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第30回 無関係なことを考えてみよう



【アイデアを思いつける人】



 クリエイティブな作業において欠かせないもの、それが「発想」だ。日本では、これを「アイデア」といったりする。知識や計算によって生まれるものではなく、どこからともなく、ふっと現れる。突飛なだけではなく、問題をスマートに解決したり、これまでになかった新しさをもたらしたりする。



 誰でも思いつけるものではない。発想ができる人がたしかに存在し、しかも、そういう人はいつも新しい発想を持っている。いったい、どんなふうに考えているのだろうか、と不思議でしかたがない。どう考えたら良いのか、どんな訓練をしたら良いのか?



 頭の転換、水平思考、逆転の発想、などいろいろな言葉で飾られるし、また、これに関する本が数多く出版されている。

多くの人が関心を持っているのだろう。だが、読んでみると、過去にあった発想の例が紹介されているだけで、それを再現する方法は示されていない。発想法は、学校でも習うことができない。つまり、どうやったら価値ある発想が生み出せるのか、という具体的な手法が存在しない、ということはどうやら確からしい。



 たとえば、数学のテストで良い点を取る人は、なんらかの発想ができる、と一般に理解されている。なにかを思いつかないと解答に辿り着けない。そういう問題が出る。しかし、数学以外のテストでは、その種の出題はほぼない。それは、知識を問うような問題だからである。もう少し簡単にいうと、数学では知っているかどうかではなく、思いつけるかどうか、が問われている。ただし、計算問題にはこのような発想が必要ない。



 ものを作るとき、材料や工具、図面や工法があれば、あとは作業をするだけだ。

もちろん、経験や知識が必要だが、そういったものは学ぶことができる。一方、芸術作品を作りなさい、といわれたときには、まず何を使うのか、どのように製作するのか、といった発想が必要になる。なんでも良いのだから、誰にでもなにかは作れるだろうが、しかし、他者が認めるような価値を生み出すことは、かなり難しい。そこに欠けているものは、経験や知識だろうか?



 もちろん、それらも必要だ。そういったことは、趣味の教室や芸術大学などで学ぶことができるし、過去の作品を多く知ることで、ある程度は身につけることができるだろう。しかし、それでも、新しいものを創作するには、オリジナリティが必要となり、そこには、やはり発想がなければならない。なにかを思いつく必要がある。さて、あなたは、思いつけるだろうか?





【思いつきの手法】



 発想をする方法というものはない、と書いた。考えれば思いつく、というわけにはいかない。発想ができる人も、どうしたら思いつけるのかを人に教えることができない。というのも、手法や方法というものが存在せず、どうすれば発想が生まれるのか、発想した本人もまったくわからないからだ。発想の名人であっても、あるときは良い発想がさっぱり出てこない場合がある。

神経を集中させ、うんうん唸っただけで出てくるものではない。むしろ、その逆であることの方が多いだろう。



 とはいえ、抽象的な方法ならば、多少は記述することが可能だ。



 一例を挙げれば、こうだろうなと考えてしまう方向ではなく、逆方向へ考えてみる。逆とは何か、と思われるかもしれないが、そこが難しく、普通に考えない方向のこと。また、まずは目の前のものを否定的に見る、という手法もある。あるいは、なんでも良いからとにかく連想してみる。つぎつぎと連想して、直面している問題から一旦離れて考えてみる、といったことも良いかもしれない。



 これらに共通するのは、関係のあるものから離脱し、無関係なものを考える、という方向性である。簡単にいえばそういうことになるが、これが実際にはなかなか難しい。



 たとえば、人と会話をしているときに、相手が話したことに無関係な内容をつぎつぎと話せるだろうか? 関係のないものをすぐに思いつけるだろうか? 相手の言葉を無視して無関係なことを即答できるだろうか? かなり難しいと思う。



 人間の思考は、一連の流れから外れにくくなる。

つまり、順番にしか考えられない。それはストーリィとしての流れがあるからだ。こうなれば、つぎはこうだろう、というだいたいの方向性が定まっていて、そこから外れることができない。



 つまり、考えているようで、かなり狭い範囲でしか思考は進まない。台風の進路予想のように、思考が進む方向の範囲があって、それが狭い人ほど「頭が固い」状態といえる。台風の進路は平面上だが、思考は立体、あるいはそれ以上の次元を持っているから、方向の幅が少し違うだけでも、結果に大きな差異が出るだろう。



 このように、取り組むべき問題に無関係なことを、できるだけ沢山考えることが、たぶん発想を生む基本的な姿勢といえる、と想像できる。しかも、その無関係な沢山のテーマは、すべてばらばらであって、お互いにも無関係な方が良い。頭に思い浮かんでいることから、瞬時に無関係なものへ頭を切り換える、このジャンプを何度も繰り返すこと、そういった思考が、結果として面白いアイデアを思いつける確率が高い。





【新しい価値は無駄から生まれる】



 実際の世界、つまり生活や仕事といった普通の活動では、無関係なものは無意味であるため排除される。関係のない話をすると周囲の人から変な奴だと敬遠されるだろう。つまり、社会にとって意味のないものは、異常なもの、嫌われもの、となる。

したがって、普通は無意識にこれらを避ける。そういったことを考えないように、小さい頃から頭脳は訓練されている。



 もともと、赤子の頭脳はそうではなかったはずだ。社会も知らないし、まして常識もない。だから、何が関係のあるものかもわからない。少し成長しても、子供は無駄なことを思いつき、無意味なことをするはずだ。それを大人が制限する。関係のあることを話すと、周りの大人が微笑む。意味のある発言は、他者の関心を集める。だから、その方向でしか考えないように頭脳が成長する。



 具体的な問題を解決するためには、ほとんどの場合、関係のある連想をしなければならない。しかし、まったく新しいアイデアを思いつくためには、現在存在しないものをどこかから取り出すような思考が要求される。

これが発想という行為であり、社会に順応して成長した頭脳は、これが苦手だ。普段の思考とは正反対だからである。



 たとえば、小説を書く場合、ストーリィは事象の連続性が求められるから、書き始めれば、つぎつぎとそのさきを思い浮かべることができる。こうなれば、つぎはこうだろう、と想像ができる。しかし、どこかに非日常性がないと、物語としての面白さが出ない。なにかちょっとしたギャップが欲しくなる。この程度のことならば、ほんの少しの発想で充分だろう。



 しかし、小説を構想するとき、あるいは詩や絵を創作するとき、何を描こうか、という思考は、まったく自由であり、道もなく、取っ掛かりもない。なんでもありではあるけれど、しかし、新しさが欲しい。そういうものを思いつくことは、かなり難しい。創作の始点には、非常に大きな(あるいは高い)発想が必要なのである。



 これを避け、なにかのオマージュで書き始めることは格段に簡単だ。テーマがあれば、ジャンルが決まっていれば、小さな発想でスタートできる。



 問題があれば、解くだけだ。問われれば、答えるだけだ。しかし、なにもないところから、誰からも問われていないときに、何を語るのかを思いつくことは難しい。難しい分だけ、その行為、その作品に価値が生じるし、また個性が表れる。



 結局のところ、人間が生み出すものの中で最も価値があるのは、発想だといえる。そして、これまでにない発想は、無駄から生じ、新たな価値を生む可能性を持っている。





【庭掃除と冬支度】



 庭園内で毎日掃除をしている。落葉掃除や枯枝集め、そしてそれらの焼却など。また、冬に向けて、除雪機のエンジンを整備したり、ストーブの薪を運んだりしている。けっこう忙しい。既に空気は冷たく、朝夕は手がかじかむほど。



 それでも、久しぶりに模型飛行機を飛ばしにいった。丘陵地の端の傾斜した場所で、グライダを飛ばしている人もいた。フライトは1回だけ(15分くらい)だったけれど、楽しかった。無事に着陸することで、すべてが報われる感覚があって、この報酬のために、ちょっとしたリスクを楽しんでいるのだな、という納得がいつもある。



 僕が担当している犬は、今6歳半だが、最近要求が強くなってきた。いつもと違うこと、順番が違うことに直面すると不機嫌で、おやつを食べない、散歩にもいかない、と拗ねる。それだけ賢いということか。人間も、不機嫌になるのは、だいたいこれと同じだな、と思われる。犬の振り見て我が振り直せかも。







文:森博嗣



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