世紀末の石垣島で僕は自殺念慮を克服した~そして今世紀の「森の思考=生態学」へ~
自叙伝『聖と俗 ~対話による宮台真司クロニクル~』で記したが、ある大学生女子の自殺を機に陥った激鬱から少し回復して、石垣島の底地ビーチが見えるダイバー用の安宿シーマンズクラブ(今はない)に長逗留した。死に場所を探し、クラブメッド石垣島の広い敷地内にある、鬱蒼とした灌木に覆われた急斜面の下にある、人が近づけない小さな浜を見付けた。
ある日そこを抜け出して吹通川の広いヒルギ群落を彷徨った。見たこともない光景の中でトランスし、声が聴こえて覚醒した。それまでは、どうすれば良かったのか、どんな選択肢を選んでも災厄は避けられなかったのではないか、という思考に陥っていたが、前提を遡ることで、ずっと前から僕の存在の仕方に間違いがあり、本来乗らなくても良かった世界線の上に乗っていると気づいた。考えて選択する主体であるのをやめようと思った。
それが1998年。1999年にテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』と芥正彦演出『アンチェイン・マイ・ハート』をみて、石垣島での覚醒体験と自分が長い時間学んできた様々な学的知識が一つに繋がった。僕が大学三年の時に初めて書いた学的レポートが、八重山諸島の祖霊崇拝を巡るものだったことも思い出した。その体験を経て、僕の無意識を駆動する様々な「快/不快」の二項図式が、明確に意識できるようになった。例えば──
聖=力の湧出(快)/俗=力の消費(不快)
世界=総ゆる全体(快)/社会=コミュニケーション全体(不快)
知恵=力の受け渡し(快)/知識=情報の受け渡し(不快)
内発性=内から湧く力(快)/自発性=損得計算(不快)
ギリシャの目的プログラム(快)/セム族の条件プログラム(不快)
享楽=痛快の絶対性(快)/快楽=愉快の相対性(不快)
母なるもの=贈与(を支える未規定性)/父なるもの=交換(を支える秩序維持性)
水平軸の神々(快)/垂直軸の唯一神(不快)
アニミズム=集団的生活形式(快)/信仰=個体的コミットメント(不快)
ヴァナキュラ=置換不可能(快)/コロニアル=置換可能(不快)
ソーシャルスタイル(快)/ライフスタイル(不快)
アート=自らを脅かす批評(快)/娯楽=安全・快適な消費(不快)
体験次元(快)/行為次元(不快)
自己信頼=社会を超える尊厳(快)/自信=社会の中での能力的地位(不快)
対幻想=あなたのために生きる(快)/共同幻想=みなのために生きる(不快)
対なるものの全体性(快)/社会なるものの部分性(不快)
掟生活=社会からの自由(快)/法生活=社会の奴隷(不快)
言外生活=社会からの自由(快)/言語生活=社会の奴隷(不快)
贈与=端的な利他性(快)/交換=利己的な利他性(不快)
普遍性=時間次元(摂理)のコール/一般性=空間次元(みな)のコール
生き物としての場所(快)/機能としての空間(不快)
これら二項図式の説得性を4冊の映画批評本を通じて研ぎ澄ましてきた。やがて、様々な事柄を論じるようになった。街づくり、教育、子育て、性愛、生きづらさ、天皇制、全体主義、日本的劣等性(ヒラメとキョロメ)、民主政の不可能性、新反動主義(競争否定と参加否定)、ミュニシパリズム(自治的共同体主義)など。
文:宮台真司
https://www.youtube.com/watch?v=b8oVB36AbJA