■タブレットで子どもを管理できるという思い上がり



 「子どもの自殺が深刻になり、国は23年6月に対策の強化策を公表した。柱の一つがコロナ禍を経て小中学校に一人一台行き渡ったタブレット端末の活用だ。

気持ちの変化やいじめの有無を定期的に入力してもらい、なるべく早くリスクを把握する狙いがある」



 これが日本経済新聞に掲載された記事の一部である。



 私は、この記事を一読した後に、「ここでまたタブレットに頼るのか」と情けなくなった。そればかりか、時間が経つにしたがって憤りさえ湧き上がってきた。これは大袈裟でも何でもない。私の素直な心情に他ならない。教育現場で日々目の当たりにしているのだが、確かにタブレットは使い方次第ではとても便利で役に立つ。それでも、タブレットへの依存が大きくなり過ぎると、子どもや教師は、それなしでは先に進めない状況に陥ってしまう様子を、何度か見てきた。



 教師も子どもも、タブレットの功罪を十分に学ぶ時間もないまま、ただただ学習の充実という名目と見栄えの良さ(やった感)で、タブレットは全国の子どもに一人一台配布された。しかし、最近のある調査では、タブレットを使えば使う程、子どもの学力は落ちる、という結果も出ている。使い方を間違えば、タブレットを使えば使う程、子どもは思考を放棄し、選択するだけになってしまうのだ。



 そのような教育現場の状況が分かっているのか、分かっていないのか、それさえ分からないが、国の対策はまたもや「タブレット依存」なのである。



 



※韓国のデジタル教育失敗に関する記事1参照



※韓国のデジタル教育失敗に関する記事2参照



 



 自殺の原因は、様々あると思う。

私の友も6年前に自死した。彼がどうして死を選んだのか、今もふと考える。「いまさら」ではあるが、どうしても考えてしまう。つまるところ、友は生きる希望を見出せなくなったということなのだろうが、その思いに行きつくまでにきっと時間があったはずだ。しかし、遠く離れていたとはいえ、友の思いは、誰ひとりとして我々友人に伝えられることはなかった。ITも含め多くの連絡手段があったのにもかかわらず。



 「遠くにいる親戚よりも近くの他人」



という成句があるが、人は人との直接的な関わりの中で生きている。私はそう思っている。他者と直接的な関わりがなくなれば人は内向していくしかない。いくらスマホやタブレット、パソコンがあっても、それは遠くにいる親類(安心するもの)にすぎない。我々に必要なのは、困った時に頼れる近くにいる他人(ひと)なのである。



 私の友人は、ある時から自分の身なりに無頓着になり始めたという。

そして、ある日突然に他者との関係を絶った。そして、ほどなくして自らの命も絶ったのだ。「遠く」というのは物理的な距離だけではない。友には、物理的に近くに居た家族もいたのだ。



 精神的な「遠さ・近さ」も含めて考えてみると、身内(家族・友だち)というのは、精神的には遠い存在なのかもしれない。それに反し、自分と利害関係のない人は案外近い。そう思えるから「他人」には気兼ねなく話せることがある。



 子どもたちに今必要なのは、そのような精神的に「遠くにいる親戚よりも近くにいる他人(ひと)」なのではないだろうか。そういう意味でも、すべての小中高等学校に早急にスクールカウンセラーが常駐しなければならないのだ。そのことは、国や文科省も分かっていると思うのだが、実施にいたらないのは何故なのか。私の理解の及ばぬところである。



 



■情報過多の渦に飲み込まれていく子どもたち

 



 思い出せば、私が教師になった48年前、先輩の教師に言われたことがある。



 「小学生はつまらない授業でも寝ることはないから、もし子どもが授業中に寝ることがあったら体調が悪いと思った方がいいよ」



 「子どもの自殺ってないんだよね。子どもは万能感があるからね」



 しかし、50年近くたった今、そんなことはない。



 1年生であっても、6年生であっても、授業中に寝る子はいるし、小学生の自殺が、毎年どこかで報告されるようになった。子どもたちの生活環境の変化が要因だと思うが、その傾向が強くなったのは、「IT革命」と呼ばれた1995年以降である。人びとはIT機器(携帯、パソコン、スマホ、ゲーム機)に没頭するあまり、時間を忘れ、人と人が関わる時間がどんどん失われていった。



 どのような革命にも、「革命」という急激な変化に対応できない「弱き者たち」は少なからず存在する。1995年以降のIT革命にも、少なからず弱き者たち(犠牲者)はいるのだ。子どもたちこそが、その「弱き者たち(犠牲者)」なのではないだろうか、と私は思っている。そして、今もなお、弱き者たちの「依存症(スマホ、タブレット、ゲーム)」「引きこもり」さらに「自殺」という悲劇が、私たちの前に課題として立ちはだかっているのだ。



 私が思うに、子どもたちの生活環境を良くも悪くも変えたのは「IT機器」であり、また、子どもたちが持っていた万能感を奪ったのも「IT機器」である。子どもには成長に応じた情報処理できる適度な情報量があるはずなのだが、家庭でも学校でも、それを無視した過剰な量が「IT機器」によって、子どもたちに与えられているのではないだろうか。そんな情報過多のなか、子どもたちはうまく情報処理できなくなっているのではないか。



 私は確信する。今こそ、「弱き者たち」たちの支えになるのはタブレットではない。近くにいる他人(ひと)なのである。



 



文:西岡正樹

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