華やかなイメージもあるIT企業だが、心を病んでしまう人の話をよく見聞きする。厚生労働省の「令和4年労働安全衛生調査(実態調査)」によると、メンタル不調により1カ月以上の休業を余儀なくされた人の割合は、情報通信業が17業界中ワースト1位。

令和3年をのぞき過去10年以上、同じ状況が続いている。また、休職後に退職した人の数も多い。当事者の語りから、その原因を探る。今回話を聞いたのは、IT企業を都合3社退社したウェブ編集者・上田亮太さん(仮名・38歳)。



 いまアメリカの国政にまで入り込んでいるイーロン・マスク。X(旧ツイッター)の買収など、事業を強烈に推進させる一方、部下には異常な長時間労働や生産性やノルマを突きつけ、水準に達しなければ容赦ない叱責を浴びせる。



 マスクほどアクが強くないにせよ、日本のIT企業にも、同じようなカリスマ社長がいるようだ。従業員に強いプレッシャーをかけ、何も知らない若手社員を自分色に染め、異様な社風を作り上げる。そしてそこに君臨するトップは“教祖”として崇められる。上田さんは、そんな会社を数社経験してきた。



■入社早々、年下上司からのダメ出し

 3社目の大手toCメディア企業・C社の経験を中心に聞いてみる。



「上田さん、うちの“バリュー”に沿った行動をしてくださいよ」



 上田さんは、C社に入社早々6歳年下の女性上司からこうダメ出しを受けた。

どうやらチャットツールでDMを送ったのが気に触ったらしい。アルバイト社員へのちょっとした指示だったが、上司はそれを公開チャンネルに書くように求めてきた。



 バリューとは、要は行動規範のようなものだ。横文字は耳障りもいいので、昨今のIT企業はこぞってHPに「弊社のバリュー、そしてミッション、ビジョンは…」などとカッコつけて書いてあるが、中身はないことが多い。



 そのC社では、「コミュニケーションはオープンにしよう」というバリューが掲げられていた。ということで、なんでもかんでもオープンチャンネルでメッセージを飛ばすことがルールになっていたのだ。



 入社して間もない上田さんは、そのルールを知らなかった。部署のオープンチャンネルは明らかに情報が渋滞していた。DMの方が、関係ない人のノイズにならないのでは? そう考えてDMを使った。しかし、件の上司はそんな想像力も働かず、ただ口を尖らせるばかり。



 温厚な上田さんもブチギレ寸前だったようだ。



「正直はらわたが煮えくり返りました。

年下のクセに!って(笑)。まあその時は我慢しましたけど」





■宗教の教義と化した「バリュー」

 上司としては悪気はなく、逆にいいことをした、とさえ思っているのかもしれない。会社が大事にしているバリューに沿って、必要なフィードバックをしたのだと。



 上田さんはC社を「まるで宗教組織でしたね」と振り返る。



 C社の社内には、企業バリューすなわち教義を書いた紙があちこちに張ってあるそうだ。IT企業なのに、こんなところはアナログだ。これを朝礼や会議のたびに、スローガンのように読み合わせて、脳内に刷り込んでいく。その読み合わせは、入社1年目の社員に任されていたという。



 新卒社員は布教者となり、布教の過程でさらに会社色に染まっていく。「私はイケてるIT企業で働いているんだ」「社長はその会社を創ったカリスマ!社長の教えこそが至高!」と思い込んでしまうのだろう。



 そして“教祖”たる社長はますます神格化し、その言葉が絶対となっていく。



「カリスマ社長と、その人を信奉する社員で固められる構図が、IT企業、とくにぼくが在籍してきたベンチャーには多かれ少なかれあると思います。

トップダウンで降りてくる“教え”を受け入れられるかどうかですね。ぼくには無理でしたけど…」



 C社には「ハードワークせよ」というバリューもあった。



「毎月100時間ぐらい残業しようね、そうしないと仕事なんてうまくできるようにならない、成長しないよ」こうささやき、残業への抵抗がなくなるよう洗脳していたという。



 上田さん自身も、仕事が終わるのは、毎日22時~23時。自宅に着くのは24時前という日々だった。





■30代でも「年齢が年齢」という組織

 正気の社員は次々に会社を去っていく。



「あまりにも社員が辞めるので、何人辞めたか数えてみたことがあったんです。僕がいたときは、1年で50人は辞めていましたね」



 毎日の長時間労働だけでもハード。それに加え、上田さんは会社から求められるものも多かった。



「年齢が年齢なので、若い子と一緒のチームでは、彼らを率いるリーダーとしての役割が期待されていたんです。にもかかわらず、それができていないというフィードバックを、期末評価のたびに受けていました」



 上田さんはまだ30代。世間一般の会社ではじゅうぶん若手だが、キャリアの浅い20代の若手社員が多いC社の中ではベテラン格だったのだ。



 恐らく上田さんは、夜遅くまで若手と付き合い、その動きを会社にアピールすることが求められていたのだろう。しかし上田さんには家庭もあり、それは難しい。



 このままC社で働いていても、やがて自分は「会社の方針に従わない、目の上のたんこぶ」扱い。素直にバリューを受け入れ、残業を喜んでする新卒社員の方が引き上げられるのだろう——。この場所で働いた先の未来に、悲観的なイメージしか描けなくなっていた上田さんは、心の袋小路に追い込まれていった。そして、



「頭痛や吐き気が頻繁に起こり、朝起きられなくなっていきました。そして、心療内科に行くと『中程度のうつ病』と診断されたんです。でも、小さな子どももいるので会社を辞めるわけにもいきません。薬を飲みながら、だましだまし仕事を続けていました」



 仕事の愚痴を言える相手がいなかったのもつらかった。



「以前の職場は、ハードながらも同僚と飲みに行って仕事の愚痴を言うことができました。でも、C社では20代の若者に『おじさん、大変なんだよ』と言ってもしょうがないよねって思ってしまったんです」



 20代の社員の一部はサークル感覚でつるんでおり、仲間意識が仕事の活力にもなっていたようだ。しかし、30代・家庭持ちの上田さんは、そのノリにもついていけない。





カリスマ社長が率いる会社は「まるで宗教組織」IT企業3社を去...の画像はこちら >>





■IT企業で働いた負の遺産が積み重なった

 結局、上田さんは出社が難しくなり、リモートワークの勤務に切り替えてもらった。これを機に転職活動を始め、現在の会社に入社することができた。



 しかし、入社しばらくはメンタル疾患がまだ治っていなかった。定期的に起こる抑うつ症状に加え、度重なるミスに悩まされるようになっていく。



「ライターさんから上がってきた原稿チェックで、誤字脱字の見落としがとても多くなっていきました」



 責任感の強い上田さんは、そんな自分にふがいなさを感じて落ち込んだはずだ。職場の理解もあり、一時休職をさせてもらった。



「今までとにかく仕事しなきゃと思って生きてきたのですが、仕事のことを考えずに一度リセットすることが必要だと思いました」



 責任を負わされ、人間性を削って会社のやり方に合わせる働き方を何年も強いられてきた上田さん。2社目の大手ITプラットフォーム企業・B社での負担も大きかったようだ。創業社長のカリスマによるトップダウンのやり方で、社員が疲弊し、ボロボロと人が辞めていくという構図はC社と全く同じ。ここはとくに辞める速さが凄まじかったという。



「人が次々に“飛ぶ”んですよね(笑)」



 飛ぶとは、まるで人が物体かのような響きだが、朝にニコニコ顔で挨拶してきた新人が、昼休みに行ったきり戻ってこなくなるようなことは日常茶飯事だったとか。



 B社の特徴としては、徹底的な管理体制があげられる。

日々の業務をすべてシステムに記録し、その進捗度を上司や社長が常時監視する。チェックの仕方も、仕事の中身ではなく、とにかく制限時間内に終わったのかどうかを確認するといったもの。



「この会社では面白い企画も担当させてもらいましたけど、やっぱり合わなくて。中身にこだわる、いわゆる編集者魂みたいなものはまったく評価されない会社でした」



 上田さんの柔らかな感受性を、無理やり企業のカタチに押し込まれるのはつらかったことだろう。



 時間軸を戻そう。



 D社では主治医に書いてもらった診断書を持っていって上司に相談すると、3 カ月の休職期間をもらうことができた。休職期間を経て、上田さんは無理なく働けるポジションに戻ったあと、現在は充実した仕事生活を送っている。





■人間の尊重と事業の成功は、相容れないのか?

 現職も含めIT企業を4社経験した上田さんに、なぜIT企業では心を病んでしまう人が多いのか? あらためて聞いてみた。



「IT企業はスピードが命なんですよ。カリスマ社長がいる会社は、大企業が決済を降りるのを待っている間に、社長のひと声で即断即決ができます。そして従業員は、とにかく早く仕事を回していくことが重要視される。それについていけない社員は、置き去りにされて戦力外通告を受けることになると思うんです……」



 B社では、社長と社員の距離も近かったという。ともに会社の未来を語り合った社員が、次々と背を向けて去っていくことについてかの社長の心は痛まないのだろうか、と素朴な疑問である。



「効率化にこだわることは、事業を進めていくためにある程度仕方ないと思っていたのでしょう。辞めていく人の意見を逐一聞くより、企業文化に順応してくれる社員で仕事を回していく方が、コスパがいい……っていうか、早いので」



 ブルドーザーのごとく事業を推進していくカリスマ社長の影で、上田さんのようにうつ病に追い込まれる社員が後を絶たない。



 人間は体や心が元気だからこそ、最大限の力を発揮できる。誰もが信じるであろう“お天道様の教え”のうえに、事業の成長は成り立たないのであろうか。



取材・文:北野哲

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