子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【7冊目】「『モノ・マガジン』という発明」をどうぞ。





【7冊目】『モノ・マガジン』という発明

 



 時に1988年。そこしか内定取れなかったので選択の余地なく就職した教材系出版社を10カ月で辞めて、新聞に求人の出ていた編プロに転職した。新卒で入った会社を10カ月で辞めるような人間を、よく採用してくれたものだと思う。まあ、その分若かったし、編プロ的には「東大卒」の肩書が珍しく「とりあえず採っとくか」と思ったのかもしれない。



 その編プロは、主に『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス)の特集や別冊を請け負っていた。中途採用であるからして、当然すぐさま現場に投入される。最初にやった仕事は『モノ・ビジネス』という別冊のワープロ性能比較表の作成だ。スマホでもパソコンでもなくワープロというところが時代を感じさせる。資料を基にスペックをまとめただけだったが、自分の作ったものが初めて雑誌に載った喜びは格別だった。



 『モノ・マガジン』本誌の仕事をしたのは、1988年5月2日号の特集「ワープロ進化論」が最初だったと思う。ワープロ特集が重なったのはたまたまだが、自分自身すでにワープロユーザーだったので、内容的にはやりやすかった。猪瀬直樹、富野喜幸(現・由悠季)、渡辺えり子(現・えり)といった、当時はまだそれほど多くなかったワープロ愛用の著名人を取材した記憶がある。



 同年12月2日号では特集丸ごと担当した。題して「カード大作戦」。クレジットカードを中心に、当時全盛だったテレフォンカードなどのプリペイドカード、各種会員カード、カード電卓やカードラジオ、カード文具などを、いろんな切り口で紹介する。旅行やドライブ、ショッピング、エンタメなどシチュエーション別のカード利用法をストーリー仕立てで見せるページでは、わざわざ外国人モデルを使ったイメージ写真を撮ったりもした。いろんなカードを拡大カラーコピーして、これまた当時流行のシステム手帳のリフィルに見立てた表紙写真は、我ながらナイスアイデアだったと思う。







  実はこの1988年は、モノ情報誌創刊ラッシュの年でもあった。世はまさに右肩上がりのバブル景気真っ只中。新製品を出せば売れるし広告もバンバン入る。そんな時代の波に乗って、『Vice』(近代映画社)、『ビーツール』(ナツメ出版企画)、『グッズプレス』(徳間書店)、『ビギン』(世界文化社)、『ギア・マガジン』(学習研究社)といった雑誌が相次いで登場。『ビーツール』は文房具専門、『Vice』はエンタメやホビーに軸足を置いていたが、『グッズプレス』『ビギン』『ギア・マガジン』の3誌は『モノ・マガジン』と同じ市場を狙っていたと思われる。



 



 『ギア・マガジン』はタイトルからして似ているし、誌面の構成やデザインも似通っていた。『グッズプレス』はサブタイトルが「世界のモノ情報」で「モノ」に「MONO」と(『モノ・マガジン』の略称を思わせる)ルビを振り、「日本一のモノ情報量で創刊」と謳っているあたりに『モノ・マガジン』への対抗心がうかがわれる。

『ビギン』は、のちに『レオン』を創刊する岸田“ちょいワル”一郎氏が編集長を務めただけあって、物欲と性欲が拮抗している。創刊号の特集は「いますぐ『欲しい』『したい』ハイパーインデックス108」と題して108の煩悩をピックアップ。その中には「女のコが多いツアーに参加したい」「リゾートで確実に女のコをモノにしたい」なんてのもあった。2号目の特集は「ヤルぞ!クリスマス」。『モノ・マガジン』より『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』をめざしていたのかもしれない。







 一方、『モノ・マガジン』の創刊は1982年。「欲しいものを発見できるスーパーグッズマガジン」というのが当初のキャッチコピーだった。創刊号の特集は「NASAスピンオフ」と、いきなりマニアック。が、それが同誌の特色でもあった。ミリタリーやアウトドア、ヘビーデューティ系グッズを積極的に扱う。ハイテクメカも大好きで、2号目の特集「アメリカ日用雑貨」のようにアメリカ文化への憧れも強い(そのへんはおそらくベトナム戦争の従軍カメラマンだったという噂の社長の趣味だろう)。



 もうひとつの特色は「モノ・メールオーダー」というコーナーを設け、おすすめの品を通販で買えるようにした点だ。

のちに「モノ・ショップ」という実店舗も展開。1988年の時点では銀座、上野、静岡、名古屋の4店舗を抱えていた。今もウェブショップがあるが、誌面でプッシュした品を自社の通販や店舗で販売するという一石二鳥のアイデアには感心した。その手法でMA-1などのフライトジャケットを流行らせたのも(映画『トップガン』の影響はあったにせよ)『モノ・マガジン』である。



 同誌が初めてフライトジャケットの大特集を組んだのは1987年12月2日号。その前号で創刊以来の平綴じ・月刊から中綴じ・月2回刊(「情報号」「特集号」と区別しているが違いはよくわからない)にリニューアルしており、フライトジャケット人気も相まって一気に雑誌としてのメジャー感が出た。



 真偽のほどは定かでないが、編集部の先輩に聞いて「なるほど」と思ったのは『モノ・マガジン』創刊にまつわる裏話だ。出版社には、いろんなメーカーから新製品のプレスリリースが大量に届く。その情報はもちろん無料である。じゃあ、それで雑誌を作ってしまえばいいじゃないか――というのがそもそもの発想だったという。



 新製品を紹介する記事はそれまでの雑誌でもあったし、カタログ的雑誌の源流には伝説のムック『Made in U.S.A. catalog』(読売新聞社/1975年)の存在があるが、新製品情報“だけ”で雑誌を作るというのは画期的だった。それはひとつの発明と言っていいだろう。

 



 その象徴が「ホットライン」という情報ページだ。「乗り物」「家電製品」「オーディオ&ビデオ」「光学製品」「食品」「衣料」「家庭雑貨」「インテリア&家具」「ホビー」「楽器」など16ジャンルの新製品をリリースの情報と広報写真で紹介する。創刊号では扉含めて59ページで、実に全体の約4割。88年当時でも33ページが割かれていた。担当者にとっては面倒くさく退屈なページだが、コスパは非常にいい(現在の誌面には存在せず)。







  とはいえ、さすがにそれだけでは雑誌は成立しない。ただ新製品を紹介するだけでなく、ブランドヒストリーや開発秘話などのウンチク、著名人のエッセイ、インタビューなどで読者の興味を引く。特集自体の切り口も「小金持ちの小利口家電」(1989年3月2日号)、「次に買う時計」(同4月2日号)など、ひねりを利かす。カメラ特集(1990年3月16日号)では「人間活劇、まる撮り写真機」と題して、安珠、一色一成、沢渡朔、立木義浩、林忠彦、リウミセキといった有名写真家による撮り下ろしセルフポートレートを掲載。今見ると、いや、当時としてもめちゃ贅沢な企画である。



 



 さらに「モノ・コラム」「モノ・インタレスティング」などの読み物ページも、なかなかの充実ぶりだった。当時の執筆者をざっと挙げると、山崎浩一、寺崎央、押切伸一、渡邊祐、みうらじゅん、まついなつき……って、ほとんど『宝島』かというメンツである。

今もそうだが、人気の書き手は、いろんな雑誌で引っ張りだこなのだ。小説家デビュー前の奥田英朗による微苦笑エッセイ「モノモノしい話」は長期連載で、人気作家になったあともしばらく続いていた。



 さて、私のほうはといえば、前述の「ワープロ進化論」「カード大作戦」のほか2~3の小特集を担当したあと、『ガジェット・モノ腕時計'89』という別冊を、ほぼ一冊丸ごと任された。「人生で一番キツかった仕事は?」と問われれば、まずコレを挙げる。



 巻頭特集は「マスターピースウオッチ」。アンティークを中心に40本ほどの腕時計を撮影する。類似誌とは一線を画す『モノ・マガジン』の強みとして、商品を(それこそ実物以上に)美しく魅力的に見せる写真のクオリティがあった。が、そういう撮影には時間がかかるわけで、このとき最初の1カットの照明を決めるのに8時間近くを要した。



 なんでそんなにかかるのか、と思われるかもしれないが、ゴールドの時計(しかもアンティークなので細かい傷がある)を本当に艶っぽく撮るのはそう簡単ではない。当時はデジタルではなくフィルムなので、いちいちポラロイドで写り具合を確認しながらの撮影となり、それも時間がかかる要因のひとつ。一度照明が決まってしまえば、あとはそれほどでもないとはいえ、カラフルな小物と絡めたパターン、暗闇に浮かび上がるパターン、明るい光の中のパターンとページ構成上変化を付けた3つのパターンで「これだ!」というカットを40以上も撮るのは、いかに腕利きのカメラマンでも大変なのだ。







 午前中に撮影用の時計を借り出し、午後からスタジオにこもって撮影。

その合間に翌日以降の借り出しや取材の手配、原稿依頼などをして、深夜に編集部に戻り原稿を書く。翌日も午前中に駆り出しと返却、午後から撮影(以下同)というのが2週間ぐらい続いた。



  それだけでも難儀だが、借り出す時計の中には時価数千万円のものもあり、傷つけたらどうしよう、落としたり盗まれたらどうしようと思うと気が休まらない。会社に金庫はあるものの深夜に帰ると開けられる人がいないので、家賃6万3000円の自宅アパートに持ち帰るしかなく、これまた心労のタネとなる。特集の撮影が終わっても、いざ入稿が始まるとますます作業量は増えて、1週間トータルで10時間寝られないのが3週間続き、歩きながら寝落ちしたこともあった。



  そんな過酷な状況ではあったが、何しろ若かったので、どうにか乗り切れた。今どき“若い頃の大変だった自慢”が流行らないのは百も承知だが、このときの経験があったから、その後の修羅場も「アレに比べればマシ」と思えたのは確かである。体力的にはキツかったものの、自分の好きな人に取材したり原稿を依頼することができて、その点はうれしかった。というより、それこそが編集者の醍醐味であり役得であろう。



 この別冊のあと、編プロからワールドフォトプレスに正式に移籍。『モノ・マガジン』通巻150号記念(1989年11月2日号)で同誌の歴史と世相を振り返る巻末企画129ページ分を担当した。そこで『モノ・マガジン』からは離れ、リニューアルした『SPY』1990年1月号から同誌編集部に籍を置くことになるのだが、それはまた別の話。



 



 『Made in U.S.A. catalog』に端を発し『ポパイ』へと継承されるカタログ的雑誌はオシャレとモテ(女子ウケ)を旨としていたが、『モノ・マガジン』はそうではなかった。創刊当初のミリタリー、ヘビーデューティ系から、90年代のコレクターズアイテム路線を経て、2000年代以降のホビー、マンガ、特撮への傾倒まで、ジャンルが違うだけで基本的にオタクの世界である。ある意味、時代の変化には強い。



 1988年に創刊された類似誌のうち『Vice』は89年、『ビーツール』は92年、『ギア・マガジン』は93年にあえなく休刊。しかし、『グッズプレス』と『ビギン』は生き残っているし、『GetNavi』(ワン・パブリッシング/1999年創刊)、『MONOQLO』(晋遊舎/2009年創刊)といった新規参入のモノ情報誌も健在だ。ビジネス寄りで傾向は違うが『ダイム』(小学館/1986年創刊)も独自のポジションをキープしている。



 そして、『モノ・マガジン』も月2回刊で刊行中だ。「ゴジラだ!ガメラだ!ウルトラだ!超大怪獣の世界」(2023年3月16日号)、「円谷プロ60周年大特集」(同11月16日号)などの号は、つい買ってしまった。本稿執筆時点の最新号「ラジオ100周年」(2025年2月16日号)も買ってみた。誌面のにぎやかさやウンチクの豊富さは昔と変わらない。ただ、手間ヒマかけたブツ撮り写真がないのと、コラムやエッセイの読み物ページがないのは、経費節減の折からやむを得ないとはいえ、ちょっと残念。



 仕事をしたのは短期間だったが、編集者としての第一歩を踏み出した雑誌であり、それなりの愛着はある。「ラジオ100周年」の号が953号なので、あと2年ほどで1000号になるはず。記念の特大号が出たらたぶん買います。





文:新保信長

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