「これほど文章に傍線の赤を入れた本も珍しい」と、芸界きっての本読みが絶賛するのが、『聖と俗』(KKベストセラーズ)だ。ナンパ論をぶちながら、テレクラ、援助交際を実践、“不適切な社会学者”だった宮台真司氏の半生を、“音でフザけ続けた音楽評論家”近田春夫氏が聞き手として暴き出す。

本書を読んで、この型破りな二人の先生から今もなお学ぶことがあったと、還暦の峠を越えた水道橋博士は書く。博士の書評をBEST T!MESで特別配信する。



■これまでも二人の「先生」から教わってきた



♪ボクの好きな先生、ボクの好きなおじさん~。





 本書を読みながら心の中には忌野清志郎が流れている。



 評者のボクは昭和37年生まれで62歳。漫才師「浅草キッド」の小さい方でキッドを公称しながら既におじさんを通り越した老境だ。



 そして、宮台先生は今年 66 歳、近田さんは74歳になる年長者であり、ボクの先を生きている「先生」そのものなのだ。今までも、そしてこれからの未来も。



 今、世間から見れば、もう3人共にサブカル界の左よりにある「老人ホーム」の仲間のような認識だろう。



 それでも、お二人ともボクが10代の頃から既に学者であり音楽家であり、その仕事ぶりを、テレビやラジオ、活字を通して知っていて、しかも長期間に渡り、お二人の著作もほとんどすべて読み通すほどの熱心な読者でもあった。



 それどころか、ボクが23歳で芸人になって以降は、何度もテレビやラジオ、雑誌や舞台で共演してきた(しかも、お二人は主に司会者のボクから指名したゲスト役が多いハズだ)。



 それほど、二人の先生に直接聞きたいことがあったし、今まで「これが答えだ!」とばかりに数々の真理を教えていただいてきた。





 直接、遭った際の印象的な言葉をあげたい。



 ——過日、宮台先生と赤坂で遭遇したことがある。赤坂プリンスホテルの別棟、貴賓館に「清和会政治勉強会」と書かれた扉から外に出てきた宮台先生に「何故、此処に?」と問うと「ウヨ豚政治家の権力亡者の馬鹿に政策を教えているんだよ」と嘯かれた。





 ——過日。ボクと清水ミチコさんと渋谷のエクセルホテル東急で『婦人公論』の鼎談を終えた近田さんが編集者に「今回の発言で、ボクの時代に添わない、不適切だと思われる発言は何一つ切らなくてもいい。誌面に載ってもボクからは何も文句は言わないから。でも君たちが編集者として立場上、困ることがあるなら自由に切ってくれ!それは君の生き方だから!」と言って立ち去った。



 二人とも去り際の一言だったが、ロックが風に舞うようだった。



 そう言えば、近田さんは前著『調子悪くてあたりまえ~近田春夫自伝』(リトルモア)のなかで——。



「非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つという瞬間こそ『ロックンロール』の醍醐味である。俺は昔からそう定義してきた。パンクやヒップホップに形を変えながら、その精神はずっと受け継がれていったと思うんだ」と書かれていた。



 だからこそ、この対談はアカデミックとロックの共演であるとも言える。



 本書の内容はその近田春夫による「聞き書き・宮台真司一代」だが、想い出に節度がない。自分だけでなく他人の個人情報にも容赦ない姿勢で、驚異的な記憶力で詳らかにされる。日本有数の社会学者の振り返る人生は、微に入り細に入り、血脈の全てを晒けだすことで、固有名詞は湧き上がり、話は脱線し、これが過去を語りつつも同時に今や未来を語る、まるで不朽のSF 語りのようでもあり、時事ネタとしても鮮度を保っている(宮台先生の予測通り、第二次トランプ政権は樹立され、加速主義と共にセカイが壊れていく現在進行系を今、まさに我々は立ち会っているのだから)。



 お二人もボクも、同世代で半世紀を共にしたからこそ、対談がスイングしていて響きと余韻を残し、しかもボクだけに語っているかのように活字から声色が聞こえてくるのだろう。



 これほど文章に傍線の赤を入れた本も珍しいほどに、新事実と思想、慧眼、箴言、警句が語られていく。





■宮台真司は「聖」なる家族に辿り着いた

 ボクほどの熱心なファンでも知らなかった事実も開陳される。



 特に序章の、一昨年に起こった「切りつけ事件」~宮台氏の大学構内暴漢殺人未遂事件~の詳細は改めて戦慄が走るし、「朝まで生テレビ」での「宮台 vs 出演者全員」があらかじめ決められた筋書きだった話は痺れた。またテレビを完全引退しTBSラジオだけを23年間続け、一貫として人間の性愛を称賛し、人間の老化による右傾クズ化を罵倒するスタイルを崩さなかったことも。



 宮台氏は、ナンパ、テレクラ、援助交際、スワッピングや色街を自ら実体験——学者としては「俗」過ぎるフィールドワークで「朝生」出演の 90 年代にテレビ出演した異端の学者——として世間に知られたと思うが、経年と共に「政から性へ」から「性から聖へ」のシフトを経て、ここまで「聖」なる家族と子育てぶりの領域に辿り着いていることは世間に知られてこなかったと思う。(赤裸々に自分を晒しながらも、一つだけ疑問はある。2024 年の教え子との不倫事件には本書で言及しなかったは、あまりにも「俗」すぎて「聖」なる娘には忖度されたのだろうと解釈するしかないのだが……)



 宮台先生があとがきで語られる一節。



「映画批評のキーフレーズは25年間変わらず、『ここではないどこか』『どこかに行けそうで、どこへも行けない~』」



 ここでボクがあえて「あとがき」をそのまま引用するほど的を射ており、もはや「これでいいのだ!!」であり、もはや書評は無用だと思えた。



 ボク自身が10代の頃の「終わらない日常」から飛び出し、芸人として、時には政治家にまでなりすまし、「人生は舞台、あなたが主役」であり「自分の生を生きている」実感とは、この一節で簡略に説明できるとさえ思っている。



 いやむしろ「学術」「人文」という人類の叡智に用があると思う人、本を読むことが生涯の習性である人には、これは共通した認識だと思う。



 不真面目なオフザケオジサンの印象しかないお二人から、今更ながら「優しさ」「誠実」「真面目」さが学べるとは意外すぎる読後感であった。



 お二人が学んだことは、教科書には書いていない。



 ボクは思春期以降に学校で習ったことは社会では何一つ使えないと思って生きてきた。



 しかし、人生のサイドロードで出会う、出会うべき「本」は違う。





 60年代に生まれた、ひとりの社会学者が人生を賭して脳内に蓄積してきた知識の体系は、一冊の本によって時間を超えて全てを読者が譲り受けることが出来るのだ。



文:水道橋博士



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