■ポルノ規制を主張する人の多くが望んでいること

 一九七〇年代から二一世紀の始めにかけて最も強い影響力を発揮した法哲学者ロナルド・ドゥウォーキン(一九三一-二〇一三)に、「ポルノへの権利はあるのか」という論文がある。タイトルから予想されるように、ドゥウォーキンは、ポルノは表現の自由等の自由権的基本権によって保護されるべきものか、そんなものはないのか問うている。



 憲法の「表現の自由」で保護される「表現」とはそもそもどういうものか、それにポルノは含まれるのか、それを表現することが誰にとってどういう利益があるのか、ポルノとはそもそもどういうものか、規制すべきだとすればポルノ全てか、ある特定の種類のものか、そしてどのようにかといった問題を、英国の内務省の検討委員会の報告やミル(一八〇六-七三)の『自由論』(一八五九)などを参照しながら詳細に検討している。興味深い論点が多々取り上げられているが、私がここで取り上げたいのは、公/私の境界線への挑戦をめぐる問題である。



 標準的な近代自由主義の理論は、「公/私」の区分を前提とする。「公的領域」というのは、不可避的に多くの人が関わっているので、国家の政策によって人々の行動が規制され、みんなで共通の方向を目指すのが当然とされる領域である。「私的領域」とは、自分だけ、あるいは、多少無作法に振舞っても許し合える家族やごく親しい人たちとの関係だけで構成される領域である。両者の区別は純粋に空間的なものではないが、空間的に分かりやすく言えば、前者と想定されるのは、議会など会議の場、公共の施設や交通機関などであり、後者と想定されるのは、個人の家、特に個人が使用できる部屋である。



 公的領域では、公共の福祉のため、個人の自由はお互いの迷惑にならないよう、国家の事業の妨げにならないよう制限される。それに対し私的領域では、明らかな犯罪を除いて、可能な限り第三者、特に公権力からの干渉を受けないで放っておいてもらう権利があると見なされる。事情が許す限り、「私的領域」を拡大して、個人が自分のライフスタイルを選べるようにするのが、近代自由主義の大前提だ。「公的領域」が拡大しすぎると、自由主義社会ではなくなる。



 無論、そうは言っても、私的領域/公的領域の境界線は常にはっきりしているわけではない。会社、学校、●●同好会のようなものの中の人間関係は、公共的性格と私的性格が混じっているので、錯綜としている。

「ハラスメント」というその適用範囲が曖昧な概念が法的に通用しているのは、境界線が曖昧だからだ。



 ポルノ規制の問題は、この公/私の境界線と密接に関係する。ドゥウォーキンは、自分がポルノを見ている人でも、子供がポルノを目にするのは好ましくないと考え、ポルノ規制に賛成する、という単純な事実に注意を向ける。それは、彼らにとって「ポルノ」は私的(private)にこっそり見るものであって、子供などが簡単に眼にする公共の場から隠されるべきだと考えているからである――英語の〈private〉には、「秘密裡の」という意味合いもある。



 そこから類推すると、ポルノ規制を主張する人の多くは、ポルノの全面禁止を望んでいるわけではなく、不特定多数の人、特に子供が簡単に見ることができる公共の場で、ポルノが上映されたり、グッズが販売され、広告が堂々と展示されたりすることが許されない、と見ているわけである。セックスに関係するものは、私秘的(private)であるべきで、プライベートな空間で他人の迷惑にならないようにこっそり見るのであれば、許される、という考えの人が多いということだろうか。





■何故、セックスは「私秘的」であるべきなのか? 

 では、何故、セックスは「私秘的」であるべきなのか? 公的な場に出て来ると、どういう危険があるのか。言わずもがなのことであるような気もするが、それをきちんと確認するのが哲学だ。ドゥウォーキンが注目している「ライブ・セックス・ショー」に即して考えてみよう。予想されるように、これに対しては厳しい見方をする人が多い。



 「ライブ・セックス・ショー」は、セックスをビデオではなく、生でみたい人たちだけのプライベートなクラブのようなところで行われる。少なくとも、公共的な場で行われるものとは言えない。

しかし、ドゥウォーキンが参照している委員会報告(ウィリアムズ・レポート)では、「ライブ・セックス・ショー」に対して通常のポルノに対する以上に厳しい規制、禁止が必要という意見さえ出されている。その場にいない他人に、見たくないものを見せつけられることによる不快感という意味での害を与えていないのは確かだ。



 「ライブ・セックス・ショー」を危険視する人は、セックスが行なわれる現場に観客が居合わせるため、直接的に強い刺激を受けると考えているように思える。その刺激で、性的犯罪とか危険な性行為に走る可能性が高いと想像・推測するのだろう。他の形態のポルノについてもそうした推測が働いていると考えられる。子供の目に触れないようにする、というのも、子供がそういう刺激に免疫がないからと想定されているからだろう。



 演じる側と見る側から成る“共同体”が公共圏から隔離されているだけでは不十分で、セックスを実行する演者と「聴衆the public」の間にも一定の間隔を置き、刺激が無暗に広がらないようにすべき、と考えている人たちがいるのである。これは、ライブ・ショーを観劇する人たちの「プライベート」な嗜好へのパターナリズム的な干渉と見ることもできるが、ライブ・ショーの行われるのが、純粋なプライベートな場ではなく、特殊な種類の公共の場と考えれば、干渉を正当化できるかもしれない。かなり絞られた人数とは言え、一定数の(相互に必ずしも顔見知りではない)観客が、セックスが行われる場に居合わせ、興奮が高まり、何が起こるのか分からないので、そういう場に公権力が予防的に介入するのは不当ではない、という見方もできる。



 そういう面から見ると、ポルノ規制は、ポルノという、酒や麻薬のように、あるいはそれ以上に刺激が強い危険なものを、私的空間に可能な限り押し込めておく試みということになるだろう。ハンナ・アーレント(一九〇六-七五)は、古代ギリシアでは、家を中心とする私的領域は、人の生物的欲求が充足され、暴力的な支配が行われる場だったとしている。危ない欲求は、他の市民との関係を考慮しなくてよい、私的領域で処理される必要があった。



 では、ポルノの規制は、それが何等かの形で公共空間で行われるかどうか、公共空間でどのように拡がるかに絞って判断すればいいのか、というと、そう簡単な話ではない。売春とかポルノ、性と暴力について問題提起する、あるいは、セクシュアリティとは何かを考えようとする、いわゆる芸術性が高い映像・舞台作品がある。それらは、個々の顧客を性的にその気にさせることを商業的目的として掲げていないが、観客の中には、それらからポルノと同じ刺激を得る人もいる。それはどう考えるべきか。制作のプロセスや上演解体によって目的を判定し、区別すべきか、それとも、刺激の量のようなものを何らかの形で測定するのか?





■「公/私の境界線」への挑戦が、ポルノの本質か

 もっと判断が難しい場合がある。前衛的な演劇や舞踏、インスタレーション等で、セックスをさほど念頭に置かず、人間の身体の構造や動きを通常とは別の仕方で表象すべく裸体表現をするものがある。私自身も、そうした演劇の創作に関わったことがある。そうした裸体を含む身体表現を前衛的なアーティストが試みるのは、多くの場合、公/私の境界線をめぐる常識的・日常的な感覚に挑戦したいからである。普段、公共の場で見ることがはばかられているもの、私秘的な場でたまに個人的に見ることもあるくらいのものを、敢えて公共の場に持ち出し、公衆がじっくり見る機会を作り出し、どういう変化が起こるのか見極めたいのである。



 身体表現を伴うものに限らず、前衛芸術ではあまり公共の場でじっくり見たりすべきでないものを、敢えて多くの公衆の視線に晒すことがある。美術館で便器をじっくり見ることに主眼があるデュシャンの『泉』はそういう試みだし、家の中のガラクタとか、性器の象徴のようなものを展示するタイプの作品にはそういう意味合いが込められていることがしばしばある。



 ドゥウォーキンは、そうした公/私の境界線への挑戦が、実は、ポルノの本質かもしれないことを指摘する。

人々がポルノを見たいのは、単にリアルなセックスの代替あるいは補完物が欲しいだけではなく、本当は見ることが許されないはずの、私秘的な他人のセックスを見ることができる、という感覚、更に言えば、そのことを世間に知られて恥ずかしい思いをするかもしれない、という背徳感を求めているからだとも言える。



 そうした感覚への嗜好と、前衛芸術の欲望の間にはっきりした区別を付けることはできないだろう。前衛芸術自体が、公私の境界線を越えることに伴うのぞき見への欲望や背徳感があることを前提にし、それを利用する形で創作しているからである。違いを付けるとすれば、のぞき見と背徳感をそのまま無批判に享受し続けたい消費者の欲望をサポートするのがポルノ産業で、それを乗り越えて、新たな感覚を生み出そうとするのが前衛芸術ということになるだろう。



 しかし、そうした意図を制作者、出演者一人ひとりにおいて正確に把握することなどできないし、試みに失敗したり、挫折した前衛芸術はどう見るべきか。前衛芸術を、「公/私」の境界線という面から社会を変革するポテンシャルを有するものとしてその存在を認め、積極的に推奨するのであれば、ポルノなど、いわゆる低俗な欲求に奉仕するものとされる娯楽と区別するのは難しくなる。



 



文:仲正昌樹

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