◾️支援級の授業でのある出来事



 昨年に元大リーガーのイチロー選手が智辯和歌山の高校生を指導した時のこと、帰り際にイチロー選手が高校生に向かって「ちゃんとやってね」と伝えている様子が、テレビに流れていました。その頃、私も公立小学校において、「ちゃんと」という言葉を使って子どもたちを指導していたので、その時のイチロー選手と高校生のやり取りが、私の脳裏から離れずにずっと残っていました。



 あれから随分と時間は経ちましたが、9月から茅ケ崎市内の小学校に再び勤務することになったことを期に、その「ちゃんと」という言葉を私がどのように捉えているのかを、今あらためて考え、整理してみることにしました。



 私は、この20年間、事あるごとに、「ちゃんと見て」「ちゃんと聴いて」「ちゃんと読んで」と教室の子どもたちに伝え続けてきました。また、その度に「ちゃんとやることで、みんなは何かを感じることができるだろう」ということを、子どもたちに意識させていました。ちょっとイメージしにくいかもしれませんが、私がそうやってきたのは、「自分の中に何かが取り込まれると間違いなく人の心は動く」という思いがあるからなのです。



 



 つい最近、ある支援級の授業を観ている時に、私の心が大きく揺り動かされることがありました。



 自分たちで作ったサツマイモが給食に使われるので、「学校のみんなにサツマイモをおいしく食べてください」というお知らせ文を、支援級の子どもたちで考えるという授業でした。ダウン症の徹君(仮名)もその授業に参加しています。



 徹君はうまく発語ができません。発せられた言葉も不確かで聞き取り難い。それでも単語ならばなんとか聞き取ることができる言葉がいくつかあります。



 半面、徹君の日常生活を見ていると、聴く力は話す力以上にあるのだなということが態度や様子から分かります。



 そうだとしても、徹君がこの授業に関わる難しさは、支援級に関わっていない教師であっても分かるでしょう。

そこで一計を講じた支援級の教師たちは、徹君がこの授業に関われるように徹君にある役割を担ってもらうことにしたのです。司会をする子どもの役割の1つ、「手を挙げた子どもの中から一人を指名する」ということを、徹君に担ってもらったのです。(当然教師のサポートの元)



 役割を担っているからといって、それだけで徹君がこの授業にスムーズに入れるわけではありません。誰もが想像できることですが、半分以上理解できない言葉が行き交う中にいて、45分間集中できる人がどれだけいるでしょうか。それでも、話されている内容のわずかなことでも徹君が吸収してくれればそれでいいのではないかと思いながら、教師たちも徹君に役割を担わせたのだと思います。



 ところが、徹君は教師の予想以上に授業に向かっていたのではないかという出来事が、私の目の前で起きたのです。それは授業の半ばでのこと。



 冴子さん(仮名)が、



 「みんなにおいしい気持ちで食べてほしい」



 と発言した直後です。徹君は徐に席を離れドアへ向かいました。「おやっ」誰もが首を傾げたその時、徹君はドアの直前で止まり、日程表の「給食」のところを指さして笑ったのです。その瞬間「徹は話を聴いていたんだ」という言葉が、私の心の中で揺れ動いていました。



イチローが高校球児を〝後押し〟した言葉。生徒は自分自身を「ち...の画像はこちら >>



 



◾️イチローの「ちゃんとやってね」という一言の意味



 徹君は、ちゃんと聴いて何かを感じ、でも言葉にできなくて、でも感じていることは確かにあるから、その思いが徹君をこのような行動に導いたのです。

「ちゃんと聴く」というのはこういうことなのです。



 徹君のように、何かを感じたとしても、何かが心に残ったとしても、すぐに言語化できない子どもはどこの教室にも多くいます。とはいっても、ちゃんと聴けば曖昧なままでも、自分の思いは自分の中になんとなく残り続けます。繰り返しますが、実際、子どもたちの様子を見ているとそうだったのですが、たとえ言語化できなかったとしても、徹君のように自分の中に留まっている思いは何らかの形で表出される(行動に表れる)ものなのです。



 このように、なんとなくであっても曖昧であっても「自分の思いに辿り着く」行為こそが「ちゃんとする」ことなのだと、私は捉えています。 



 私が教室で子どもたちと共に過ごし、長い時間子どもたちを見ていて分かってきたのですが、このような「ちゃんと」した行為を繰り返しているうちに、子どもたちの中で「分かったこと」と「分からなかったこと」(課題)が明確になってきます。そうなった時、子どもたちの目の色は変わります。思うに、「課題発見」こそが、子どもたちの「学びの始まり」なのです。



 また、前述したように、子どもたちの学びの流れは「課題発見」から「課題解決」へと続きますが、その繰り返しの中で、子どもは学ぶ面白さを味わい、学びを実感していきます。そして、子どもたちはその実感を積み重ねることによって、活動がより自覚的になり、自らの力で、成長の道を進んで行くようになるのです。



 さらにいえば、その学びの延長線上に子どもの「ちゃんと生きる」があるのだと、私は捉えています。 



 ところが今、子どもたちの学びは路頭に迷っています。

どこに行けばいいのか分からず、学ぶことに疑心暗鬼になり、そればかりか、学ぶことに躊躇さえ感じている子どもたちがいる。それが現在の子どもの状況です。授業中の子どもたちを見ていると、学びから逃走しようとさえしている子どももいるのです。



 このような状況に陥ってしまった原因を考えると、私はその一つとして、大人が子どもたちに「ちゃんと」した行為を求めて来なかったからではないか、という考えに辿り着きます。学校においても家庭においても、教師や親は子どもに様々なことを求めますが、教師や親は無理をさせません。やりたくなければやらなくていいと言い、できなければ子どもに無理をしなくていい、と言います。そのような場面をよく見かけます。



 昨今「うちの子に無理をさせないでください」と教師に伝える保護者は一定数います。



  子どもにとって、初めは面倒くさくても面白くなくても、向き合うべきものは向き合わなければならない状況って多々あります。特に、子どもたちの「学び初め」はそういうものです。多くの子どもにとって学びは分からない事から始まるのですから、特にそうではないでしょうか。



 このような状況であるからこそ、その面倒くさいことや面白くなさそうなことを避けるのではなく、「ちゃんと」向かい合うことから始まる「ちゃんと」した学びを、子どもたちに「ちゃんと」体験させることが、大人の役割ではないかと強く思うのです。



 イチロー選手が高校生に投げかけた「ちゃんとやってね」という一言は、まさにその大人の後押しなのだと、私は思っています。



 



文:西岡正樹



編集部おすすめ