プロレスラーとは、今も昔も「デカい」イメージがあるだろう。ジャイアント馬場は、リングネームの通り身長2m9cmの巨体。

アントニオ猪木も190cmあった。最近は小柄でも活躍するレスラーが増えてきている中、そんな「デカくて強い」プロレスラーの変わらぬ王道を体現するのが石川修司である。身長195cm、体重130kgの巨体を揺らし、リング上を暴れまわる。DDTプロレスでデビューし、ユニオンプロレス、フリーランスを経て全日本プロレスに入団。エンタメ系からデスマッチと様々なプロレスを経験してきた。当サイトでも以前インタビューした全日本プロレスの「暴走専務」こと諏訪魔とタッグを組み、プロレス大賞3年連続最優秀タッグを獲得するほどの実力を誇る。サイン会を開けば必ず行列ができ、人気も申し分なし。そんな石川にプロレスラーとして進んできた道やフリーランスとしての心構えを聞いてきた。



■憧れはジャンボ鶴田。でも「プロレスラーになれる訳ない」と思っていた

 岩手県奥州市に生まれた石川が、プロレスを知ることになったのは祖母の影響からだ。子どもの頃、プロレス好きの祖母と一緒に毎週観戦していた。



「当時好きだったのはジャンボ鶴田さんですね。

でも、プロレス中継がゴールデンタイムからなくなると熱は冷めていきました。子どもの頃はプロレスラーになりたいなんて思ったことありませんでしたよ」



 そんな石川が再びプロレスに引き寄せられたのは高校に入学してから。柔道部にいた一つ上の先輩・佐々木貴に出会ったことがきっかけだった。名前を聞いてピンときた人もいるだろう。そう、プロレスリングFREEDOMSの代表取締役社長で現役のプロレスラーであるあの佐々木貴だ。当サイトでもインタビュー取材を引き受けてくれたことがある。



 佐々木、そして同級生にもプロレスファンがいて、プロレスに囲まれた高校生活だった。



 ただ自身がプロレスラーになれるとは思っていなかった。「実際には無理だろうと。当時、プロレスラーになることができるのは選ばれた人たちというイメージ。僕は柔道部で県大会出場程度でしたので」と語る。



 大学入学を機に上京したものの、在学中特にトレーニングをしていたわけでもない。

大学卒業後は普通に就職して会社員に収まっていた。しかし、「彼がいなかったらプロレスラーになってないと思います」と語る佐々木貴の名前を雑誌で見かけ刺激を受けた。



「プロレス雑誌を読んでいたら佐々木さんがプロレスラーになっていたのを知ったんです。それで、自分も興味を持つようになりました」



 そこから石川は、佐々木の伝手でDDTプロレスの入門テストを受ける。一度は不合格になるも、当時の社長が石川の社会人経験を買って、仮練習生として採用してくれた。トレーニングをしながら会計や受付業務をする生活を過ごすことになる。



「合同練習に参加しながらお金の計算とかしていたんですけど、なんか楽しかったですね。非日常の世界に足を踏み入れたという感じがしました。でも、そのときはガツガツした気持ちは薄かったと思います」



 そんな中でも無事に27歳でデビューを飾り、後に「大巨人」と呼ばれる男のレスラー人生がスタートした。





■「俺がやらなきゃ潰れてしまう」上に立って覚悟が決まった

 石川はデビューを振り返って「怖かったことしか覚えていません」と語った。プロレスラーのデビュー戦の相手は同期生や大先輩が務めることが多いが、石川がデビュー戦で対戦したのは、大先輩の「スーパー宇宙パワー」こと木村浩一郎だ。木村は、前田日明が設立したリングスにも参戦経験があり、ヒクソン・グレイシーとも対戦経験のあるレスラーだ。



「当時は木村さんがDDTのトップでした。木村さんは色々と武勇伝を持っている、すぐに手がでる昔ながらの人でした。僕は出されたことはなかったですけど、目撃したことがあるから怖かったですね。対戦が決まってから、すごい緊張してました。試合の前日は寝れなくて。後にも先にも試合前に眠れなかったのはそれだけです」



 「怖い先輩」とのデビュー戦を終えた石川は、ポイズン澤田JULIE(※1)が主宰したユニオンプロレス(※2)へ移籍。これがレスラーとしての転機となった。



「若い子たちが多い中で『自分がやらないと団体がなくなっちゃう』という危機感はありましたね。DDTにいたときは上に先輩がいたからあんまり考えてなかったけど、ユニオンは澤田さんと僕以外は若い子ばかり。そこで他団体からきた関本大介(※3)とかと戦うようになって、自分のプロレススタイルができたと思います」



 石川は豪快なプロレスが持ち味である。パワフルにエルボーや頭突き、ランニング・ニーリフトをかます。「動ける巨人」であり、ミサイルキックも使いこなす。



「彼は大きいだけじゃなくて動けるのが凄い。やっぱりしっかり練習してるからですよ」以前あるレスラーが石川をこう評していた。恵体に甘えて、練習がおろそかになってしまうレスラーは少なくないが石川はそうではなかった。



 ユニオンプロレスに所属しながら、当時はガチガチのデスマッチ団体だった大日本プロレスにも参戦。



 凶器の蛍光灯やガラスボードで身体を傷だらけにしたこともある。



「ハードコア(※4)スタイルのプロレスは何回かやったことありますけど、あの当時の大日本プロレスは“ストロングBJ(※5)”がなくて、デスマッチやるしかなかったんです。それでも自分とユニオンプロレスの名前を売るためには(デスマッチ)やるしかなかった。名誉欲みたいなのがあったと思います。大日本プロレスのメインでチャンピオンになるために覚悟を決めてやりました」



 ベルトを巻いた石川は、大日本プロレスのエースである関本や岡林裕二(※6)ともバチバチの戦いを繰り広げ、ヘビー級ベルトを獲得。シングルリーグ戦「一騎当千」でも優勝を果たした。古巣のDDTにも乗り込み、同団体の頂点である KO-D無差別級王座を奪取する活躍をみせる。その頃から石川は、「進撃の大巨人」と呼ばれるようになる。



※1:元プロレスラー。新日本プロレスを怪我で退団後、アメリカに渡ってデビューを果たし、DDTなど多くの団体のリングで活動をしてきた。



※2:1993年、インディー団体の選手、プロレス関係者と共にインディー団体統括組織「レスリングユニオン」から「ユニオンプロレス」と改称して発足。1995 年に一度解散するも、ポイズン澤田JULIEによって再旗揚げした。



※3:大日本プロレス所属のプロレスラー。鍛え上げられた肉体が特徴で、自らの身体を「凶器」呼んでいる。分厚い筋肉は全盛期のディック・ザ・ブルーザーを彷彿とさせる。



※4:レフェリーが特に危険とみなす行為以外すべての反則が認められ、場外カウントなし、武器OKの試合。



※5:大日本プロレスが掲げた「力こそパワー」を実践する同団体のブランドの一つ。ゴツゴツとした力のぶつかり合いが人気を呼んでいる。



※6:自衛隊に所属していたプロレスラー。デビュー当初から怪力とプロレスセンスで一気に台頭。

2023年に引退も視野に入れた無期限の休業に入った。





■「明るく」「楽しく」「激しい」プロレスを全日の若手に伝授

49歳“大巨人”石川修司が「今が全盛期」と語る理由。身長19...の画像はこちら >>



 2015年にユニオンプロレスが解散すると、石川はフリーランスへと転身する。DDTでは、同団体の大一番、両国国技館大会でメインイベンターを務めるなどプロレス界を席巻した。ユニオンプロレス解散直前から参戦していた全日本プロレスでも結果を残す。伝統のリーグ戦チャンピオン・カーニバルと、世界最強タッグ決定リーグ戦をW制覇。



 三冠統一ヘビー級王者にも輝いた。この時、タッグを組んでいた諏訪魔とは 2017年にプロレス大賞の最優秀タッグ賞を受賞。フリーのプロレスラーとして八面六臂の活躍を見せる。諏訪魔とのタッグは「暴走大巨人」と呼ばれ、3年連続プロレス大賞最優秀タッグに選ばれるほどの名タッグとなり、全日本プロレスの世界タッグ王座を4度獲得した。



 そして2019年に全日本プロレスへ入団。新人時代、「馬場オマージュ」のレスラーとしてリングに上がったことある男が、ジャイアント馬場が創設した団体でトップに立ち、そこで得た価値を伝える役目を担うことになる。



「全日本プロレスで意識したのは馬場さんが言っていた、『明るく、楽しく、激しい』プロレスです。元々僕のプロレススタイルもそれに合わせていたし、そうなりたいと思っていたので違和感なくいけました。やっぱりお客さんが喜んで帰ってくれるのが、その三つの要素だと思うんです。自分のファイトで満足してほしいなっていうのがありましたので、それは結構意識してました」



 入団後石川は、全日本プロレスの戦いをお客さんに伝えるべく奮闘してきた。2021年に暴走大巨人を解散するも、身長2mを超える26歳・綾部連(※7)とタッグを結成。若手選手の育成にも乗り出していた。



「綾部選手は自分よりも大きいから目に入ってきたんですよ。確かジャストタップアウト(※8)で一度対戦したんです。全日本プロレスに来るようになってから、アドバイスするようになりました。プライベートで会うとかはありませんけど、プロレス業界として大きな選手が大成するのは嬉しいじゃないですか。それで教えられる範囲でアドバイスしていました」



 この頃、石川はEvolution女子という団体を諏訪魔と一緒に旗揚げし、女子プロレスラー育成にも乗り出している。現在、4名のレスラーが所属している。石川はGM(ゼネラルマネジャー)として大会の運営をし、諏訪魔がプロデューサーとして側から支えている。若い選手を育てるときにどんなことに気を使っているのだろう。



「本人たちがやりたいって言ったことはあまり否定しないようにしています。例えば昔だったら、ダメの一言で終わりでしょうけど、『こういうキャラクターをやりたい』と言ってきたらやらせてみます。あまりにも変なら止めますよ。でも本人達がやりたいっていう気持ちの方を優先してるところはあります」



 そんな石川が先輩からのアドバイスで印象残っているのが、レジェンドでもある小橋建太から受けたものだという。



「『自分のファンが応援してよかったと思える戦いをしなさい』と小橋さんが言ってくれたんです。すごくいい言葉だなと思って自分でもそういうファイトができるようにと思ってリングに上っています」



 今でも石川のファイトを期待しているファンは会場へと足を運ぶ。そして彼はリングで「応援してよかった」と思える戦いを見せてくれるだろう。



※7:全日本プロレス所属のプロレスラー。練習生の頃から長身で注目を集め、ファンや関係者からヘビー級の大器として期待をかけられている。



※8:正式名称は「プロフェッショナルレスリングJUST TAP OUT」。世界最大のプロレス団体WWE(当時はWWF)で活躍したTAKAみちのくがリングで「鍛え上げられた肉体のぶつかり合い、磨き上げた技術」を見せる団体。





■49歳でもギラついてパワフル。「今が全盛期」宣言

 今年の1月に全日本プロレスを退団。現在、石川は再びフリーランスになっている。石川は全日本入団前の雑誌取材でこのように語っていた。



「いろんなリングに呼んでもらってますけど、フリーはダメなら切られるだけですからね。その怖さは常にありますよ。毎回、いいものを提供しなきゃいけない。期待を超えなきゃいけない。それは意識してます」



 フリーとして再び活動を始めた石川に当時の気持ちと変化はあるか聞いてみた。



「基本はやっぱり石川修司らしくって思っています。全日本(プロレス)にいたときもそれを求められていたけど、団体として頑張らなきゃっていうところがありましたね。フリーランスで個人商売だから今の方がギラギラ感強いですね」



 フリーランスになった石川がギラついたファイトを見せたのが、5月4日に行われたプロレスリング・ノア両国国技館大会である。石川は第1試合で、GHCハードコアのタイトルを賭けてリングに立った。戦いは、ハードコアマッチらしくイスやラダーが使用された。石川は、リングに持ち込んだハシゴにパワーボムで王者をたたきつけた。最後まで相手をとことんまで痛めつけてベルトを奪った。



 試合後も「GHCハードコアのベルトを取れて、またNOAHに上がる理由ができたな。誰でもいいよ(挑戦に)名乗りを上げてこい。まあ普通のルールでもいいぞ。俺はどっちでも強えからな」と全日本時代とは違う顔を見せつけた。今年 49歳となるが、「今でも全盛期」と語る石川に、その根拠を聞いてみると納得の答えが返ってくる。



「全日本プロレスにいる前から言ってきたんですけど、昔より今の方が強いからもしれないってずっと思っていたんです。具体的なエピソードとかはありませんけど、関本(大介)や岡林(裕二)と戦ってきたり、佐藤耕平(※9)さんや諏訪魔さんと組んだりしていると自分に足りないものに気づくんです。それを埋めるために練習したり、試合したりしていくうちに、もっと自分が強くならないと駄目だっていう気持ちが強くなるんです。そうすると、日々練習をして積み重ねていくことで自信がつきますし、前の自分より強くなっているなって感じるから言っています」



 ところで、石川が持っているのは強さだけではない。忙しいスケジュールの合間をぬって、闘病中のファンを見舞う優しい姿も垣間見せる。今は、全日本プロレス時代には中々できなかったファンとの交流も深めていきたいと語っている。そしてフリーランスとして生き残るために必要なことを聞いてみた。



「フリーランスとして必要なのはやっぱり個性じゃないですかね。それがないと呼ぶ価値がないわけじゃないですか。他の人と同じことをしてもしょうがない。同じ団体の大きな選手がいたら違うファイトを見せる。フリーランスは一つ一つが勝負なんです。そこで駄目だったら正直いらないわけじゃないですか。そういう意味で内容もそうだし、結果も見せないといけないなっていうのはありますね。そういうのができないとフリーとしてやっていくのは難しいかなと思います」



 そう語る石川に再び自分だけの船に乗り、プロレス界という大海原を漕いでいく覚悟が見えた。最後に同年代でもある氷河期へ向けてメッセージをお願いしてみた。



「仕事とかで落ち込んだりもするとは思うんですけど、前を向くしかないんで。僕もこの年齢なので、若い子に比べたらスタミナ面とかどうしても落ちてくる部分があるんです。でもそこで悔しいと思って若いやつに負けたくないっていう気持ちで練習とか仕事に打ち込んでいくのがいいと思います。あんまり言うと老害とか言われちゃいますけど(笑)、前を向いて生きててほしいです」



 恵まれた身体がありながら入門テストに落ちた男は、努力によってプロレス界の大巨人となった。これからも暴れまわるだろう。



※9:2001年に故・橋本真也が旗揚げしたZERO-ONEでデビューしたプロレスラー。新日本プロレスやNOAH、大日本プロレスでも活躍。2020年にZERO1を退団し、フリーとして活動している。

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