2024年10月に行われた衆議院議員選挙で与党・自民党と公明党は過半数割れを喫した。しかし野党はまとまることができず、自公で少数与党を形成。
■先生にも物言いをするイヤな子どもが変わった一言

——八幡さんの子ども時代から教えてください。
八幡愛議員(以下:八幡) 先生の顔色を観察しつつ、物言いをするような子どもでしたね。幼稚園で先生が「お遊戯しましょう!」と言っていても、やりたくなさそうな顔をしていたら「先生やらなくていいよ」なんて返してしまったり。お昼寝もしなかったらしくて、みんなが寝ているときに先生が紅茶飲んだり、お菓子を食べたりしているのを見て、母に「許せない」と怒っていたらしいです。
友達はあまりいなかったです。
——それは何でしょう?
八幡 当時の先生に「みんなできることと、できないことは違うんだよ」と言われて。確かに私も、自転車に乗れなかったけど、他の子は乗れていた。だから自分でできることが人にできないこともあるし、反対に人ができることを自分ができないこともある、とハッとしました。
学校には障がいを持つ子もいました。普段は別学級なんですけど、たまに給食とか一緒になったりして。「こういう子もいるんだ」と、今で言う「多様性」を学んでいたんだと思います。
——中学では私立に進まれています。
八幡 私の行くはずだった公立中は「スクールウォーズ」みたいな感じで荒れていたんですよ。「絶対いじめられる!」と思って。
どうしても逃げたいから「勉強して私立へ行くしかない」と決めたんです。学費は祖父に「出してください」とお願いしました。「受かったら考えるわ」と言われたので、めっちゃ勉強しました。お金がなかったので、塾には通わず独学でした。
——「スクールウォーズ」はイヤですよね(笑)。
八幡 絶対に無理。私は生意気だったせいか目をつけられていたので、「(公立の中学に行ったら)人生終わる」と思っていました。
——無事に合格を果たした私立中学はいかがでしたか?
八幡 進学したのは、中高一貫の女子校でお嬢様が多いところでした。中学はダンス部でしたね。踊るのは苦手でしたけど、その頃から漠然と芸能界に入りたいなって思っていて、「ダンスって芸能っぽいな」と。憧れの世界への一歩という感じで選びました。
■「すごい」「かわいい」と言われたかった

——芸能界に憧れた理由は?
八幡 目立ちたかったからです。承認欲求は昔から強かったほうだと思うんです。でも、親は放任というか、褒めもしないけど叱りもしない感じでした。テストで100点取っても「そうなんや」って反応で。反対に0点でも「それがあんたの実力だからな」みたいなことしか言わないんですが。多分、物足りないと思っていたんでしょうね。
もっと「すごい」とか「かわいい」とか言われたかった。家には弟が二人で、私はお姉ちゃんだから周りに甘えることもできなかったのを拗らせてしまったんだと思います(笑)。
——オーディションを受けたのは中学時代ですか?
八幡 中学1年か2年生のときですね。「モーニング娘。」の追加メンバーオーディションに応募したんです。「ASAYAN」を見て。当時住んでいた姫路は、基本的にテレビ大阪(TV東京系列)の電波は届かないんですが、私の家はギリギリ砂嵐みたいな感じで映ったんですよ。
そうしたら関西の最終オーディション風景が番組で紹介されて、残っていた私もTVに映り込んだんです。そしたら「あいつ、モー娘。のオーディション受けたんだって」みたいに広まってしまった。「(姫路では)映らないのになんで?」と思いましたけど(笑)、先輩からも目をつけられて、イジメみたいなことを受けました。でも、「私はあんた達とは違って芸能界へ行くんだ」って振り切りました。
——オーディションを受ける費用はアルバイトで賄っていた?
八幡 当時は全国規模のオーディションだと、交通費や宿泊費用を負担してくれるところがあって、そういうところしか受けていませんでした。でも、最終予選で落ちるの繰り返しで。
それから「レッスンとか受けないとダメだよ」と言われて、レッスン費用を稼ぐためにバイトを始めました。中学3年の春休みにマクドナルドの面接を受けて、入学式の後から働き出しだんです。
アルバイトは校則では禁止されていましたけど、「そんなこと言ってられない!」って感じでしたね。親は芸能界へ入るのに反対していたし、そもそもレッスン代を出せるほど余裕なかったですから。
——マクドナルドと聞くと「スマイル0円」を思い出します。
八幡 (スマイル0円の)オーダーはめっちゃ来ましたけど、さらっと流してました(笑)。そうそう、私マクドでバイトしていたときに伝説を作ったんです。
——伝説ですか?
八幡 はい。当時マクドナルドでは、注文を受けてから1分以内にオーダーを用意できなかったらポテトかハンバーガーの無料券を渡しますという“1分チャレンジ”みたいなことをやっていたんです。一人様でも、家族連れでも関係なく⋯それで私は30分で36組のオーダーを捌いたんです!
——それはすごいですね。
八幡 段取りをめちゃくちゃ考えていました。並んでいる人を見て、「この人はポテトMサイズやな」とか「ビックマック頼むかもしれん」と想像しながらレジ打ちしました。
当時、レジ打ちの人たちがポテトを揚げる権限も持っていたんですね。だから「Mが何個」とか私が予測して揚げ立てを渡せるようにしていました。バーガー類のストックもチェックしながら。
当時から状況を把握するのは好きだったと思います。それが今、政治のことを考えるのにも生きていますね。
■歌手の道を諦め、グラビアアイドルの道へ

——最初は歌手を目指していて、グラビアアイドルになったのは?
八幡 歌手は19歳で挫折しました。ソニーのオーディションを受けて、レッスン生のような扱いになっていた時期もあったのですが。同期には(シンガーソングライターの)清水翔太くんがいました。
翔太くんは講師から「お前は独自の世界観が強すぎるんだよ」とよく怒られていましたね。私はそれを見て「また怒られてる。勝手なことしてるなー」なんて思っていたんですけど、その数カ月後に翔太くんがデビューしていて。
講師がTVで「彼(清水)の独特の世界観が素晴らしい」と褒めているのを聞いた瞬間に「私には向いていない。やめよう」と思ったんです。個性的なのが悪いと怒られていたのに、デビューしたら手のひら返しされる世界では無理だなって。そもそも私はそんな世界でも選ばれなかった。だから色んな意味で限界かなと思ってやめたんです。
デビューしたいとは思っていたので、それからグラビアアイドルへ転向しました。このまま辞めたら何も残らないじゃないですか。なにか形にして残したかった。
——グラビアアイドルでは、売れたのですか?
八幡 全然全然。DVDも事務所の床抜けるんちゃうんかってくらい返品されました(笑)。グラビアアイドルをしていて、辛かったのは売れなかったことです。今だと“高身長”とか“モデル体型”のグラビアアイドルの需要もありますけど、当時は低身長で可愛らしい感じの子じゃないと売れない時代でした。雑誌の紙面獲得バトルに挑戦した時も辛かったですね。ファンからの投げ銭によってポイントを稼いで、それが評価の対象になって。
——今でいうYouTubeライブのスパチャのような。
八幡 そうですそうです。そのポイントは、ファンの人がお金払って買ってくれるんですね。だから無理させてるなって思って。バトル内容に撮影会もあるんですが、それもファンは有料なんです。
——撮影会は、八幡さんにギャラは入るのですか?
八幡 ほとんど貰えません。たまに5000円くらいくれるところもありましたけど、払ってくれない場合も多かったですね。現場(撮影会)で「払った」「払ってない」のトラブルもよく見聞きしていました。
——そこからアイドルグループ入りをした。
八幡 はい。私、旅行会社のモデルもやっていたのですが、ある時会社が「ご当地アイドルをプロデュースしたい」と言い出して、私にメンバー入りを打診してきました。「嘘やろ」って思って。だってその時27歳ですよ。聞いてみたらまとめ役とか、女の子が危ない目に遭わないように監視する役がほしいみたいなこと言われて。「いいんですか?27ですよ?」と念押ししたのですが、「おもろいからええやん」って(笑)。
——インストアライブとか握手会とかやりましたか。
八幡 やりました。ここでも全然人気なかったですね。私の列は全然並んでない(笑)。みんな不憫に思ったのか「推しもいるけど、あい姉(八幡議員)のところ行ったろか」みたいな感じで来てくるんです。プレゼントも推しの子にはかわいい物渡しているんですけど、私のところにはビールとかワンカップ酒なんです(笑)。
■東日本大震災で迷走していた生き方が定まった

——政治に興味を持ったきっかけは?
八幡 2011年の東日本大震災です。原発事故もありましたよね。
その時、おバカキャラで在阪局のバラエティー番組に出るお話をいただいていたんです。当時“おバカブーム”が来ていたじゃないですか。「これに乗るしかない!」と思って、本当に馬鹿なんですけど(笑)。ロケが3月12日の予定で、大地震と原発が爆発したのにおバカとか言ってられない、ということになり流れてしまったんですが。
それで、その時政府の対応に「なんかおかしいな」と違和感を覚えて「これは勉強しなあかん」って興味を持ったんです。それまで新聞とかTVの報道が正しいと思っていたけど、実は違うんじゃないかって。
——それで行動を開始した。
八幡 はい。知り合いのツテを辿って、まずは市民メディアのリポーターになりました。
あの頃って「反原発デモ」とかがすごかったじゃないですか。私の中ではデモってすごく怖いイメージだったんですが、普通のサラリーマンとか、お母さんとか、子供連れの人とかがたくさん来ていたんですね。
「なんやろ。この動きは」って思いながら取材していたら、山本太郎代表(以下:代表)に会ったんですよ。前からすごいなと尊敬していた方でしたが、取材で顔を合わせるうちに「どうも」って挨拶する間柄になりました。その後、ツイッターのDMでも交流するように。そうするうちに代表が政治家になってて驚きました。
政治の道へ進んだのは、とにかく代表の存在が大きかったです。2019年に一人でれいわ新選組を立ち上げたときに「この人本気やな」と思って、「一緒にやりたい」「いつか絶対に合流したい」「支えたい」と思ってボランティアを始めたんです。
いつか自分も地方議員になって代表を支えたい。れいわ(新選組)の考えを広めたい。そう思いながら党の活動をお手伝いしていたんです。
そしたら代表から「姫路で会いたい」って連絡が来たんです。「なんやろ」と思っていたら「衆議院議員選挙一緒に出ませんか」と言われて、それがスタートでした。
——ご自身も驚いたのではないですか。
八幡 もちろんもちろん。で、代表に「なんで私なんですか」と聞いたら、「2012年くらいに知り合って、何となく見ていたけどブレなかったよね」って。
「私は芸能界にいても売れなかった。失うものがないから好き勝手言えたんですよ」って言ったら、「2012年からずっと活動してきて、最初は多くの人がいたけど、みんな生活とか仕事があるから離れていった。でも、あなたは残ってましたよね。だから一緒にやりましょう」って。
それで「ぜひ!」と二つ返事で受けました。代表がいなかったら、今ここにいないと思ってます。
■「もうあかんやん」と涙を流し⋯からの滑り込み当選
——今回当選されるまでどんな生活をしていたのですか。
八幡 党の職員として仕事をしていました。れいわ新選組は公認されないと政治活動できないんです。なので、生活費は職員の仕事で賄っていました。
——具体的にはどんなことを?
八幡 地方議員のサポートです。地方選挙に出る人の面接とか、連絡係とかをしていました。公認が出てからは、ポスター張りや駅頭(挨拶)などを地元で始めました。
——最初の反応はどうでしたか。
八幡 全然です。「消費税廃止とかありえへん」とか「山本太郎おかしいもんな」なんて、すごく馬鹿にされましたね。
でも、私がれいわ新選組に入ってからの4年間でコロナ禍だったり、ウクライナとロシアの戦争だったり、物価も上がったりして皆生活がしんどくなってきたじゃないですか。それで少しずつ反応は変わっていきました。今回衆議院の議席が3から9に増えたし、風向きの変化を肌で感じています。
——10月の総選挙では落選したとXに投稿していましたよね。
八幡 はい、そのときは本当に「もう無理」って。怖くて家に帰って、化粧も全部落として、泣いて布団にくるまってましたもん(笑)。
携帯がずっと鳴っているから「なんなん。もうええって慰めは」と思って見ると、色んな人から「当選おめでとう」って着信やメッセージがきていました。
「ええ!」と思って事務所戻ったら、最後に滑り込みで受かっていたんです。
それからずっとバタバタして今日に至るって感じです。
——お休みは取れましたか。
八幡 まったくないです。引っ越しもしたけど荷解き終わってないし、地元で応援してくれた人への当選報告もまだ終わってません。
だからいまだに「私って本当に衆議院議員になったんだよな」って不思議なんですよ。右も左もわからなくて、ものすごく目まぐるしくって。
ただ、今回は滑り込みで当選できたけど選挙制度も変えないとあかんと思いましたね。
——それはどうして?
八幡 比例って最後は同じ党で争うじゃないですか。れいわ(新選組)は関西2議席取ったけど、私と大石(あきこれいわ新選組共同代表)さんで争ったじゃないですか。(同じ党で)どっちかが落ちろってなるのは最悪ですよね。
——そうですね。
八幡 そこは、時間をかけて変えていけたらいいなって思います。今回ギリギリで当選できたのは応援してくれた皆さんのおかげだと思っています。ホントにありがとうございます。
■選択的夫婦別姓、LGBT理解促進について
——今度国会でも質疑されますが(※1)、どんな内容にしたいですか。
八幡 れいわの政策に則りながら、一般の人でもわかりやすい言葉を使おうと思っています。
今、何が問題で何が起きているのか。それを政策でどう捉えているのかをわかりやすく伝えたいです。
※1:12月18日に衆議院厚生労働委員会と農林水産委員会で質疑に立った。
——確か選択的夫婦別姓も賛成でしたよね。
八幡 はい。
——反対派は選択的夫婦別姓にすると戸籍制度が崩壊すると言っています。それはどう思いますか。
八幡 私自身、父親が経済的DVをするような人だったんで、家族の戸籍と分籍しているんです。戸籍に縛られるのはどうかなと思います。
一方、私は結婚するなら名字を変えたくない。で、家族はみんな同じ名字にしたい。「自分と同じ名字になれよ」という男性と同じタイプです(笑)。
——婿養子ですね。昔からあるからそれでもいいですね。
八幡 はい。そういったのもあるんだから自由でええやんって思います。
——LGBT理解促進についても賛成ですね。
八幡 なんで反対するのかわかりません。
確かに女性が怖がるような事件への対策はきちんとしなきゃダメです。ただ、「お前はほんまにそう(トランスジェンダー)なのか」と問い詰める権利は誰も持ってません。
私もトランスジェンダーの知り合いがたくさんいますけど、誰も大浴場とか行きませんよ。トイレも誤解されたくないから行かないです。生きていくために皆さんすごく頭悩ませながら過ごしています。「私の心は女性だから女性トイレに入りたい」なんて無茶言う人は、周りにはいないんです。
そうやって、(性的欲求のために)悪く利用している人には腹が立ちますし、一方で怖いという女性の気持ちもわかります。
そう考えると、社会がもう少し成熟しないとあかんなって感じがしますね。
——TV局のアンケートで「政治のリーダーでもっとも大切なのは“予測力”」と回答していましたけど、その理由をお聞かせいただけますでしょうか。
八幡 予測ができないと対処・対応ができないじゃないですか。このまま放っておいたらどうなるとか、これを実行したらこうなる、というのを汲み取る力が大事です。
決断力とか政策立案能力とか色々ありますけど、リーダーは日本の将来が予測できないと。まあ、もう目に見えてますけどね。
——明るくはないですね⋯⋯
八幡 そうですね。後、「これを言ったら失敗するな」と思えるのも予測力ですよね。私みたいにたくさん炎上した人に言われたくないでしょうけど、軽率な行動を取ってスキャンダルになった人いますよね。予測力が足りないかなって思います。
■「共に生きましょう」
——最後にこれからの意気込みについてお聞かせいただけますでしょうか。
八幡 はい。せっかく政治家という仕事に就けたので、皆さんが少しでも絶望を希望に変えられるようにしていきたいです。
私たちが掲げる政策を実現するために諦めない姿勢とか、ちょっと生きていくのがしんどい人が、何かプラスになるような期待をれいわ新選組や八幡愛に感じていただけたら、共に生きましょう。
「共に生きましょう」は、私が好きな作家・中村文則さんが本の最後に必ず書いてくれる言葉です。私は中高時代、その言葉に救われてきた。政治家になった今こそ、「あなたも私と共に生きましょう」と皆さんに呼びかけたいです。

取材・文:篁五郎