「諦めたらそこで試合終了ですよ」大人気バスケ漫画「SLAMDUNK」の名文句である。プロレス界にも、諦めることなく最高峰へ辿り着いた男がいた。
■ストイックにレスリングに打ち込んだ学生時代
三重県桑名市に生まれた洋央紀少年が、プロレスに興味を持ったきっかけは近所の友人と一緒に見たプロレスのビデオだった。画面の向こうで大暴れするプロレスラーに憧れを抱き、自分も同じようになりたいと思って、プロレスラーを目指す。
高校ではレスリング部に入部するも、当時は団体戦も組めないほどの弱小部だった。そこで出会ったのが、レスラー、レフリーとして活躍した柴田勝久を父に持つ柴田勝頼。後藤は、柴田と一緒に部を立て直していく。
「柴田と二人でレスリング部をなんとかしようって頑張っていましたね。顧問の先生は日体大出身だったので、ツテを頼って大学に出稽古に行ったり、春になったら後輩をスカウトして部員を増やしたりしていました。
以降、後藤の盟友となる柴田は、高校卒業後に新日本プロレスに入門。後藤は国士舘大学へと進んだ。
「俺も柴田みたいに新日本プロレスの入門テストを受けようと思っていましたよ。でも、先に大学の推薦をもらっていたので、そちらを優先しました。受けておけば良かったなと思う時はありましたけど、大学へ進学して良かったです」
国士舘大学での生活は練習漬けだった。朝から午後まで練習し、合間に授業を受ける毎日。土曜も2時間の練習をこなした。「2時間」と聞くと短く感じるかもしれないが、レスリングの練習は強度が非常に高く、それ以上は体が持たないほどの濃密なものだった。
後藤の大学時代の記憶は「練習ばかり」。合コンやバイトをしたこともなかった。土曜日の練習終わりからが唯一の息抜きで、「日曜日は練習が休みなんですよ。寮の点呼が終わったら、新宿とかに出て飲みに行くのが楽しみでしたね」と振り返る。
厳しい環境で4年間を過ごした後藤は、2001年に全日本グレコローマン85kgで3位入賞を残した。翌02年4月に新日本プロレスに入門をし、プロレスラーへの第一歩を歩んでいく。
■大怪我から再入門。苦難を乗り越えてデビュー
憧れの新日本プロレスに入門した後藤だが、入門早々、練習中のスパーリングで肩を脱臼してしまう。手術が必要なほどの重傷を負った後藤は、合宿所から離脱する事態に。一時、高校時代から友人であり新日本プロレスの先輩でもある柴田(勝頼)の家に転がり込んだが、結局三重に戻った。
「柴田は『治るまでウチにいればいいじゃん』と言ってくれたけど、いつまでも甘えるわけにはいかないじゃないですか。他に行くあてもないんで一度実家へ戻りました」
それからは、新日本プロレスへ再入門を果たすために治療とリハビリに励む日々を過ごす。母校の体育館を借り、後輩と一緒にレスリングに取り組んだ。また、当時名古屋にあった新日本プロレスの闘魂SHOPでアルバイトをしながら、お店併設の道場でも練習をして体を仕上げていった。
治療とリハビリを終えた2002年11月、後藤は再び新日本プロレスの門を叩くことになる。彼の復帰を誰よりも喜んだのは同期の田口隆祐だ。
仲間の下へ帰ってきた後藤は、2003年7月に田口を相手にデビューを果たす。 後藤は、デビュー戦のことをブログにこう記している。
〈あの当時の事は忘れやすい俺でもよく覚えてる〉
〈試合前の練習では成瀬さんに気合いが入ってない!とビンタされたなぁ とか 試合後はライガーさんに元気がない!とスゲー怒られたなぁ とか〉
デビュー後は、田口と共にJr.ヘビー級の選手としてリングに上がり、ベテランの邪道・外道のコンビなどと対戦。2005年に若手プロレスラー同士のリーグ戦「ヤングライオン杯」で優勝を果たすと、当時新日本プロレスを席巻していたヒール軍団「C.T.U(コントロール.テロ.ユニット)」に加入。なぜかリーダーにされてしまう。
「これ、リーダーと言っても名前だけです(苦笑)。上には(獣神サンダー・)ライガーさんや邪道さん、外道さんとかがいたので自分が一番下っぱでしたよ。どうしてデビューしたばかりの自分に声をかけてくれたのかは、今でもよくわからないです(苦笑)」
当時のことをライガーは、東スポの連載コラムで次のように記していた。
〈C.T.Uで一緒にやっていた時も僕や邪道、外道のアドバイスをよく聞いて努力してたもん。天然キャラでイジられたりしてたのも、彼の努力を認めているからこその信頼の証しで、かわいがられていたんだと思うよ〉
真面目でひたむきな性格が評価されていたのだろう。C.T.U在籍時はIWGPジュニアタッグやIWGP・U-30無差別級王座に挑戦する機会を得た。
華々しい結果を残すことはなかったが、期待の若手として着実な成長を遂げていた。
■メキシコ武者修行で見つけた自分のスタイル
デビューから2年10ヶ月。後藤はアメリカへ短期参戦した後、2006年7月にメキシコへ無期限の遠征に出発した。昔も今も海外遠征は若手プロレスラーを大きくする。近年の新日本プロレスでも、後藤が凱旋帰国試合の相手を務めたEVILを筆頭にグレート-O-カーン、海野翔太、辻陽太、上村優也などが海外で飛躍して新日本プロレスへ戻ってきている。
後藤のメキシコ遠征も充実の日々あった。
「メキシコでは毎日のように試合があったので、リングに上がるたびに成長していったような感じでしたね。今のスタイルを作ったのもメキシコなんですよ。シングルのベルトをはじめて獲ったのもメキシコです。海外遠征したことで、プロレスラーとしてすごく自信が芽生えましたよ」
海外での単身生活で苦労はなかったのか尋ねると。
「自分は大変なことはなかったですね。当時はウルティモ・ドラゴンさんが作った闘龍門という団体がメキシコにあったんで、そこの道場に住まわせてもらっていたんです。
ここで後藤は自分の武器を得た。それが「牛殺し」。メキシコ時代は名前が付いていなかったが、凱旋帰国試合で披露し、技を食らった天山広吉が頚椎損傷で長期欠場に追い込まれたため、その名前がついた。
凱旋帰国で強いインパクトを残した後藤に、団体トップの証であるIWGPヘビー級王座への挑戦機会が与えられる。敗れるも、ファンや関係者から高い評価を受けており、「暗黒期脱却のきっかけとなった試合」とまでいわしめる名勝負となった。
2008年の夏、新日本プロレス、真夏の最強戦士決定リーグ戦「G1CLIMAX」にエントリーされ、初出場で初優勝。当時史上最短キャリアでの優勝者として歴史に名を刻んだ。その勢いのまま、再びIWGPヘビー級王座に挑戦するも敗戦。09年には春のトーナメント戦である「NEW JAPAN CUP」は優勝、しかし団体の最高峰・IWGPヘビー級王座への三度目の挑戦では跳ね返された。
「G1で優勝した時も、NEW JAPAN CUPで勝った時もトップ取った感覚はなくて、『さあここから』だと思っていたんですよ。でも、何回挑戦しても結果が出ない。
■「透明人間」と呼ばれた日々
実力は折り紙付きながら、ここ一番で結果が出せない後藤。
テレビ朝日系「ワールドプロレスリング」で解説していた元プロレスラーの山﨑一夫氏や大先輩のライガー氏は、後藤にたびたびコメントを浴びせていた。二人からすれば「後藤への期待が高いからこその愛のムチ」ということだった。
なかなか突き抜けられない日々を過ごしていた当人は、どんな思いだったのだろうか。
「あの頃、結果は出るんです。それでIWGP挑戦となりますけど、自分の中では『まだ早いんじゃないかな』なんて迷いがありましたね。でも、『NEW JAPAN CUP』を優勝したのでやるしかないじゃないですか。でも、自分の中では『ベルトを獲るぞ』というモチベーションに達していない中での試合でした。それじゃあ勝てるものも勝てないですよね」
同僚からも中途半端な気持ちは見抜かれた。後藤の先輩でIWGP戴冠経験がある真壁刀義は「(気持ちが)しょぼい」と切り捨て、同期の中邑真輔からは「存在感ゼロ。透明人間」と屈辱的な言葉を浴びせられる。それにファンも乗っかって、後藤は叩かれまくった。
「あの時の言葉は、結構グサっときましたね。圧力じゃないけど、真壁さんや中邑が俺に強い言葉を言うじゃないですか。それにファンが『そうだそうだ』って乗っかってきたのは堪えました」
「自分でも『何が足りないのだろう』ってずっと考えてましたね。自分で答えが出ないから、他の選手に聞いたこともあります。でも、周りから色々と言われ過ぎて、自分の気持ちもわからなくなってました。完全に自分を見失ってましたね」
自分に自信が持てず、さらにファンも含めて周囲が勝手に後藤に対するマイナスイメージをつけていく。完全にドツボにはまっていた。
そんな状況にあって、盟友・柴田の存在は心強かったようだ。
「柴田は、昔から知ってるからファンがつくった色眼鏡で俺の事を判断しないんです。俺も同じように昔から知っている柴田だからガンガンやり合えたし、周りからのレッテルとか関係なく自分を出せる部分があったと思います。タッグの時もすごく伸び伸びとやれましたね」
■覚悟の8度目挑戦も跳ね返された
2016年は後藤にとって忘れられない年となった。まず1月4日の東京ドーム大会で、「俺に負けたらキャプテンクワナに改名しろ」「そもそもトップなんですかね?」と散々挑発してきた内藤哲也に勝利。
そして翌日の後楽園ホール大会で、当時のIWGP王者のオカダ・カズチカに挑戦表明。「何回挑戦するんだ」と疑問を呈され、大会後の会見ではオカダから「恥男」と屈辱的な言葉をぶつけられる。
そこから後藤がブチ切れた。IWGP8度目の挑戦が決まった後、オカダへ襲撃を繰り返すように。ファンは「空気を読め」と非難をするも、後藤の怒りは収まらなかった。
「あの頃は何かを変えようと思っていたんです。この時、IWGPに挑戦したのが8回目。毎年のように出てきては負けを繰り返していたのをどうにかしたかった。あれだけ言われたら黙っていられないし、空気を読むなんて考えてもなかったです」
2月11日に大阪府立体育会館で行われたIWGPヘビー級選手権試合で挑戦者として入場してきた後藤は、全身を白く塗り、黒い「写経」ペイント姿で登場した。観客から拍手は起きるも、声援は少ない。後藤の雰囲気に驚きと戸惑いを見せていた。
焦り、怒り、屈辱。切羽詰まった後藤は「すべてをひっくり返す」という覚悟でリングに上がった。不退転の決意で挑んだ8度目のIWGP戦。結果は残念ながら後藤の敗戦。このままで終わる、はずだったが、試合後に以外な展開が待ち受けていた。
マイクを握ったオカダが後藤へ向かってこう言い放つ。
「後藤さん、変わりたいならCHAOSに入ったらどうですか」
なんとオカダは自ら率いるユニットに後藤を勧誘したのだ。後藤はその場ではすぐに答えを返さなかったが、
「なんか、負けて入るのって、相手の言いなりみたいでイヤだったんですよ。でも、本隊に残っていても今のままじゃないですか。それで改めて考えて、変わるならそれくらいやらないと変化しないなって思って、CHAOSに入りました」
新しい場所へと向かったのは同年の3月。ここから後藤の進む道が変わっていく。
翌年の東京ドーム大会で盟友・柴田勝頼からNEVER無差別級のベルトを奪取。プロレス王・鈴木みのるとベルトをかけた抗争を繰り広げる。その後もタイチ、飯伏幸太、ウィル・オスプレイといったタイプの違った相手と臆する事なく戦い、IWGP戦線とは違う道で輝きを見せ始めた。
「NEVERの頃はIWGPのことを考える余裕はなかったです。とにかく次から次へと挑戦表明されるし、こっちがベルトを獲り返そうと動いても、すかされたりするので対応するのが大変でしたね。それにIWGPはオカダと同年代や若い選手が挑戦していたので、自分は望まれていないのかもと考えました。気持ちの面でもNEVERの時みたいに、いいものをお客さんに見せられないだろうなって弱気なところもありましたね」
後藤がNEVER戦線で戦っている頃、IWGPヘビーはオカダ、内藤、飯伏に加えて、ジェイ・ホワイトといった若手が台頭。「ベルトに挑戦」と口にできるような状況ではなかった。多くのファンも、後藤はIWGPを戴冠することはないと思っていただろう。
■タッグ戦線で取り戻した自信
自分を変えるためにCHAOS入りしたが、今までの状況を打破できず、時だけが流れてしまった。しかし、後藤の周りは少しずつ変化を見せていく。
きっかけは2020年に行われた、NEVER無差別級6人タッグトーナメント優勝からだ。決勝戦でオカダ、矢野通、SHO組を下して、新たな勲章を手に入れると、YOSHI-HASHIをパートナーにタッグ戦線へと足を踏み入れる。同年12月に行われた「WORLD TAG LEAGUE」では結果が出なかったものの、翌21年の同リーグ戦で初優勝を果たす。
22年の東京ドーム大会ではIWGPタッグ王座に挑戦して見事に勝利。王者と覇者の二冠王となった。EVIL・高橋裕二郎組に初防衛を果たすと、NEVERの時のように多彩な相手と名勝負を展開していった。同年の「WORLD TAG LEAGUE」も優勝して二連覇を達成した。
翌年も「WORLD TAG LEAGUE」を制し、前人未到の三連覇を達成。並びに新日本プロレス史上初のIWGPタッグ王者によるリーグ戦制覇を成し遂げた。この偉業で後藤・YOSHI-HASHI組は新日本を代表する名タッグと名を馳せることになる。
「タッグで結果が出たくらいから、ようやくシングルにもう一度挑もうって気持ちが浮かんできました。IWGPタッグのベルトも獲ったし、実績も積み重ねてきたことで自信も蘇ってきましたね。でも、今まで8回IWGPに挑戦して一度も獲れなかった。言わば会社の期待を裏切り続けてきたわけですよ。だから、おいそれとは『IWGPに挑戦したい』とは言えませんでした。このままIWGPのベルト巻けないまま引退するかもなんてぼんやりと感じていたこともありました。でも、タッグで結果を残したら挑戦してもいいかなっていう気持ちが芽生えてきたんです」
自信と気力みなぎる後藤は、再びIWGP戦線へと目を向ける。同時期に「IWGP世界ヘビー級のベルト」を見せてあげたい存在もできた。2024年2月に亡くなった父だ。プロレスラーになることを反対してきた父の遺影に覇者としての印をたむけとしたい。
まず「NEW JAPAN CUP」に挑戦した。
トーナメントにエントリーした後藤は、破竹の勢いで勝ち進み決勝戦を迎えた。相手は新日本プロレス期待の若手選手でもある辻陽太。一進一退の攻防を見せる両者にファンは応援の声を送り続けた。最初は辻への声援が大きかったが、試合終盤は「後藤コール」が「陽太コール」を上回った。勝利はつかめなかったが「後藤洋央紀復活」を印象付ける戦いであった。しかも「東京スポーツ新聞社制定2024プロレス大賞supported byにしたんクリニック」で年間最高試合賞を受賞するほど評価された。
「この年の『NEW JAPAN CUP』はコンディションも良かったんですよ。それ以上に親父が亡くなったばかりで、懸命に戦っている自分の姿を見せたいって思いが強かったです。お客さんも俺の思いを後押ししてくれた。それがあの『後藤コール』につながったんだと思います。今でもすごく印象深いですね。本当に嬉しかったですよ」
後藤への期待はしぼまなかった。同年の「G1CLIMAX」にもエントリー。優勝戦に残れなかったが、全国各地で一番大きな声援を浴びたのは後藤洋央紀である。8年前はファンに嘲笑されていた男が、最も支持されるプロレスラーへ変わっていった。
■22年目でやってきた大チャンス
2025年の東京ドーム大会の本戦に、後藤の試合は組まれなかった。エントリーしたのは第0試合の「ニュージャパンランボー」である。試合形式は1分ごとに選手が入場してくる時間差バトルロイヤルだ。本来であれば、大きな話題になることなく終わるはずであった。
しかし、グレート-O-カーンが「ニュージャパンランボー覇者にIWGP世界ヘビー級選手権に挑戦させろ」と要求。新日本プロレスが認めたことでいつものお祭り気分は吹っ飛んでしまった。
「これはチャンスでしたよね。これを絶対に掴んでIWGPに挑戦するんだって気持ちでリングに向かいました。その前からお客さんからも『後藤行ける』という後押しがずっとあって、自分の中でも、すごく充実した気持ちが続いていたんです。このエネルギーが生まれたのは自分だけじゃなくて、お客様からもらったものだと思います。だからどうしてもチャンスを逃したくなかったですね」
後藤は見事に「ニュージャパンランボー」で優勝。ようやく、9年ぶり9回目のIWGP挑戦権を手に入れた。9回目の挑戦が決まった後、後藤はこんなコメントを残している。
「俺の格好悪いところはみなさん散々見てきてるだろうし、今は無理して格好つける必要もない」
少しずつ自然体になっていた。自分のファイトスタイルや考え方に変化があったのか? と尋ねると。
「考え過ぎなくなりましたね。昔は『こうでなきゃ』とか『自分はこういうプロレスラーなんだから』というこだわりがあったんですけど、今は割と自由にやらせてもらっています。周りにどう思われるか気にしていた時期もありましたけど、今はどう思われようがいいやって感じですね。そんな風に思えたのは、自分からSNSやインタビューなどで発信できるようになったのが大きいかな。『作られた自分』じゃなくて『素の自分』を見せることができるから、リング上でも自分の思うがままにいられる要因じゃないですかね」
呪縛から解けた後藤は、2月11日大阪府立体育会館で9年ぶり9度目のIWGP戦へと向かう。入場ゲートをくぐった挑戦者は割れんばかりの「後藤コール」で迎えられた。
「あのコールは本当に自分が目指していた光景です。あれが聴きたくてプロレスラーになったようなものですよ。あの日は俺の夢が叶った瞬間でした」
試合序盤は王者のザック・セイバーJr.が得意のグラウンドへ持ち込み、苦戦を強いられる。後藤は何度もチャンピオンの関節技を食らうもギブアップだけはしない。
しかし、徐々に攻勢に転じていった後藤は、ラリアットを決めると一気に勝負へ出た。しかしザックはこれを耐え抜き丸め込みで逆転を狙う。後藤は何とかキックアウトすると、再びラリアットから得意技を連発で決めて3カウントを奪取。遂に9回目の挑戦ではじめてIWGP世界ヘビー級のベルトを手に入れた。
試合後、後藤はリング上で雄叫びをあげた。
「今日の勝利を亡き父に捧げます。知ってる方もたくさんいるでしょうが、俺は馬鹿です。長男でありながら、家業を継がず……。そんな俺でも諦めなければチャンピオンになれるんです。親父、獲ったぞ!」
ファンは再び「大後藤コール」で、ベルトを巻いて花道を帰る新チャンピオンを祝福した。
「もうね、コールを聴きながら色んな人の顔が浮かんでくるんです。親父もそうですし、長く応援してくれたけど亡くなった方もいますので、その人たちの顔がね。本当に見せてあげたかった。何かこみあげてくるものがありましたよ」
遂に団体の頂点へと上り詰めた後藤に新たな想いも湧き上がってきた。
「新日本プロレスを、これから俺が引っ張っていくんだっていう責任感が芽生えましたね。それと、もっと上に持っていくという感覚が不思議と出てきました。今まで色んなベルトを巻いてきましたけど、IWGP世界ヘビーのベルトは他とは違いますね。やはり新日本を象徴するベルトですから反響も大きいんですよ。色んな人から声をかけられるし、プロレスをあまり知らない人からも『おめでとう』って言われるんです。そういう経験をすると『俺がもっと頑張らないとな』って使命感が出てきましたね」
■「諦めなければ負けじゃない」
何度も苦しんできた後藤洋央紀。デビューしてから22年経って団体の頂点に立ったのは、新日本プロレスの歴史でもはじめての存在と言える。期待されてはいたが、何度も裏切ってしまい、周りの評価も変わっていく。それにもがき苦しんできた。ファンからも揶揄される事もあったが、少しずつ地道に変えていった。ベルトを巻いた今だからこそ、当時の後藤洋央紀へ送る言葉はあるのだろうか。
「カッコつけなくていいんだよって事ですかね。ベルトを獲れなかった頃とか挑戦できない時って、やっぱりカッコつけていたんです。見え方ばっかり気にして自分が出せていない。それで周りからイメージを作られる。それを自分で修正すらできない。一言でいうとドツボにハマっていましたね」
最後に同年代である氷河期世代へメッセージをお願いしてみた。
「常に前向きに。マイナスにならずにいて欲しいですね。年齢とか気にしないで自分のやりたいことを貫いていけば、いつか周りも納得してくれます。とにかく『自分を貫き通す』というのを大切にして欲しいなと思います。いくらやられても、諦めなければ負けじゃないんです」
「諦めなければ負けじゃない」シンプルな言葉だが、22年の長い道のりを経て夢を掴んだ45歳の王者が放つと、ズシリと重かった。後藤洋央紀のように生きられるか、自分自身に今問いかけている。
取材・文:篁五郎