子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【4冊目】「科学雑誌ブームとエロ雑誌としての『Quark』」をどうぞ。
【4冊目】科学雑誌ブームとエロ雑誌としての『Quark』
あるジャンルの新雑誌がヒットすると、二匹目、三匹目のドジョウを狙った類似誌が相次いで創刊されるのは出版界のお約束。いや、出版界だけでなくどの業界でもそういうことはあるだろうが、工業製品のように特許があるわけでなく、中身が変わるだけで印刷・製本という生産ラインは変わらない雑誌においては、特にその傾向が強い。結果として“○○雑誌ブーム”が生み出される。
1980年代初めの科学雑誌ブームもそのひとつだ。当時の一般向け総合科学雑誌としては『科学朝日』(1941年創刊/朝日新聞社)、『日経サイエンス』(1971年創刊/日本経済新聞社・現在は日経サイエンス社)などが存在した。そこに70年代後半からの映画・小説・マンガにおけるSFブーム、パーソナルコンピュータの登場、ボイジャー1号・2号打ち上げ、スペースシャトル初飛行といった事象が重なり、宇宙や科学技術への関心が高まる。数年後にはつくば科学万博(1985年開催)も控えていた。
そんななか、テレビにもよく出演していた著名な地球物理学者・竹内均を編集長として1981年に創刊されたのが『Newton』(教育社/現在はニュートンプレス)だった。「GRAPHIC SCIENCE MAGAZINE」と銘打つだけあり、オールカラーで写真やイラストを多用。表紙に創刊の華やかさはないが、裏表紙には〈Newtonは科学のイメージを一新する!〉とのアオリ文句が躍る。
巻頭記事は「SPOT 尾中朋子 化学実験に魅せられて」。……いやいや、誰それ? 当時の有名人? と思ったら、〈今春,お茶の水女子大大学院理学研究科化学専攻を修了し,現在,三菱化成総合研究所勤務の社会人一年生〉って、知らんがな!
今でいう「リケジョ」の走りか。
女性研究者にスポットを当てるこのコーナーは2号目以降も続いている。昨今のジェンダー感覚ではいささか微妙ではあるが、同時期の『週刊朝日』が女子大生表紙で話題になっていた影響もあるのかもしれない。
誌面全体としては“大人の図鑑”的な印象。当時はまだ健在だった文学全集や百科事典的な教養への憧れに定期購読システムも加わり、『Newton』は大ヒットした。正確な部数はわからないが、「我が国の科学雑誌に関する調査」(文部科学省/2003年)によれば、「科学一般」誌全体の部数が1981年7月にいきなり30万部ほど増加し、8月にはさらに40万部近く増加している。これは『Newton』の分と考えるのが妥当だろう。
となれば、他社も黙って見ているわけがない。翌1982年4月に『OMNI』(5月号/旺文社)、6月に『UTAN』(7・8月号/学習研究社)、7月に『Quark』(8月号/講談社)が一気に創刊。さらに83年3月には『コペル21』(4月号/くもん出版)が創刊された。これが戦前の国力増強期、戦後の復興期に続く第3次科学雑誌ブームである。
1982年当時、私は高校3年生。
『OMNI』は、アドバイザリー・スタッフとして、東大教授のほかアイザック・アシモフや手塚治虫も名を連ねる。広告界の大物・浅葉克己をアートディレクターに起用した誌面はクールだった。キャッチフレーズは〈SCIENTIFIC ENTERTAINMENT MAGAZINE〉。編集後記で〈科学が、はたしてエンターテインメントの素材たりうるか……これが、われわれスタッフに与えられた大テーマでした。この挑戦が成功したかどうか、読者のみなさんのご批評をお待ちします〉と述べる。
『UTAN』は、当時の人気数学者・広中平祐を編集顧問(2号目以降は責任監修)に立てる。
『Quark』は、特に著名な科学者を前面に出すことはなし。一応、〈visual science magazine〉と銘打たれてはいるが、それもあまり強調はしていない。ただし、編集後記には他誌への対抗意識がにじみ出ている。
〈いろいろな科学雑誌が出ています。「どれにしようか」と、読者の方も迷われるかもしれません。/科学を、SFや娯楽とからませて扱うのも一つの行き方です。あるいは、高校カリキュラムの進行に合わせて雑誌づくりをする、というのもアイデアではあります。
かくして勃発した科学雑誌バトル。しのぎを削る3誌に対し、先行する『Newton』は余裕の構えだった。ちょうど創刊1周年となる1982年7月号の「編集室から」で竹内均は次のように綴っている。
〈今や毎号40万部の部数を売りつくす科学雑誌にまで成長した。(中略)Newtonは,それ自身がひとつの博物館といってよいだろう。ひと月に40万もの人がやってくる博物館などめったにない。その博物館の館長を務めていられることを幸福に思う〉
そんな科学雑誌ブームを気にしつつも傍観していた私だが、その後、大学生、社会人になってからは、特集によって買うこともあった。
当時に買って今も手元に残っているのは、たとえば『OMNI』1985年10月号。特集「RETURN FROM SPACE」は立花隆『宇宙からの帰還』を原作とした同名映画の公開に合わせた企画で、立花隆のインタビューも掲載されている。87年9月号にはロケットの父と言われるフォン・ブラウンの直筆設計図や日本版スペースシャトル計画のほかアーサー・C・クラークの短編小説も掲載。宇宙ネタなら『OMNI』というイメージがあった。
そして、恥ずかしながら、一番よく買ったのが86年から87年にかけての『Quark』である。なぜ「恥ずかしながら」なのかというと、この時期の『Quark』は、ほぼエロ雑誌だったからだ(エロネタ苦手な方はここでページを閉じてください)。
それ以前にもちょっとエッチな記事はあったが、おそらく1986年2月号の特集「おしかね博士のセックス・サイエンス」が売れたのだろう。以後、「おしかね博士もビックリ!! タブーを破る世界の性教育」(86年5月号)、「オナニーの科学 男性篇・女性篇」(同7月号)、「徹底比較 女のからだVS.男のからだ」(同8月号)、「かさい博士の女性器の科学」(同9月号)、「心がつかめ体が読める科学的恋愛必勝法」(同10月号)、「究極のオーガズム 女性編・男性編」(同11月号)、「徹底比較 日本人のカラダvs.外人のカラダ」(同12月号)と、科学の名を借りたセックス&女体特集を連発する。それに釣られてまんまと買っていた私も私だが、まだ20代前半の健康な男子だったので大目に見てほしい。
すごかったのが、87年1月号「バージンの科学」だ。
まだインターネットもなければヘアヌードも解禁されていない時代。ビニ本やエロ雑誌の編集者があの手この手でいかにギリギリまで見せるか工夫を凝らしていた時代に「科学」という名目でモロ出ししたわけで、その編集者魂には敬服する(いい悪いは別にして)。同じ号には「自転車に乗ったときの処女膜の状態を調べる」との名目で、サドル型に切り抜いたアクリル板にノーパンで座らせ、下から撮影した写真も載っていた。涙ぐましい努力だが、〈よほど強引に開いてもらっても見えなかった〉というオチに苦笑する。
当局から何らかのお咎めはなかったのか……と心配になるが、その後も「女性器の科学2」(同2月号)、「不思議の森 アンダーヘアを探険する」(同3月号)、「乳房のGスポット」(同4月号)と科学的エロ路線は続く。しかし、同6月号「究極の性感帯」を最後に、この手の特集は鳴りを潜める。以後は「恋人同士のカラーカクテル」(88年1月号)、「プロポーション美人のBWH」(同2月号)、「『恋の破局』上手に別れる8ヵ条」(同4月号)といった特集内で、ちょっとエッチな写真が出てきたりはするものの露出は控えめでおとなしい。やはり、さすがにやりすぎとの批判が社内外からあったのかもしれない。
さらに、1989年1月号で誌面をリニューアル。ワイド特集「『おいしい味』の秘密を極める」と、テーマ自体は身近ながら、科学雑誌本来の姿に戻った感がある。が、その頃には私も購読をやめていた。
『Quark』のエロ雑誌化が沈静するのと時を同じくして科学雑誌ブームの熱も冷める。『OMNI』が1989年4月号で休刊、『コペル21』は1993年3月号、『UTAN』は1997年3月号、そして『Quark』も1997年6月号にて休刊となった。老舗の『科学朝日』も1996年に『SCIas(サイアス)』にリニューアルしたのち2000年に休刊。結局、現在まで生き延びているのは『Newton』と『日経サイエンス』のみである。
『Quark』休刊直前の97年5月号には普通に次号予告が出ていて、休刊を匂わせるものはない。最終号で突然休刊のお知らせと編集部員のコメントが掲載されている。
同誌に異動して1年足らずという部員いわく、〈創刊の頃、「科学雑誌ブーム」のようなものがあったそうです。では、そのブームが去ってしまったから休刊になったのか、そもそもなぜ科学が流行したのか、雑誌とは何なのか……。/そう、幻の7月号特集は「雑誌創刊・休刊の科学」となる予定だったのでした〉って、それは読んでみたかった!
文:新保信長