害』から20年余りかかったが、哀しくも美しい痩せ姫という生き方を肯定しようとした本だ。その魅力を伝えていくことが、自分にとって大事な命題でもある。
今回の重版は、痩せ姫という生き方が相応の共感を集めてきた成果でもあるだろう。そこに確かな手ごたえを感じつつ、これからも書き続けていきたい。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)