子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【10冊目】「東京には(空はなくても)『ぴあ』があった」をどうぞ。





 



【10冊目】東京には(空はなくても)『ぴあ』があった

 



 1983年3月末、大学進学のため大阪から東京に移り住んだ。最初に住んだのは小田急線・経堂駅から徒歩15分ほどのコーポ。自分で選んだのではなく、すでに前年から東京で教職に就いていた姉との同居である。振り分け型2DKの居室のひとつが私の部屋として用意されていた。おかげで入試の際もホテルを取る必要はなく、その部屋に泊まったわけだが、合格したからいいようなものの落ちたらまた1年、空き部屋にムダな家賃を(親が)払うことになる。それはそれでプレッシャーではあった。



 ともあれ、無事合格して東京での新生活が始まった。右も左もわからない東京で、まず必要なのは路線図と地図である。今ならスマホがあればどうにかなるが、当時はまだそんな気の利いたものはない。そこで買ったのがポケット版の23区地図(たぶん昭文社)と、『ぴあMAP』だった。最初に出たのは1982年。その後毎年更新され、年度版として発売された。

私が買ったのは『ぴあMAP'83』ということになる。一般的な地図と違って、映画館やホール、ライブハウスなどがひと目でわかるようデザインされていて、とても重宝した。



 もちろん、『ぴあ』本誌もソッコーで買った。最初に手にしたのは、おそらく3月25日号である。いや、号数を覚えているわけではない。『ぴあ』最終号(2011年8月4・18日合併号)に掲載された表紙一覧で、「これ、見覚えある!」となったのが、映画『トッツィー』の女装したダスティン・ホフマンのイラストが表紙の号からだったのだ。その『ぴあ』でチェックして、東京で初めて見た映画は『病院狂時代』と『ニッケルオデオン』の2本立て。場所はテアトル新宿だった。見た映画のタイトル、日付、場所は中3のときからずっと記録しているので、これは間違いない。







 



 【2冊目】で書いたように、大阪には『プレイガイドジャーナル』と『Lマガジン』があり、私は断然『プガジャ』派だった。東京にも『ぴあ』のライバル誌として『シティロード』があり、雑誌の立ち位置や誌面の雰囲気からして、『プガジャ』派であれば本来は『シティロード』を買うのが順当だったと思う。が、当時の私は『ぴあ』は知っていても『シティロード』は存在すら知らなかった。

「東京には『ぴあ』というのがあるらしい」という情報だけを頼りに、まず『ぴあ』を買ったのだ。



『ぴあ』は1972年の創刊。『シティロード』は『プレイガイドジャーナル』と同じく71年創刊なので、むしろ元祖である。当時の『ぴあ』が隔週刊で200円だったのに対し、『シティロード』は月刊で180円と財布にも優しい。しかし、市場的にはたぶん『ぴあ』が優勢だったと思われる。具体的な部数はわからないが、少なくとも私の立ち回り先の書店で目につき、手に取りやすいのは『ぴあ』だった。



 理由のひとつは、やはり表紙のわかりやすさだろう。『ぴあ』の表紙は1975年9月号以来、ずっと及川正通のイラストだった。話題の映画やミュージシャン、アイドルを題材としたリアルながらデフォルメされた特徴的なイラストは、ひと目で『ぴあ』と認識させる。「表紙は雑誌の顔」とよく言うが、まさに“『ぴあ』の顔”だった。前述のように、自分が買い始めた号を特定できたのも表紙イラストのおかげである。



  



 対する『シティロード』も表紙は旬の映画の主演俳優などのイラストで、たとえば1983年3月号は『評決』のポール・ニューマンだ。

イラストレーターは勢克史。もちろん達者な筆なのだが、達者すぎるというか号によってタッチが変わったりして、イメージがいまひとつ固定されない。1984年4月号からは、黒鉄ヒロシに交代し、ついでにロゴも判型も変わった。その後もロゴ、判型、デザインが何度も変わり、表紙もイラストから写真に変わったりで、どうも落ち着きがない。結局、1992年に休刊、エコー企画から西アドに版元が変わって再出発したものの、94年を最後に姿を消してしまった。







 



  今回あらためて当時の『シティロード』を見てみると、インタビュー記事や名物の「ロードショー星取表」など、読みごたえは確かにある。「[変貌する映画環境]~上板東映の終焉から西武資本の映画進出~」(1984年4月号)なんて硬派な記事もあり、無記名のロードショー作品紹介も書き手の独断と偏見に満ちて面白い。『ぴあ』では〈いかにもアメリカらしい主人公のサクセス・ストーリーは、日本でも若者たちの共感を呼び、現在大ヒット中〉と紹介する『愛と青春の旅だち』を、〈やっぱ、なんですね、フツーの人ってのは、こういうそこそこ新しくて、根っ子はしっかり古いメロドラマが、安心してみられるんでしょうね〉と書いちゃうのが『シティロード』。先に知ってればこっちを買ったかもしれないが、いかんせん最初に手にしたのが『ぴあ』だったからしょうがない。ヒヨコの刷り込みのようなもので、『ぴあ』を買い続けることになったのだった。



 とはいえ、『ぴあ』が無味無臭だったかというと、そうでもない。「特集PFF TIMES VOL.2」(1983年3月25日号)では、ハリウッド映画全盛の時代に東南アジア、オーストラリア、ブラジル、アフリカなどの作品と人気スターを紹介している。

〈まず、世界一の映画生産国はインドなのだ〉というのも今では常識だが、当時はほとんど知られていなかったに違いない。〈恋愛映画全盛のインドでは最近になって軽いキスならOKとなったが、体の線が出る水着姿があれば、もう成人指定〉など、各国の性描写事情に触れた記事もある。



 巻頭の「PIA NEWS NETWORK」も映画、演劇、音楽、美術の最新情報がぎっしり。1983年4月8日号には「'83音楽シーンに春の嵐!? 動き出したYMO」と題してメンバー3人のインタビューや活動年表が載っている。同じ号には「これでいいのか? 洋画配給・興行の現状」なんて記事もあり、「国立劇場の素顔、40億円の文化とは?」(同年4月22日号)では、2025年現在、建て替え問題で揺れる国立劇場の予算内訳や動員内容に斬り込む。ボリュームこそ多くはないが、それなりに読みごたえのあるページはあったのだ。



 読者同士の熱い議論が交わされたり、編集部への厳しい意見が載ったりする『プガジャ』や『シティロード』のそれに比べればおとなしめではあったが、読者投稿コーナーもしっかり確保されていた。題して「YouとPia」。言うまでもなく「あなたとぴあ」と「ユートピア」を掛けたネーミングだ。



 NHKの少年ドラマシリーズについての投稿を見て〈とってもうれしくなってペンをとりました〉と自分の思い出を綴り、〈今度はNHK宛に書こうと思います。これを見た誰かが、またNHKに手紙を書いてくれたら…と思います。そうしたら、いつか再放送が実現するかも知れないですよ〉と呼びかける人がいれば、アニメ『クラッシャージョウ』を見に行ったら〈上映中にシャッター音をさせている奴が、なんと2人もいた〉と憤慨する投稿も。

今なら映画泥棒として逮捕されるが、当時はいろいろゆるかったのだ。



 



 そして何より、『ぴあ』といえば「はみだしYouとPia」である。ページの端の余白に設けられたネタ投稿コーナーは、ハガキ職人たちの活躍の場となり人気を呼んだ。前述の“マイ・ファースト・ぴあ”1983年3月25日号には、こんなネタが載っていた。 





意外なそっくりさん、リーリンチェイと大竹しのぶ。〈よろしかったら石神左重子〉



うちの大学では、これ見よがしにTURBOと書いた車に乗ってくる人を「つるぼ族」と呼びます。〈前田のクラッカー〉



突然ですが、はみだしに自分の作品が載ると、そのページだけがやけに汚れたり、しわくちゃになったりしませんか?〈法水麟太郎と今宿村管弦楽団の皆さん〉





 念のため言っておくと、〈 〉内は投稿者のペンネームだ。常連投稿者も何人かいて、そのペンネームを見るたび、「あ、また載ってる」と思ったものである。このコーナーがどれだけ人気だったかというと、『はみだし天国』というタイトルで単行本化されたぐらい。いや、その前に『はみだしキャンディ』という千歳飴みたいなサイズ感の珍本も出ていて、あれはたぶん出版史上最も細長い本だったろう。







 



 掛尾良夫『『ぴあ』の時代』(小学館文庫/2013年)によれば、創業者の矢内博が〈どこの映画館でどんな作品を上映しているか、そこへ行く道順が誰でもわかるように書かれていたら、どれほど便利だろうか〉という思いからスタートしたのが『ぴあ』だった。学生ベンチャーとして始まり、自前配本から取次配本に切り替えたのが1976年。

そのときのエピソードが痛快だ。どの書店に何部入れるか、『GORO』(小学館が74年に創刊した男性ビジュアル娯楽誌)を参考にした数字を提示した取次担当者に「それは類似誌ではないから参考にならない。僕たちの資料を全部見せるから、それで決めてください。『ぴあ』の返品率は5%以下ですよ」と食い下がったというのである。



 返品率5%というのは、現在はもちろん当時でもなかなかない数字だろう。〈たとえば70部置いている書店が69冊売って、次号は75冊欲しいと言っても、70冊しか渡さなかった。70冊完売して初めて75冊渡した〉という配本戦略があったにしても、飛ぶように売れていたことは間違いない。売れている雑誌には広告も入る。



 そして1979年10月12日号をもって、それまで月刊だった『ぴあ』は隔週刊化を果たす。速報性では当然、月刊より隔週刊のほうが優るわけだが、その分、制作コストは倍になるし、1号当たりの部数や広告収入も減る可能性がある。が、フタを開けてみれば〈部数は落ちることなく、広告に至っては、ほぼ倍増となった〉という。



 ちなみに、このとき『シティロード』も負けてはならじと隔週刊化したが、読者には不評だった。隔週刊後の投稿欄は〈情報のスパンが短くなり不便〉〈月2回の出費が痛い〉といった批判意見で埋まる。コストや制作体制の面でも厳しいものはあっただろう。結果的にはわずか3カ月で月刊に戻すこととなり、『ぴあ』とはっきり明暗が分かれた。



 1979年に隔週刊化してから1990年に週刊化するまで、つまり80年代は『ぴあ』の時代だったと言っていい。その間の『ぴあ』の動きを追ってみると、時代の最先端でエンタメ情報を発信していたことが如実にわかる。



 



 1980年12月、いち早くコンピュータ編集スタート。82年3月、『ぴあMAP』発売。83年10月には「チケットぴあ」テスト販売を開始、翌年4月より本格運営。85年の『ぴあ関西版』創刊に続き、翌86年には関西地区でも「チケットぴあ」をスタートする。87年6月に映画のデータベース『ぴあシネマクラブ』創刊。同年7月には飲食店カタログ『ぴあmapグルメ』を発売。12月には『TVぴあ』も創刊した。88年4月、汐留にロック専用シアター「PIT」オープン。9月には『ぴあ中部版』創刊。そして1990年11月の週刊化を迎える。



 しかし、この週刊化は攻めの姿勢からのものではなかった。同年に週刊のエリア情報誌『Tokyo Walker』(角川書店)が登場したのに合わせての措置だったのだ。これは『ぴあ』が隔週刊化した際に『シティロード』が追随したのと同じ構図である。



 情報を取捨選択し特集で興味を引く『Tokyo Walker』は週刊でも(号によって買ったり買わなかったりという層も含め)読者はついてきたが、網羅的な情報を詰め込む『ぴあ』に週刊という刊行スパンは必ずしも向いていなかった。ろくにチェックしないうちに次号が出てしまう。どうせすぐ次の号が出るしな……と思うと買う気も失せる。私もそれで買うのをやめてしまったクチだが、そういう人は少なくなかったのではないか。また、この頃になると、網羅的な情報よりもあらかじめ選別されパッケージ化された情報のほうが面倒くさくなくていい、と感じる読者が増えてきたということもあるかもしれない。果たして90年代は『Tokyo Walker』の時代となった。



 が、『Tokyo Walker』も今はもうない。『Tokyo Walker』がまだ『ジパング』と呼ばれていた頃に少し仕事をしたこともあるが、それもすでに忘却の彼方。この手の情報誌はインターネットの登場で完全に役割を終えた。しかし、雑誌の『ぴあ』はなくなっても、「チケットぴあ」はエンタメ界で不動のポジションにあるわけで、その先見の明には頭が下がる。願わくば、人気チケット発売日にアクセスできなくなるのを何とかしてほしい、とは思う。



 



文:新保信長 

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