中居正広氏に対する性的接待疑惑に端を発する一連の騒動はなかなか収束の気配を見せない。芸能人の性的スキャンダルが大規模な炎上やスポンサー企業との契約打ち切りなどに発展したことはたびたびあったが、今回は、フジテレビが組織ぐるみで接待を行い、組織をあげて隠蔽しようとしているのではないか、という「フジテレビ問題」へと発展していることがこれまでのものとは決定的に異なる。
当事者たちの間で実際に何があったのかはほとんど明らかになっていないにもかかわらず、フジテレビ攻撃は激しくなっていく。一部のマスコミやネット論客たちには、もはや真相解明など二の次、三の次で、フジテレビの解体を目標にしているとしか思えない論調も見られる。まさに「キャンセル(抹消)・カルチャー」だ。人はどうして「キャンセル」に魅せられ、破壊へと突っ走るのか?
今回の騒ぎが異様なのは、中居氏と被害者とされる女性の間に実際どういうことがあったのか、示談が成立したはずなのにどうして被害者の証言が表に出てきたのか、両者の間に依然として何らかの具体的な紛争があるのか、フジテレビはそれにどのような形で関与していたのかといったことが明らかでないまま、というか、そうした肝心なことの解明にあまり関心が向けられないまま、どんどん話が大きくなり、当事者たちが悪魔化されていったことだ。
中居氏が芸能界を引退することが当然視されるというより、むしろ「逃げた」と結論付けられた。フジテレビの幹部が中居氏の接待のために当該の女性を呼び出したこと、女性をタレントに献上する接待が日枝久フジサンケイグループ代表以下の幹部の意向で恒常的に行われていること、同代表以下の幹部が隠蔽を画策していたことなどが、真相究明を待つまでもなく、確定した事実であるかのように見なされ、その前提で、報いを受けさせるべくマスコミとネットのリンチが進行した。
一月十七日の港浩一社長の会見が、取材を制限し、肝心な質問に答えなかったことが話題になると、フジテレビ自体が組織的に性的接待を女性アナウンサーに強要している、と断定し、フジテレビを解体に追い込もうとする論調が一挙に強まった。トヨタ等の大企業が相次いでCMを取り下げたことで、“フジテレビ解体”を待望する声が高まった。
この間有田芳生議員(立民)や舛添要一元都知事のように、自分も実は中居氏への性接待について聞いていたが、本人のプライバシーに配慮して今まで黙っていた、と便乗して注目されたがる人たちが名乗り出てきた。どうしてそれまで自分で何もしなかったのか? プライバシーに配慮して黙っていたのなら、何故今頃便乗するのか? 本人に許可を取ったのか?
■笑福亭鶴瓶がスシローのHPから削除された!
また、フリーの記者も参加した一月二十七日の記者会見では、質問するのではなく、延々と自説を語る人や、既に他の人が出した同じ質問を繰り返す人、野次る人など、プロとは思えない行動を取る人が少なくなかった。中には、被害者とされる女性の名前を特定しようとする人までいた。
その人たちは、フジテレビ側が、その女性が誰か特定できそうな具体的なことを語ったら、間違いなく、セカンドレイプだと言って騒ぐだろう。
キャンセルはフジテレビだけでなく、そもそも本当に関係あるのか疑わしいところまで飛び火している。問題の接待があったとされる日の数日前に中居氏とのバーベキューに参加していたことから、ヒロミ氏と笑福亭鶴瓶氏も事件に関与していたのではないかとの憶測が生まれ、鶴瓶氏がスシローのHPから削除される、という事態にまで至っている。
企業にとって大事なのは、悪い噂が真実であるかではなく、噂がネットで拡散しているような団体や人物と付き合っている、不誠実な企業だと消費者に思われるかどうかである。近年では、SNSでの炎上が自社にまで影響が及びそうな兆候があると担当者が感じただけで、タレントの契約を打ち切る企業が現れ、それが契約解除の連鎖を引き起こし、その連鎖がSNSでの炎上を増幅させる、というスパイラルが生じることがしばしばある。それが、日本のキャンセル・カルチャーだ。
フジテレビのCMからの撤退については、「フジに真相を明らかにさせる圧力になる」といって擁護する声もある。しかし、先に述べたように、視聴者やSNS論客たちが知りたいことの全てを明らかにできるわけではないし、それが二次被害に繋がる恐れもある。そもそも、企業がフジテレビに真相を明らかにさせるための圧力としてCMを取り下げているという想定が疑わしい。企業が消費者、公衆への説明責任を重視しているのなら、黙ってCMを取り下げるのではなく、フジテレビに何をしてほしいのか明言しているはずだ。
何故はっきり要求を掲げずに、こっそり取り下げるのか? 理由は明らかだ。自分たちの要求する水準でネット民・消費者が満足しなかったら、自分たちに矛先が向かってくる可能性が高い。また、その企業自体のコンプライアンスや危機対応能力への関心が集まり、痛くもない(はずの)腹を探られることになりかねない。目立ってしまって、言質を取られるようなことはせず、他の企業と横並びの反応をするのが無難だ。
■「フジテレビは女性を献上していた」という文春ストーリー
キャンセル運動では、問題の焦点がズレながら、話が大きくなっていく傾向があるが、今回は特にひどい。最初は中居氏個人の悪行に焦点が当たっていたが、文春の記事の影響で、フジテレビは単に環境を整えていただけでなく、自発的に女性を献上していた、というストーリーに変わった。しかし、その後、女性を呼んだのは、フジの幹部ではなく、中居氏本人であった、と文春が訂正を出したため、中居氏個人の責任が再びクローズアップされると共に、肝心な点での誤報に対して謝罪しない文春にも批判が殺到した。対応を間違えると、文春自体がキャンセルの対象になりかねない。
二十七日の“フリーの記者たち”の無法な振る舞いとも相まって、フジテレビに対する同情の声も広がり、キャンセルの勢いは少し弱まったが、依然として、フジテレビ上層部が今回の問題にどのように関与しているかはっきりしないまま、ゴールポストが見えないフジ攻撃が続いている。
文春の誤報によってフジ解体が難しいという雰囲気になったせいか、日枝代表が諸悪の根源であるという前提で、同氏をグループの全ての役職から解任することに照準を合わせる声が目立ってきた。組織自体を潰せないなら、せめて真のドンを生贄にしようとするかのように。そこに、かつてフジテレビの筆頭株主であったニッポン放送を買収することでフジテレビを支配・再編しようとして、日枝氏と争った堀江貴文氏まで介入し、余計にカオスな状況になっている。
何が解明すべき事実であるかブレているにも関わらず、「フジテレビを潰せ」という声がどんどん増幅するこの騒ぎは、ある意味、統一教会騒動に似ている。統一教会問題については、BEST TIMESのいくつかの記事(修正を加えたうえ、拙著『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるか?』に再録)で論じたので、詳しくは繰り返さないが、山上徹也容疑者の安倍晋三元首相殺害は誰のせいか、という話から始まって、教団と自民党の関係、アメリカや韓国の諜報機関との関係、北朝鮮への送金、信者に対するMCをめぐる様々な憶測が飛び交い、解散が当然という流れになった。
実際にどういうことをやっているのか詳しいことは分からないが、あれだけ噂があるのだから、相当ヤバイことをやっているに違いない、という先入観が強く働いているので、何かの“新情報”があるたびに、真偽の確認が全然なされていなくても、新たな炎上の燃料になってしまう構図が似ている。事実と違った報道がなされても、どうせこいつらそれと大して違わないことを散々やってきたのだから、この程度の誤報なんて大したことない、という感覚なのだろう。
フジテレビ自身、統一教会に対してそれを散々やったわけだが。一月二十三日のフジテレビの社員説明会では、このままでは会社が潰れる、子供が虐められる、といった不安の声があがったというが、これは統一教会の信者たちが二二年の秋以降ずっと感じてきたことである。
■テレビ業界が生き残るための生贄と化す〝極めて皮肉な事態〟
真実解明そっちのけで、長年自民党・総務省と結託して日本を影で支配してきた大組織を潰して、すかっとしたいという破壊衝動で多くの人が突き動かされ、異様な盛り上がりを見せるこのキャンセル運動は、ジョルジュ・バタイユの言う「蕩尽」を思わせる。
バタイユによると、将来の生き残りのために、人々の行動を秩序付けて、「労働」する主体へと構成し、労働の成果を「貨幣」や「資本」の形で蓄積するようになった文明社会では、人々の野生の欲望は抑圧され、無害なものに変えられる。人間が動物である以上、労働・蓄積に伴う緊張をどこまでも高めていくのは不可能だ。どこかで、ためこんだエネルギーを放出(蕩尽)しないといけない。原初的な社会では、宗教儀礼がその役割を果たしていたが、宗教の力が弱まった現代社会では、はっきりしたはけ口はない。芸術やエロティシズムが部分的にその役割を果たすが、それだけでは足らなくなる。
「楽しくなければテレビじゃない」の標語の下に、日本社会に溜まっていたものを「蕩尽」させる回路を作ってきたフジテレビが、番組制作(労働)の過程でエロティシズムの暴走(と思われる)問題を引き起こし、自らがテレビ業界が生き残るための生贄と化しているのは、極めて皮肉な事態に思える。
文:仲正昌樹