2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引...の画像はこちら >>



現在、プロレス界を席巻しているタッグチームがある。その名は「斉藤ブラザーズ」。

大相撲からブランクを経て全日本プロレスへ入団した双子レスラーは、あっという間に頭角を表し、デビューわずか3年で世界タッグ王座を獲得。今年に入ってからシングルプレイヤーとしても成長しており、兄の斉藤ジュンは三冠チャンピオンに挑戦をするほど。その躍進ぶりが評価され、プロレス界トップの証でもある「東京スポーツ新聞社制定2024プロレス大賞supported byにしたんクリニック」のMVPにもエントリーされた。2024年プロレス界で活躍した2人に力士時代のことやプロレス入りする前のことを詳しく聞いてきた。



■47年の歴史で史上初!全勝優勝を成し遂げた新鋭タッグ

——自己紹介からお願いできますか。



斉藤ジュン選手(以下:ジュン) 斉藤ブラザーズの兄・斉藤ジュンだ!今日はよろしくお願いします。



斉藤レイ選手(以下:レイ) 斉藤ブラザーズの弟・斉藤レイだ!今日は取材していただきありがとうございます。



——まずは最強タッグの優勝おめでとうございます。



ジュン・レイ ありがとうございます。



ジュン 今年は全勝優勝するのが最低条件だと思っていたので、終わってみると当たり前の結果になりましたね。



——史上初の全勝優勝ですが、シリーズ中に危ないシーンはありましたか?



レイ 準決勝で当たった綾部蓮(※1)・本田竜輝(※2)組との対戦は、途中でヤバいと思ったときはありましたね。綾部選手は王道トーナメント(※3)の準決勝でギブアップ負けしているんです。

その時と同じ技でやられそうだったのがヤバいと思いましたね。



ジュン あれは確かにヤバかったな。



レイ タッグとしては我々の方が勢いがあったから勝つことができましたね。



※1:綾部蓮:身長2mを超える期待の若手選手。壁を乗り越えて「第11回王道トーナメント」で優勝を飾った
※2:本田竜輝:2018年デビュー。2021年に全日本プロレス入団。史上最年少で世界タッグ王座を獲得した
※3:王道トーナメント:全日本プロレスを代表する無差別級シングルトーナメント戦。今年で11回を数えている全日本プロレスの人気シリーズ





■柔道、アメフト、アマレス...多彩なスポーツ経験が今にいきる



2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引退→30代でプロレス転身した“諦めない”生き様
▲中学時代にすでに190cmあったという兄・ジュン



——小さい頃はどんなお子さんだったのでしょう。



ジュン 2人共活発で勉強よりも遊びのほうが好きでしたね。



レイ すごく好奇心旺盛な子どもだったと思います。



ジュン あんまり大きな声では言えないんですけど、2人で近所の家の屋根に上がって怒られたりとかありましたね。思い出すといたずらをよくしていましたね(笑)



——小さい頃から2人で遊んでいた?



レイ そうですね。

性格は違うんですけど、色々共通している点があるので自然と一緒にいましたね。友達の家に遊びに行くときも2人で行ってました。



ジュン 後、なんかいつもお腹をすかせてた記憶があります。母が買ってきた食べ物を冷蔵庫に入れておくじゃないですか。それを全部食べちゃってすごく怒られたの覚えてますね(笑)。



レイ そういうことはよくありました(笑)。



ジュン それと小さい頃から2人とも身体は大きかったですね。クラスの中でも頭一つ飛び出るくらいで。



レイ 小学校6年生のときに100kg、身長も170cmくらいありましたね。



ジュン 中学に入って身長が190cmくらいになったんですよ。高校になったら2m超えるかなって思ったんですけど、止まっちゃいましたね。



——中学で190cm超えとは。

学生時代は何かスポーツをされていたのでしょうか。



ジュン 中学の時は先輩にスカウトされて柔道部に入りました。あんまり強くなくて結構負けてましたね。



——体格で圧倒できそうなイメージですが。



レイ いやあ(笑)。興味があって始めたわけからじゃないからですかね。でも、今にして思うとやっていて良かったなと思います。



ジュン 高校は父の勧めでアメリカンフットボールをやっていたんです。アメリカの場合、一つのスポーツをずっとやるのではなく、季節ごとに変わるんですね。秋はアメフトをやって、冬場はアマレスをやってました。春になると陸上ですね。自分は走るのが好きだから長距離やって。



レイ 自分は砲丸投げとかやってました。



ジュン 中学のときの柔道やアメフトもそうなんですけど、人から勧められて始めたじゃないですか。色々なスポーツを経験したことで基礎体力がついていったし、スポーツそのものに興味を持てるようになったのは良かったですね。



レイ 学生の時にスポーツをやったことで身体つきも変わっていったし、自分に自信もついてきたんです。それは中学のときに柔道をやっていたおかげでアメリカでも追い込んだ練習ができたと思います。



アメフトとアマレスをしっかりとやっていなかったら相撲部屋に入ろうなんて考えもしませんでしたね。今ここにいるのは柔道をやっていたおかげです。





■YouTubeで朝青龍を見て…相撲部屋に入門した



2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引退→30代でプロレス転身した“諦めない”生き様
▲朝青龍に憧れ角界の門を叩いた弟・レイ



——相撲の道に進もうと思ったきっかけを教えてください。



レイ これは自分がYouTubeを見てです(笑)。



——YouTube?



レイ はい。アメリカで高校卒業した後に日本でいう短期大学、コミュニティカレッジがあったんです。そこに2人で通っていました。

そのときにYouTubeで朝青龍関の動画を見たんですよ。横綱は筋肉質だし、強いじゃないですか。それでかっこいいなって思って、相撲取りになろうと決めました。



ジュン 自分はもともと格闘技がやりたくて。日本でキックボクシングのジムに住み込みで練習していたんです。当時はK-1が人気でヘビー級とかすごかったので、自分も憧れていました。



それから、短大を卒業して「少しは社会人を経験したほうがいいな」と思って、アメリカでトラックの運転手をやっていたんです。1年くらいかな。それでお金を貯めて帰国しました。練習はキツかったけどとくにつらかったのは減量ですね。食べないで練習するのは無理でした。「自分には向いてないな」と悩んでいたときに、弟から「相撲取りになろう」と声をかけられたんです。



——そこから晴れて相撲部屋に入門する。



レイ まず、自分が先に入門して、そして1週間くらいで逃げました(笑)。相撲部屋ってプライベートがゼロじゃないですか。ずっとアメリカで生活していたんで、そのギャップに慣れなくて帰っちゃったんです。まだ正式に入門していなかったので、いったん日本の実家に帰りました。それからバイトとかしていたときに兄も戻ってきて。



ジュン それで2人で「相撲をイチから頑張りたいから(もう一度)一緒に入門しよう」という話をしました。



——プライベートゼロでも2人なら何とか耐えられると?



ジュン そうですね。



レイ 自分1人で行ったときは厳しいかなって思いましたけど、でも2人で一緒に頑張ろうと思って行ったら苦ではなかったですね。



ジュン 本当にすぐ慣れましたね。相撲は神事ですから日本伝統のしきたりがあります。たとえば、土俵作るときに、神様を下ろしてくる土俵祭というものがあるんですけど、そういったものも含めて楽しかったです。稽古はもちろん厳しかったんですけど、楽しい思い出がいっぱいです。



——相撲部屋時代って休みの日はどんなことをして過ごすんでしょう?



ジュン 色々買い物をしたり、食事行ったりとかですね。



レイ 本場所が終わると、何日か稽古がお休みになるんでいつもよりゆっくり眠れるんですよ。それで仲の良かった兄弟子と一緒に遊びに行ったりしてました。



ジュン 勝ち越して遊ぶと、楽しいんです。相撲部屋にいる限り目標は番付を上げて関取になることです。だから逆に負け越すとずっと落ち込んだままになる。



レイ 気分転換で遊びには行くんですけど、どこか楽しめないっていうか。気分も沈んだ感じでしたね。



——稽古はやはりつらかったでしたか?



ジュン キツかったですね。相撲はすり足じゃないですか。最初の何ヶ月かは足の裏が痛くて。慣れてきたら皮が厚くなるんで平気なんですけど、慣れないと痛くて歩けないくらいでしたね。



レイ 足の裏の皮が固くなって割れてました。後、爪もしょっちゅう剥がれました。



——爪ですか?



ジュン 爪は土俵際で踏ん張るじゃないですか。それで足が還るときに剥がれるんです。痛いですよ。相撲の稽古では、もちろん体力面とかでキツいのもありましたけど、とにかく痛かったことが記憶に残っています。ほとんどの相撲取りは、打撲とか捻挫程度のケガでは稽古も本場所も休みません。テーピングでガチガチに固めて出てきますね。でも、テーピングしても痛いのは痛いですから。



プロレスの練習は、基礎体力つけるために腕立てとかスクワットをすごい回数こなすじゃないですか。そっちの練習のほうが厳しいって思う人もいますけど、自分はそんなに苦じゃないんです。



相撲の稽古は身体へのダメージが残るんです。一晩寝たくらいじゃ回復しないので、それがつらいというか大変でした。



レイ プロレスの練習とはキツさの種類が違うんでよね。ただ確かにキツかったですし、稽古をしていたのに負け越したりしたのは悔しかったですけど、それで辞めようとは思わなかったです。楽しさの方が勝っていました。



——相撲部屋時代は、部屋へのビールの差し入れを、お二人で飲み干したと伺いました。



ジュン・レイ そんなこともありましたね。



ジュン ビールと言えばレイですが、自分も好きだったんで。



レイ 確か、後援会の人繋がりで居酒屋さんにある生ビールのサーバーが部屋に来たんです。親方も「好きなだけ飲んでいいぞ」っていうから飲んでたんですよ。他の皆はそこまでビールが好きじゃないから、結局ジュンと2人で飲んでたら数日でなくなっちゃって。親方には「もうないのか。お前らみんな飲んでいるな!」なんて言われました(笑)。



ジュン でも飲んでいたのは自分らだけ(笑)。



レイ 「飲んでいい」って言ったから飲んだんだけどな。相撲部屋ってビールは瓶で差し入れがくるし、日本酒もたくさんあるんですよ。とにかく毎日のように飲んでましたね。



——高級な差し入れをいただくこともありそうですが。



ジュン 後援会の方からフグの差し入れをされたことがありましたね。市場とかにある発泡スチロール箱がたくさん来たと思ったら、中にフグの切り身とか白子とかパンパンに入っていました。



レイ 相撲部屋なんで差し入れの量がすごいんです。黒毛和牛とかは10kg20kgで来ましたね。



ジュン 牛肉は差し入れでいただいたら、焼いて食べたり、すき焼きにしたりとかいろいろしていたんですけど。あと魚、ブリの差し入れが本当に多くて。そのブリをてっちり鍋にしてよくみんなで食べていました。フグは、親方衆の方が嬉しそうで(笑)。みんな美味しいなって言って食べてました。



レイ あんまそういうこと言っちゃいけない(笑)。





■力士引退から全日本プロレス入りに至る“空白の3年間”



2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引退→30代でプロレス転身した“諦めない”生き様
▲プロレスのリングに上がるまで何をしていたのか?(2023年6月3日筆者撮影)



——力士を引退されたのが2017年ですけど、その後の生活について教えてください。



ジュン 自分は弟より先に引退したんですけど、トラック運転手の経験を活かして仕事をしようと思って、一度アメリカへ戻ったんです。色んな事情があって日本に帰ってきてからは、住み込みの仕事をしていました。北海道の温泉旅館へ行ったり。弟は山小屋で仕事したりしていました。



レイ 自分はアウトドアとか自然が好きで、そっち方面の仕事をしたいと思って、長野県の北アルプスにある山小屋へ働きに行きました。兄は兄で住み込みの仕事をしていたんですけど、自分がプロレスやりたいなって思って。



——プロレスをやろうと思ったきっかけはなんでしたか?



レイ またYouTubeなんですけど(笑)、住み込みの仕事をしていたときに九州プロレス(※4)という団体が新人育成のドキュメンタリー動画をアップしていたんです。彼らがデビューに向けて頑張っているのを見ていたら「自分もやりたいな」と思って。



以前からプロレスは好きで見ていたんですけど、このままアウトドアの仕事を続けるよりも、せっかくだからチャレンジしてみたいなって。



ジュン 力士を引退した後もトレーニングは続けていました。関取になれなかったから不完全燃焼みたいな感じでしたね。30超えていたけど2人でもう一度挑戦したいという気持ちがありました。



レイ 引退して1年くらい経って、(プロレス行くのを)誘ったんですね。それで入門テストに向けて、2人で住み込みの仕事しながらトレーニングしていました。



住み込みは同じ仕事をずっと続けられるわけじゃないんです。たとえば、お正月から春くらいまでは沖縄でサトウキビを収穫する仕事したりとか。



ジュン 自分は愛媛でみかんの運搬運送の仕事をやっていました。後、2人で北海道へ行って、自分は酪農の仕事。弟は農業の仕事をしたことがありますね。



レイ 2人で沖縄、北海道、長野と全国で色々とやりましたね。



ジュン 住み込みは時間の調整がしやすいんですよ。朝トレーニングしてから仕事へ行って、終わったら夜のトレーニングというのをテストへ向けて繰り返してました。そういった生活を1年くらい続けて、いざテストを受けようとしたらコロナ禍で難しくなったんです。準備期間が伸びたと思って気持ち切り替えて、そこからさらに練習しました。



——入門先は最初から全日本プロレスに決めていたのでしたか?



ジュン 最初弟と話していたときは宮城県が地元だから「みちのくプロレス」(※5)にしようと思ったんです。でも、小型の選手が飛び技をするイメージが強くて、自分たちには合わないと。全日本プロレスは大きな選手が多いし、ジャイアント馬場さんが作った団体だから、そっちのほうが自分たちに合うと思って全日本プロレスにしました。



※4:九州プロレス:九州地方で活動しているプロレス団体。試合以外に、高齢者施設・障がい者施設・児童養護施設・幼保園への慰問活動や、フリースクールでのプロレス授業を行っている
※5:みちのくプロレス:東北地方を中心に活動しているプロレス団体。日本初のローカル団体として多くの名レスラーを輩出している





■海外遠征を経て「斉藤兄弟」から「斉藤ブラザーズ」へ



2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引退→30代でプロレス転身した“諦めない”生き様
▲海外で「the斉藤ブラザーズ」との呼び名が (2023年6月3日筆者撮影)



——全日本プロレスに入門して驚いたことはありましたか?



ジュン まず体のデカさですね。横の筋肉がすごいんですよ。厚みというか、迫力みたいなのを感じましたね。



レイ 石川修司選手はデカさもですけど、身体中傷だらけですからね。ちょっとビビりました(笑)。



——入門したときは体重どれくらいでしたでしたか?



ジュン 自分が多分95kgくらいですね。相撲取り時代は一番重いときで150kgくらいありました。プロレスラーになろうと決めたときに、一度体重を絞ってから体作りしようと決意して、ダイエットしました。リング上で動けないと話にならないので。



——60kgくらい落としている。



レイ そうですね。自分も100kgくらいまで落としたので50kgから60kgくらい落としてます。でも、デビューしたときはそんなに変わってないですね。



ジュン そうは言っても30kgくらい増えてますね。今、自分が120kgくらいで弟が150kgくらいです。でも弟には180kgくらいまで増やしてほしい。その重さでコーナートップから飛んできたら誰も返せないじゃないですか。



レイ (笑)。



——入門して苦労もあったのではないでしょうか。



レイ 練習生として入った時、34歳だったんです。「その年で雑用とかをやるのはキツい」と思われるでしょうが、苦じゃなかったですね。ちゃんこ番もやっていましたけど、「自由にやっていい」と言われていたから好きにやっていましたし。



ジュン 相撲取りでは関取になれなかったという悔いが残っていたんです。だからプロレスやろうと決めたときは「絶対にデビューしてトップ取る」という思いが強かったんですね。だからツラいとかなくて「早くデビューしたい」と思ってました。



レイ プロレスラーになろうと決めてからの生活は、仕事とトレーニングを繰り返すだけだったんですけど、練習生になってからは練習に専念できたんで嬉しかったですね。



——新人の頃はどなたに指導を?



レイ 青柳優馬(※6)選手です。受け身とか基礎的なことは優馬選手に教わりました。それから九州プロレスへ移籍したTAJIRI(※7)選手です。



ジュン TAJIRI選手からは技術面やプロレスの考え方とかをイチから学びました。頭の良い方なので教え方も上手なんです。



——デビューが決まったときはどんなお気持ちでしたでしたか?



ジュン 「当然だな」って感じでしたね。もちろん嬉しかったですけど、それまでの積み重ねがあったんで自信もあったから「デビューは近いな」という気持ちのほうが強かったです。デビューして苦労したのは、思ったより(体が)動かなかったこと。「あれをしたい」「これをやりたい」と頭の中で思っていても経験がないから全然できないんですよ。



レイ これは他の新人さんもそうだと思うんですけど、自分たちも想像以上に大変でした。



ジュン デビュー後すぐに出場した最強タッグは悔しかったです。とにかく試合を経験してレベルアップしないといけないなと思いましたね。



レイ 技のかけ方、相手の技の受け方、そういったものを経験しないとタッグとしても、シングルとしても上へ行けないと感じましたね。



ジュン デビューして半年くらいで海外遠征へ行けたのは大きな経験になりましたね。自分たちはTAJIRIさんのツテで、昔レッスルワン(※8)にいたレスラーの家にホームステイしながら色んな団体のリングで試合をさせてもらいました。



レイ 遠征前は「斉藤兄弟」だったんですけど、「the斉藤ブラザーズ」と呼ばれるようになって、ずっと同じタッグ名で来ています。



向こうはエンターテイメントの側面が大きいっていうのがあると思うんですけど、“プロセスを考える力”が身に付いたのが一番大きいと思いますね。



デビューした頃はただ試合して試合してみたいな、とにかく攻めて攻めてみたいなイメージだったんですけど、試合運びとかお客さんを沸かせるやり方が身についたのは良かったです。



ジュン 自分たちがデビューしたときはコロナ禍でした。お客さんが声出せなくて、応援は拍手と足踏みくらいだったから反応がわからないんですよ。でもアメリカではじめて声出しの応援を受けられたのも良かったと思います。帰国した後、GLEAT(※9)でタッグチャンピオンになって11回防衛できたのも大きかったですね。全日本プロレス以外でも試合ができたんで、それでタッグとしての連携も上がりましたし、経験値が増えて成長したことが実感できました。



——その後、ヒールに転向されています。



レイ ヒールをやったのは大きいです。ヒールって、お客さんをコントロールできないとダメなんです。TARU(※10)さんからはそういった部分を教えてもらいましたし、普通なら見逃すような細かい部分までアドバイスしていただきました。



——ヒール時代に諏訪魔選手を袋に詰めたのはすごいインパクトがありました。



ジュン あれ、楽しかったんでまたやりたいんですけど、やったらヒールに戻っちゃうからできない(笑)。



※6:青柳優馬:全日本プロレス所属のプロレスラー。史上最年少で五冠チャンピオンに輝いたこともある実力派。若くして全日本プロレス道場のコーチ役を務めている
※7:TAJIRI:世界最大のプロレス団体WWE所属経験を持つレスラー。帰国後は多くの団体のリングに上がってきた。文才もあり、著書を何冊が出版している
※8:レッスルワン:武藤敬司が全日本プロレスを退団した後に設立したプロレス団体。2020年に活動を休止した
※9:GLEAT:広告代理店のリデットエンターテインメント株式会社が設立したプロレス団体。元UWFの田村潔司がエグゼクティブディレクターを務め、長州力がオブザーバーとして参加している
※10:TARU:ヒールユニット「VOODOO-MURDERS(ブードゥー・マーダーズ)」のリーダーとして全日本プロレス、ZERO-ONEなどで活躍したプロレスラー





■「TAXIめしリターンズ」でブレイク!これからの野望は



2024年大ブレイクした双子レスラー・斉藤ブラザーズ!力士引退→30代でプロレス転身した“諦めない”生き様
▲和菓子好きという一面を持つジュン (2023年6月3日筆者撮影)



——斉藤ブラザーズのお二人といえば「TAXIめしリターンズ(※11)」ですけど、お話がきたときはどんなお気持ちでしたか?



ジュン 話が来たときは、まだVOODOO-MURDERSだったんですよ。ヒールの自分たちがタクシーの運転手さんにごはん屋さんを紹介してもらって、連れて行ってもらうなんて企画、成り立つのかなって不安はありましたよ。



レイ とにかくやってみようと。やってみてどうなるかみたいな感じでした。



ジュン でも食べるのは好きなんで、2人で「(食べる)仕事が来たらいいな」って話していたんです。だからお話をいただいたときは「本当に来た」とびっくりしましたね。



レイ 自分は本当に嬉しかったです。でも「TAXIめし」はどうなるかわからなかったんです。スタッフさんも好きにやってくださいって言うし、台本もないので手探りでやっていたら、なんとか形になったって感じです。



——ジュン選手はスイーツ、レイ選手はビールがお好きですけど、好物になったきっかけはあるんでしょうか。



ジュン 昔からお菓子とかケーキは好きだったんですけど、いまくらい好きになったのはお相撲さん辞めた後ですね。さっきダイエットした話をしたじゃないですか。それくらいの頃に急に餡子が美味しく感じるようになって。それからずっと和菓子が大好きなんです。



レイ ダイエットで体質が変わったのかもな。



ジュン かもな。味覚が変化したのかもしれん。



レイ 自分がビールを好きになったきっかけはとくにないですね。飲み始めたときは、そんなに美味しく感じなかったんですけど、23歳くらいの頃からすごく美味しく飲んでたような気がします。それからはクラフトビールとかを探したりしてましたね。



※11:TAXIめしリターンズ:ミヤギテレビの「OH!バンデス」で放送中の人気コーナー。斉藤ブラザーズが、地元宮城のタクシー運転手に美味しい飲食店を紹介してもらっている



——これからプロレスも含めて成し遂げたいことを教えてください。



ジュン 去年取れなかった「プロレス大賞」の最優秀タッグ賞を獲得したので、来年、再来年とずっと最優秀タッグを取り続けたいですね。後は、今年自分たちがタッグとして初めてプロレス大賞MVPにエントリーされたので、MVPを取れるように頑張りたいです。



レイ 世界タッグのベルトを防衛し続けるのは当然ですけど、他団体のタッグベルトも欲しいですね。いずれはNOAHさん、新日本さんのタッグチャンピオンになって、タッグのグランドスラムを達成できたらと思います。



■年齢は関係ない。諦めずに毎日続けること

——最後に、氷河期の方へメッセージをお願いします。



ジュン・レイ 自分たちは30を超えてからプロレスラーになろうと思って、ずっと練習してきました。最初は腕立て伏せも全然回数がこなせなかった。でも、そこで諦めないで「プロレスラーになれる」と自信を持って毎日続けていたから、今レスラーとして世界タッグのチャンピオンにもなれたんです。



すぐに実現はできないけど、年齢に関係なく毎日少しずつ続けていくことで、その先に繋がると思います。



——ありがとうございます。



取材・文:篁五郎

編集部おすすめ