中居正広は第三者委員会に証拠開示再要求をした。曖昧な告発と世間の空気によって犯罪者にされたジャニー喜多川と、潰されてしまった事務所。

その流れは、今年の中居正広とフジテレビをめぐる騒動にも引き継がれている。悪役を作って叩きまくる快楽。しかし、その流行は誰もが叩かれる対象になる時代の到来ではないのか。そんな違和感と危惧を、ゲス不倫騒動あたりまで遡り、検証していく。





 



第3回 ポリコレやミートゥーで叩くという流行病。その感染力はコロナ以上だった。

 



 ジャニー喜多川の死から2年後、メリー喜多川も帰らぬ人となった。このツートップが去ったことで、ジャニーズ潰しが本格化する。



 始まりは2023年3月。その3ヶ月後に『ジャニー喜多川告発騒動に見る後出しじゃんけん的「ミートゥー」運動の悲哀』という文章を書いた。冒頭は、こういうものだ。





ーージャニーズ事務所をめぐる騒動がくすぶっている。

創業者のジャニー喜多川が長年にわたり、所属する少年アイドルたちにセクハラをしていたのでは、という疑惑をめぐる騒動だ。とはいえ、こうした騒動は過去にも繰り返されてきた。もっぱら、事務所をやめた元アイドルが暴露的な告発を行い、しばらくすると沈静化へという経緯をたどる。ーー



 



 今にしてみれば「こうした騒動」が「しばらくすると沈静化」することにはならなかったわけだが、この時点で別に希望的観測をしたつもりはない。事実がどうかもわからないような、それももはや突き止めようもない疑惑で、あれほどのことになるとは思わなかったからだ。



 ではなぜ、こうなってしまったかといえば、この文章の後半に書いた危惧が想定外の悪影響をもたらしたことが大きい。それについても、断片的に引用しておこう。



 



ーーミョーにくすぶっているのは、新たな要素が加わって話をややこしくしているからだ。まずは「ポリコレ」という時代の流行。そこに乗っかることで、メディアがジャニーのような人を叩きやすい空気が生まれている。さらに、ポリコレの有効性を知り抜いた人たちも食いついた。いわゆるフェミニストだ。

騒動のなかで「PENLIGHT(ペンライト)ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」が設立された。メディアでは「ジャニーズファンらによる有志の団体」などと紹介されているが、その実態はフェミ活動家連盟。二次元キャラを使った町おこしなどに対し「性的搾取」だといったクレームをつけ、炎上させるのが大好きな人たちの集まりだ。群馬県草津町の女性町議が男性町長からワイセツ行為をされたと訴えたものの、狂言だったことが発覚して「冤罪」として決着した事件でも、フェミ活動家の暴走が話題になった。この人たちはとにかく「性的搾取」に敏感なので、ジャニーと少年たちとの構図にも似たものを感じて、イケると判断したのだろう。



 なお、フェミ活動家たちは政界における野党勢力とも親近性があり、早速、立憲民主党が国会でカウアン・オカモトらの聞き取り調査を行ったりした。ジリ貧の党勢をなんとかすべく、この騒動を利用しようとしているわけだ。ただ、ちょっと切実なのは、途中でジャニーズを嫌いになった人たちだ。SMAPの解散、King&Princeの分裂によって、ここ数年、事務所に不信感を抱く人が増加。そういう層も、今回の騒動ではジャニーズ叩きに加わっている。そこには、大事なものを壊されたという被害者感覚が作用していて、こうした感覚は根深く、こじれやすい。いや、フェミにしても、自分が不幸なのは男のせい、みたいな感覚が根底にあるし、野党にも、選挙で勝てないのは自民党のせい、みたいなところで負け組感をごまかしているのではないか。

ーー





 



 というわけで「ポリコレ」や「ミートゥー」といった芸能にはもっぱら有害な流行が、本来この手の騒動には無関心だった層まで調子づかせたこと、スキャンダルの負け組を叩く快楽に目覚めた大衆が飛びついたこと、さらにはここ数年、事務所と対立するかたちとなったタレントのファンが反ジャニーズに回ったことで、四面楚歌みたいな状況に陥ったと考えられる。



 そんな動きの根底にある心理が「恨み」と「妬み」そして「気持ち悪さ」だろう。何よりわかりやすいのは、帝国とまで呼ばれたジャニーズに煮え湯を飲まされてきたメディアの「恨み」や独立して干されたタレントのファンの「妬み」そして、少年への同性愛に対する「気持ち悪さ」だが、他にもいろいろある。たとえば、この騒動において、フェミや野党といった勢力が場外から参入したにもかかわらず、そういう勢力を嫌っているはずの保守系の男性文化人までもが一緒になって叩いたりした。詳しくは別の回で述べるつもりだが、そこには多くの日本人男性がジャニーズに抱く、容姿と運動神経に恵まれた若者への「妬み」が働いていた気がするのだ。



 まさに「お気持ち」によって「死者」が犯罪者にされ、そこに連なる「生者」たちが「連座」というかたちで今なお迫害され続けているのがこの騒動といえる。何しろ、擁護的な声を上げただけで、犯罪に加担したかのような扱いをされる人までいたのだからーー。





 そのあたりについて書いたのが『山下達郎やデヴィ夫人にもいちゃもんをつけた、ジャニーズ憎しの「ジャニーガー」たちがそれを「忖度」だと思い込む理由』という文章だ。ここで紹介した「擁護的な声」というのは、こういうものである。



 



「ジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていません。私の人生にとって一番大切なことは、ご縁とご恩です。ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが、戦後の日本でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか」(山下達郎)



「ジャニー氏が亡くなってから、我も我もと被害を訴える人が出てきた。

死人に鞭打ちではないか。本当に嫌な思いをしたのなら、その時なぜすぐに訴えない。代わってジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか」(デヴィ夫人)



 



 ただ、デヴィ夫人の場合は、3ヶ月後に手のひらを返してしまった。







 



「過日 私はジャニー喜多川氏について庇護する発言をXに表明致しましたが、さまざまな報道で私の全く知らない喜多川氏の愚行を知り、驚きと共におぞましく感じました。以前の発言を撤回させていただくと共に、私の発言により傷ついた方、怒りを覚えた方に心より申し訳なく思います」



 



 このコメントの説明をそのまま受け取ることも可能だが、何らかの圧力が働き、また、彼女自身もジャニーズ劣勢の状況を見て、アンチ側に寝返ったと見ることもできる。そもそも、デヴィは赤坂のクラブホステスからインドネシア大統領の第三夫人となったあと、夫の失脚でフランスに亡命、紆余曲折を経て日本のセレブタレントに、という経歴を持つ。生き残るためなら空気も読むし、勝ち馬にも乗るという「政治家」的な処世術の人なのだろう。





 



 一方、山下達郎がブレることはなかった。これは彼が根っからの「職人」だからである。



 本人も言うように、職人は「ご恩」や「ご縁」を何より大事にするし、また、作品至上主義だ。若き日の彼の才能をいち早く認め、それを発揮する場を与えてくれたジャニーへの感謝は不変であり、そうやって自らが関わった作品はもとより、ジャニーとジャニーズアイドルによる作品全般が貶められるのも許しがたかったということだろう。



 それゆえ、彼は「性加害が本当にあったとすれば、それはもちろん許しがたいこと」としつつ、



「作品に罪はありませんし、タレントさんたちも同様です。

(略)このような私の姿勢を、忖度あるいは長いものに巻かれていると、そのように解釈されるのであればそれでもかまいません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」」



 と主張したわけだ。



 



 筆者はそれまで山下のことをあまり好きではなかったが、この件で見直し『週刊女性』の連載コラムで取り上げた。締めの一文はこういうものだ。



「この件は忖度など関係なく、頑固で気難しい職人が不愉快な状況にキレただけの話なのである」



 これはその後「山下達郎、ジャニーズ性加害言及で『CD捨てた』『2度と聴かない』批判のアンチに『私の音楽は不要でしょう』炎上騒動は“忖度”ではなく『音楽の職人』のマジギレ」(週刊女性PRIME)のタイトルで配信もされた。



 ところが、その配信版を読んだであろう人から想定外の攻撃が来たのだ。その人は音楽ライター(?)で、山下擁護の急先鋒だった。筆者はこのコラムを中立的立場で書いたつもりだが、その人には山下およびジャニーズへの批判と映ったらしい。



 その後、この人について検索してみたら「あの00年代からネット各所で大暴れしてた困ったちゃん」「山下達郎氏の件で乱心気味」といったつぶやきを見かけた。



 なるほどと思いつつ、改めて痛感したのはこういうときに中立でいることの難しさだ。対立が激しくなればなるほど、白黒をつけたがる人が増え、どちら側なのかと迫られることに。グレーでいたくても、白からはそれが黒く見え、黒からは白く見えるという現象が起きる。

基本的にジャニーズ擁護側である筆者としても、週刊誌連載では中立的立場で書くわけで、この人には「敵」だと見なされたのだろう。



 当然、逆のケースもある。この人の山下&ジャニーズ擁護のつぶやきに「いいね」をしていた漫画家・ヤマザキマリが、アンチ側から批判されたのだ。



 彼女はスマイルカンパニーの所属。ここはかつてジャニーズ事務所の役員でもあった小杉理宇造が山下とともに立ち上げた事務所だ。いわば身内の彼女にとっては自然な反応だろう。



 しかし、この反応が「擁護の連鎖」などと叩かれてしまった。筆者にしてみれば「叩きの連鎖」にほかならないが、こうしたことがあちこちで勃発していたわけだ。



 これが騒動を大きくして、鎮火もままならず、ジャニーズを窮地に追い込んでいった。そしてついに「法を超えた補償を行う」などと宣言してしまうのである。



 これは悪手だったが、それくらいやむを得ない状況でもあったのだろう。芸能史におけるバッシングのなかでも、これほど大がかりで激しいものは前代未聞だったからだ。



  



文:宝泉薫(作家、芸能評論家)

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