死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。
2025年は令和7年であり、昭和100年にもあたる。つまり、昨年は昭和99年でもあったわけだ。そんな年に届いた訃報は、昭和が遠くなったことを実感させられるものが多かった。西田敏行に篠山紀信、キダ・タロー、渡邉恒雄などなど。なかでも筆者が印象深いのは、11月から12月にかけて旅立っていった三人の男女だ。
まずは、火野正平(享年75)。言わずと知れた「昭和のプレイボーイ」である。
若い頃は数々の浮名を流し、最大11股という噂も。すでに妻子がいたので、浮名というより浮気だが、どの愛人ともキレイに別れられるという奇蹟のような恋愛遍歴でもあった。
愛人たちは口々に「一緒にいるだけでよかった、とことん憎めないのが火野さん」(小鹿みき)「あの人が真理子という女と暮らして、よかったと思ってくれるだけでいいんです」(望月真理子)「たくさんの男に貢いだが、ちゃんと返してくれたのは火野正平だけだった」(仁支川峰子)などという言葉を残している。
また、本妻とは籍を抜かないまま、別の女性と40年以上にわたって事実婚を続け、こちらにも子供が誕生。
晩年はNHKの紀行番組『こころ旅』で親しまれたが、これは彼が奇蹟のような恋愛遍歴を全うすることができた謎を解き明かすような番組でもあった。というのも、彼は旅先で若くて可愛い女だけを好んだわけではない。年齢や美醜に関係なく、女に握手を求められれば、
「妊娠しても知らんぞ」
と、お決まりの台詞で笑わせる。人懐っこい言動で親しくなる相手も老若男女を問わず、さらに、動植物全般が興味の対象だった。少年のように虫を追いかけたかと思えば、花の香りを嗅いだり。虫も花も自然のものなので、人間の思い通りにはならない。彼は好きな女に対しても、自然に接し、自然にまかせてきたのだろうと想像させられた。
そんな姿勢は被災地を訪れた際などにも発揮され、無言の共感力のようなもので人々と自然に寄り添っていた。こういう男だからこそ、相手の女も彼にいろいろと共感して別れすら自然に受け入れるしかなかったのだろう。
ちなみに、筆者は子供の頃、NHK大河ドラマの『国盗り物語』で彼を知り、その後、誕生日が同じということもあって、大ファンになった。ファンというよりは、目標だが、とても真似できる存在ではない。
それは時代のせいでもある。もはや、プレイボーイが自然に生きられる世の中ではないのだ。
そのあたりをさらに実感させられたのが、火野の訃報から数時間後に流れた、角界発の訃報だった。現役時代「プレイボーイ横綱」とか「銀座の横綱」などと呼ばれた北の富士勝昭(享年82)。個人的に好きなのは、銀座のクラブママでもあった作詞家・山口洋子が明かしたエピソードだ。
中条きよしのデビュー曲『うそ』がヒットしたとき「あの歌のモデルは俺だろ」と、したり顔で言ってきたらしい。実際には、店のホステスから浮気の相談をされたことがヒントになったそうで、その嘘つきな男が北の富士だったかどうかはわからない。ただ、プレイボーイぶりが自慢でもあったのだろう。
本業では優勝10回というまずまずの成績を残したが、不名誉な語り草もある。どこも悪くないのに不調だった場所を「不眠症」で途中休場。
「そういえば、このところ、ちょっと夜、寝つきが悪いな」(『千代の富士一代』石井代蔵)
と医師に言ったところ、そういう理由になったわけだが、元気なので場所中にもかかわらず、そのままハワイに行ってしまった。
引退後は九重親方として、大横綱・千代の富士を育成。しかし、好事魔多しというやつで不祥事も起きた。部屋の三段目力士・富士昇を千代の富士らがしごいて半殺しにしてしまったのである。富士昇はのちの大関・北天佑(三保ヶ関部屋)の実弟で、入門当初から態度が悪く、千代の富士らの得た懸賞金を盗んで女遊びに興じるほどだったという。しごきの原因もそれだというが、公表はされず、メディアはバッシングに走った。
その直後には、千代の富士の結婚披露宴に暴力団の組長が出席していたことを叩かれ、謹慎処分にもされている。
やがて、定年を前に相撲協会を退職。晩年はNHKの大相撲中継で解説者として活躍した。ただ、パワハラのような行為が角界であっても批判されるようになっていく時期でもあり、当初はその批判に違和感を示してもいた。が、しだいにあきらめていったふしもあり、時代の変化を淋しく感じていたのではないか。
さて、残るひとりは中山美穂(享年54)。アイドルとして世に出て、女優としても多くのヒット作を残した人である。
ところが、訃報絡みのニュースではもっぱら「俳優」という肩書で紹介された。最近、メディアにおいて女優という言葉を避け、女の役者も「俳優」に統一する習わしができてしまったからだ。それゆえ、おかしなやりとりも生じることになる。たとえば『Nスタ』(TBS系)でコメントを求められたドラマプロデューサー・八木康夫と女子アナのやりとりだ。
――俳優・中山美穂さん、87年当初はどんな印象だったのでしょうか。
「ふだんは物静かな人で、いざ本番となると、テンションの高いお芝居をお上手にやられれて、本当の女優さんだったなっていう」
――その後、俳優としてのご活躍、どのようにご覧になってたんですか。
「アイドルや歌手の印象も強いんですけど、僕としては女優・中山美穂という印象があって(略)しっとりした大人の女優になられて。いい意味でおひとりでスタジオの隅でお芝居を考えながら、キャラクターに合ったお芝居をされてて、プロデューサーとしてはすごく素敵な女優さんだったなって」
この噛み合わないやりとりを見ながら、SNSで、
「TBSでは八木康夫がコメントしていたんだけど、彼が『女優』と言うたび、女子アナが『俳優』と言い換えるような感じになってしまっていて、もう何か呪いたいくらい苛々した」
とつぶやいたところ、多くの賛同を得た。女優という言葉が避けられ始めてから初めてというべき、現役感のあるトップ女優の訃報のおかげで「女優」が特別な存在だった時代が遠ざかりつつあることが明らかにされたわけだ。
そしてもうひとつ、複雑な気分にさせられたことがある。彼女が若くして世を去ったことにより、デビュー前後の経緯が整理できたことだ。芸能評論家としてはすっきりしたところもあるが、哀しいことでもある。
たとえば、歌手デビューしたとき、彼女はバーニング傘下のビッグアップルに所属していて、その社長・山中則男にはいろいろお世話になった。始まりは85年の夏、筆者が発行人を務めていたミニコミ誌『よい子の歌謡曲』に彼がクレームを入れてきたことで、彼女の初主演ドラマ『夏・体験物語』(TBS系)で共演することになった少女隊のファンが書いた文章がきっかけだ。このドラマも彼女の女優デビュー作『毎度おさわがせします』と同じエッチ路線だったため、その書き手が「中山美穂はそのスジの専門家だからいいようなもんだが」と皮肉ったことへのクレームだった。
ただ、この社長は好人物で、この件でむしろこちらと仲よくなり、次の号で広告を入れてくれたりした。また、彼女の中学の同級生で近所に住むという読者からの「昔はよく下着(カラフルなヤツ)がほしてあったものでした」という投稿を見て「あれは俺がやめさせたんだよ」と笑い飛ばすような茶目っ気もあった。しかし、バーニングはその後、この社長に代えて、別の大物を送り込むことになる。
個人的には長年、山中と彼女の関係性がよくわからなかったのだが、訃報を受け、山中がメディアに登場。モデル事務所「ボックスコーポレーション」時代に彼女を原宿でスカウトしたことなどを語った。山中は当時、遠藤康子もスカウトしていて、ふたりを売り込むために「山中事務所」を設立。
アエラドットのインタビューによれば、
「マンションの1階で、6畳と4畳半の2部屋と流し台だけ。家賃は4万5000円で、自宅兼事務所でした。一生懸命に営業したんですが、最初は2人とも全然売れなかった。それでも毎月5万円ずつ、2人に給料を払っていました。ですが、途中で2人を維持するのは難しくなってしまい、遠藤は知り合いの芸能事務所にお願いしました。その遠藤は歌手の橋幸夫さんが副社長を務めるレーベルから、歌手デビューが決まっていたんです。ところが、デビュー前、1986年に自殺してしまった……。死の1週間くらい前には美穂や私に『私も負けないように頑張るから応援してね』と電話があったんです。もう衝撃で、美穂と2人で大泣きしました」
中山と遠藤の友情については、この「ベストタイムズ」でも触れたことがある。「岡田有希子と”もうひとりのユッコ”の夭折、映画界の奇才による大映ドラマブームという置き土産 1986(昭和61)年【連載:死の百年史1921-2020】第8回」でのことだ。
そこでも書いたように、遠藤の死をめぐっては、恋人との別れを事務所に強要されたから、とする見方も出た。中山もそういう見方だったようで、エッセイ集『なぜならやさしいまちがあったから』(2009年)には、遠藤の分まで「誰にも止めることを許さない自由な恋愛をしようと思った。(略)誰にも止めることができない自由な魂で結婚をしました」と綴られている。
その結婚が終わる際にも、不倫が囁かれたし、彼女は芸能活動に負けず劣らず、恋愛遍歴も華やかだった。2020年のインタビューでも、
「多少なら、どう思われてもいいやって(笑)。いま、すごく楽しんで仕事ができているんです」(週刊女性)
と語っていて、公私ともに自由でありたいという女優らしい生き方を貫いたといえる。そんな彼女を「女優」と紹介できないメディアの不自由さ。火野や北の富士についても「色男」の時代が過ぎ去ったことを感じたが、人が死ぬたび、時代は動き、世の中は変わっていくのだろう。
文:宝泉薫( 作家・芸能評論家)