「生産性」という言葉が職場で叫ばれる時代である。時間内にどれだけのタスクを処理したのか、成果物をどれだけ生み出したかを、ソフトウェアで事細かに管理され、それが評価基準になる。

IT企業ではそういった環境に疲弊して短期離職する人が後を絶たないという。働くことに疲れた現代人に、アドラー心理学を研究する哲学者・岸見一郎氏は新刊『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』(ベスト新書)で、「あなたの価値は生産性にあるのではない」と優しく語りかける。



■生産性で自分の価値を計らない

 これから働こうとしている人、あるいは、目下、働くことが毎日の生活の中心になっている人に、あなたの価値は生産性にあるのではないといってみても、すぐには理解してもらえないかもしれません。



 もちろん、働ける人は働けばいいですし、働くべきです。それでも、人間の価値は「何ができるか」ではなく、「生きていることそれ自体」にあるといつも知っておくことが大切です。



 このことは、自分のことについても、職場での対人関係の問題にも関係してきます。少し先取りしていえば、人の価値を何ができるかということに見ている限り、自分についても他者についてもいわば理想からの引き算でしか見ることができなくなります。



 より優れた自分であることを目指すことに問題があるわけではありませんが、時にはあまりに高い目標を立てることで、自分が取り組むべき課題から逃げようとしたり、意欲を持って仕事に取り組もうとする部下の勇気を挫いたりすることがあれば問題です。



■すぐに結果が出ないこともある

 父が働いていた頃は、一つの会社に学校を卒業したら就職し、定年まで勤め上げるのが当たり前の時代でした。父の会社は家族のようで、元旦に会社で撮ったという写真がアルバムに貼ってあるのを見たことがあります。今なら新年早々出社するようにといわれても誰も出てこないでしょう。



 そんな会社ですから、すぐに目覚ましい結果を出せなくても、会社を追われることはありませんでした。

そのことにはメリット、デメリットの両方がありますが、成果主義の今の時代であれば会社にいられないかもしれない人でも、じっくりと仕事をすることができ、入社後、十年、二十年経って初めて大きな成果を上げるということもありえたわけです。



 今の時代はスロースターター、大器晩成型の人は居づらいでしょう。私が学生だった頃、三十年間、一度も論文を書いたことがないという教授がいました。その先生のことを今も思い出すのは、そのようなことがあまりに特異だったからなのですが、学問というのは本来締め切りがあって急かされて業績を出せるものではありません。



 学校は英語ではschoolといいます。この言葉は古代ギリシア語のschole(スコレー)が語源で、その意味は「閑暇」です。ですから、「忙しい学校」というのは形容矛盾になります。学校が忙しいということはあってはならないのです。学生も教師も悠々と勉強に取り組むのでなければ「学校」とはいえないのです。



 傍からは少しも仕事をしているようには見えないのに、業績を打ち立てるということは実際あります。



 数学者の岡潔が、ある夏招かれて北海道大学の理学部の応接室だった部屋を借りて研究をしたことがありました。そこには立派なソファや安楽椅子がありました。

岡は、何かやろうとし始めるのですが、十分も経てば眠くなってソファで眠ってしまいます。学校で眠ってばかりいるというので、理学部中で評判になってしまったほどでした。ところが、そろそろ帰らなければならない九月のある朝、友人の家で朝食を呼ばれた後、隣の応接室ですわっているうちに、その時着手していた問題についてだんだん考えが一つの方向に向いてきて、二時間ほどすわっている間にどこをどうやっていいかすっかりわかってしまいました。北海道に行く前、岡はまったく解決の糸口を見出すことができない状態だったというのに。



 大学院生の頃、真面目に講義に出席したら「君たちは私の授業に熱心に出席しているようだが、一体、いつ勉強しているのですか」と一人の教授がいったので驚いたことがありました。学ぶ喜びに突き動かされて学んできた学生は、一切の強制がなくても勉強をすることができます。そのような学生が研究者となれば、たとえすぐに目覚ましい成果を出せなくても、最後には大成するのです。



 それは学問の場での話ではないかと思われるかもしれませんが、成果主義のもたらす問題は、すぐに成果を出すことが当然だという理由で看過されてはいけないと思います。





■何もしなくても

 新約聖書の『マタイ福音書』にも『マルコ福音書』にもなく、ただ『ルカ福音書』にだけ記録されているイエスのエピソードがあります。



 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという妹がいた。

マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



 ドイツの神秘主義者であるエックハルトが「観想的生と活動的生とについて」という説教の中で、この箇所を取り上げて解釈しています(『エックハルト説教集』)。マルタは、マリアが「幸福感」の中に立ち止まって先に進まなくなることを怖れたとエックハルトはいっています。時に働くことではなく、立ち止まること、立ち止まることが必要なことがあります。



 晩年、認知症を患っていた父の介護をしていました。介護といっても、一日の大半は、これといったことをしていないで過ごすことが多かったので、ただ父の側にいるだけでは何も父の力になれていないと思いました。



 次第に父は食事の時間以外は寝ていることが多くなりました。その間、私は自分の仕事をすることができたので、父の世話をするために時間を取られるよりもありがたかったというのは本当ですが、ただ一緒にいるだけではたして介護をしているといえるのかと思い悩みました。



 もちろん、父が起きてくればすることはいくらでもありましたし、こんなことを思ったのは、父が寝ている間や、起きていてもぼんやりと過ごしている間だけのことでした。ある日、私は父にいいました。「一日、寝ているのだったらこなくてもいいね」父は思いがけずこう答えました。「そんなことはない。お前がいてくれるから私は安心して眠れるのだ」たしかに私も心筋梗塞で倒れた時、退院後昼間一人で過ごしている時に不安だったことを思い出しました。じっとそばにいるだけでは駄目だと思うのは、価値を生産性でしか計らない社会の常識にとらわれているからなのです。



文:岸見一郎



『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』より構成〉

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