子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【14冊目】「バブルの混沌と『SPY』と『03』」をどうぞ。



バブルの混沌と『SPY』と『03』【新保信長】新連載「体験的...の画像はこちら >>



【14冊目】バブルの混沌と『SPY』と『03』

 



 教科書的に言うならば、バブル景気とは1985年のプラザ合意を契機とした円高と金融緩和に始まり、日経平均株価が最高値(当時)を記録した89年末をピークとして、90年3月の不動産融資規制からの大幅かつ連鎖的な地価下落が起こった91年をもって崩壊した、というのが定説だ。



  私が会社員だったのは1987年4月から91年9月までなので、もろにバブル景気と重なっている。日本企業が海外資産を買い漁り、六本木や湾岸にオシャレスポットが乱立。世の中全体がイケイケで、街は深夜まで活気があった。証券会社に就職した同級生からは1年目の夏のボーナスが100万円以上出たという話も聞いた。が、こちとらひたすら安月給のハードワークで、バブルの恩恵を受けた記憶はまったくない。あるのは、深夜残業後にタクシーが全然つかまらなかった思い出だけだ。



 とはいえ深夜帰宅のタクシー代が出たこと自体、バブルの恩恵だったのかもしれない(残業代は出なかったが)。そして、これもまたバブルの恩恵だったなと思うのが、趣味性の高いヘンな雑誌がいくつも世に出たことである。



 そのひとつが、『SPY』(ワールドフォトプレス)だった。創刊は1988年(1989年1月号)。当初のキャッチコピーは「ビジネストレンダーのための自分開発マガジン」で、『ダイム』(小学館/1986年創刊)や『日経トレンディ』(日経BP/1987年創刊)の路線を狙ったものと思われる。

それが1990年1月号でリニューアル。キャッチコピーはそのままだったが、内容的には同じ版元の『モノ・マガジン』の高級版というか“モノの文化誌”のような雑誌になった。



 リニューアル号の第1特集は「たばこの研究――すべてが灰になる蕩尽の快感」。今ではありえないテーマだが、サブタイトルからもわかるように、たばこの文化的側面を捉えた企画で、たばこのある風景のグラビアに始まり、国内外のたばこの歴史、パッケージや広告グラフィティ、愛煙家図鑑など、博物館的誌面がシブい。







 



 ……と、他人事のように書いたけれど、その特集を担当したのはほかでもない、私である。【7冊目】で書いたように、『モノ・マガジン』編集部から異動して、毎号のようにメイン特集をやることになった。「たばこの研究」もそうだが、テーマは超ワンマン社長(そのキャラについては拙著『食堂生まれ、外食育ち』にも書いた)から降ってくる。ただ、それをどう誌面に展開するかは、比較的自由だった。「ポルシェの研究」(90年5月号)では、漫画家の西風氏にイラストストーリーを依頼し、「クスリの研究」(10月号)では、佐山一郎、神足裕司、鹿野司、枝川公一、山崎浩一といった面々に論考やエッセイを書いてもらった。





 さらに、1990年12月号で同誌は2度目のリニューアルを迎える。ビジネス色はほぼなくなり、前述のキャッチコピーも消えた。ジャンルとしては、カルチャー誌ということになるだろう。

最初の号こそ社長下命のテーマで「珈琲生活=コーヒーのある場所から」と、それまでのテイストを引き継いでいるが、その後は「詐欺師の研究 世界は詐欺師を待っている」(91年1月号)、「相撲の研究 肉体無限世界への旅立ち」(2月号)、「荒俣宏の研究 7つの顔の男だぜ!」(3月号)、「写真 フォト・エゴイズム」(4月号)、「ハーレイダビッドソン大図鑑」(5月号)、「手塚治虫の研究 神の眼と虫の眼」(6月号)、「ジャガーを愛する人々へ 豹の解剖学」(7月号)、「UFOの研究 混迷を深める今世紀最大の謎」(8月号)、「SEX解放宣言 逸脱した性の悦楽」(9月号)と何でもアリ状態に(ただし5月号と7月号は広告がらみの案件)。 



 上記のうち私が担当した特集は「珈琲」「詐欺師」「写真」「手塚治虫」の4本だが、とにかく会いたい人、原稿や写真をお願いしたい人に片っ端からアプローチしている。たとえば「詐欺師」では、種村季弘、中沢新一、中島らも。「写真」では、半沢克夫、久留幸子、今道子、森村泰昌、荒木経惟、赤瀬川原平、久住昌之、みうらじゅん、松尾貴史。「手塚治虫」では、山口昌男、養老孟司、赤坂憲雄、鎌田東二、上野昻志、豊田有恒、米沢嘉博、村上知彦。同特集では、漫画家32人にアンケートもお願いした。







 



 特集だけでなく連載エッセイや巻頭コラム、文化欄も担当していたので、そこでも好き放題やった。連載では、えのきどいちろうの写真日記「東京スパイ」、文:板橋雅弘・写真:岩切等による廃墟ルポ「失楽園物語」、いしかわじゅんの世直し(?)コラム「怒髪天衝(どはつてんつく)大画報」など。湯村輝彦のシリーズ連載「滅びゆく我が肉体、哀れ」というのもあった。巻頭コラムや文化欄では、青山南、萩原朔美、寺崎央、ナンシー関、三留まゆみ、押切伸一らに執筆してもらっている。



 バブル期にもかかわらず予算は(今考えればありえないほど)僅少だったので、自分で書くページが大量にあった。文化欄の演劇や美術、本の紹介などは、複数のペンネームを使い分けて毎月何本も書いていた。

もちろん無記名の原稿も多数。別に自分で書きたかったわけでなく、基本的に予算節約のため(自分で書けばタダなので、その分ほかのページにお金をかけられる)だったが、そこで筆力が鍛えられた面もある。



 気になる雑誌の編集長インタビューの連載もやっていて、【13冊目】でちらっと出てきた『クレア』編集長のインタビューはセルフ引用だ。ほかに『CUT』渋谷陽一、『NAVI』鈴木正文、『QA』石川順一、『COMIC BOX』才谷遼、『Number』設楽敦生といった人たちにも取材した。



 何しろ仕事量が多く、毎月入稿時期の3日は完徹だった。それでも、まだ若かったので何とかなったし、自分が読者として好きだった人々と仕事ができるのがうれしかった。そうしたつながりがフリーになってからも大変役に立っている。





 そんなある日、連載担当していたいしかわじゅん氏の事務所に原稿を受け取りに行ったときのこと。「今、こんなのやってるんだけどさあ」と見せてくれたのが、とある雑誌のマンガ特集内の企画「現代日本漫画体系 人名辞典篇」だった。人気マンガのキャラクター100人を解説する事典風の記事で、その監修(キャラの選定と執筆者のとりまとめ)を同氏が担当していたのだ。



 そこで「新保くんも何か書く?」と言われ、「書きます書きます」と二つ返事で引き受けて、何人か分の解説を書いた。執筆者クレジットも入るというのだが、一応社員編集者の立場で他社の雑誌に名前が出るのもどうかと思い、「なんか適当な名前入れといてください」とお願いして、できた雑誌を見たら「南信長」となっていた。

いしかわ氏はもとより、吾妻ひでお、江口寿史、杉作J太郎、高取英、とり・みき、村上知彦、吉田戦車、米沢嘉博……といった豪華執筆陣の中では当然一番無名だったが、今もマンガ関連の仕事で使っているペンネームは、このときいしかわ氏によって命名されたのである。 



 「南信長」デビューとなったその雑誌の名は『03』。新潮社より1989年に創刊された。タイトルロゴに「TOKYO Calling」の文字が組み込まれていることからもわかるように、東京23区の市外局番から取った誌名である。キャッチコピーは「TRANS-CULTURE MAGAZINE」。コンセプトとしては、東京発の多文化混合雑誌ということになろうか。創刊号(89年12月号)の特集は「ニューヨークに未来はあるか」。表紙は当時『ドゥ・ザ・ライト・シング』で一躍脚光を浴びた映画監督のスパイク・リーだった。ローリー・アンダーソン、山本耀司、久保田利伸、いとうせいこう、高城剛、高木完、藤原ヒロシ、山田詠美らが登場する誌面はバブル的エネルギーに満ちている。







 



 2号目の特集は「香港遊撃旅団」、3号目は「ロンドン 90年代の音楽工場」、4号目は「パリ 新世紀の三色旗」……といった具合で、創刊1周年記念号(90年12月号)が「東京 暴走する怪物都市」ときた。その特集の扉には次のような文言が躍る。



〈虚飾と破壊とが産み出したとされるこの怪物は、一瞬たりとも静止することなく、あらゆる物を呑み込みながら果てしなく膨張を続け、今や太平洋の向こう側にまでその鼻息が届くという噂だ。

異常な地価という下半身に支えられ、国際情報都市という頭を持つ怪物は、どこへ行こうとしているのだろう。新宿の夜空にグロテスクな姿をさらけ出す新都庁は、怪物都市滅亡のシンボルか、はたまた新たなる繁栄の序曲なのか?〉



 さすが「23区の土地代でアメリカ全土が買える」と言われた時代だけのことはある。『03』という東京を象徴するタイトルを冠したのも“トーキョー・アズ・ナンバーワン”の意識があったからに違いない。そういえば今の都庁ができたのもこの頃だった。コロナ禍全盛のときには赤く染まり、今はお粗末なプロジェクションマッピングに彩られている都庁。引用文末尾の問いの答えは言うまでもないだろう。 



 この創刊1周年記念号以降、同誌の特集テーマは都市を離れ、サブカル化していく。「ロックは死んだか?」(91年1月号)、「SEX―もっと深く!」(2月号)、「映画 日本映画―最後の反撃」(4月号)、「革命的ファッションの逆襲」(5月号)、そして「緊急指令065257号 越境せよ!」(6月号)では麻原彰晃と荒俣宏の対談が話題を呼んだ(この時期、同誌に限らず多くのメディアが麻原彰晃をカリスマ扱いしていたことは忘れてはならないし、今も同種の過ちを犯していないか自戒せねばなるまい)。



 前述のマンガ特集は1991年9月号。猪瀬直樹による梶原一騎論に始まり、呉智英による手塚治虫論、小林よしのり×えのきどいちろう対談、PANTA×かわぐちかいじ対談、榎本俊二×吉本ばなな対談、「ジャンル別・これがマンガの最前線」など盛りだくさんの内容だ。梶原一騎論の見開き扉は、根本敬が『巨人の星』や『あしたのジョー』のキャラをボディペインティングした女体写真だし、中嶋朋子が吉野朔実、松苗あけみ、小椋冬美のキャラクターに扮した撮り下ろしのグラビアもあり、お金がかかってる感じがする。 





 対して、私が担当した『SPY』1991年6月号の手塚治虫特集は、見開き扉のビジュアルにイラストレーター・モデラーの横山宏氏作のオブジェを使用(同氏はのちに手塚治虫文化賞のトロフィーも手がける)。

本来なら何十万か支払うべきところを格安で制作してもらったが、それでも当時の編集部の予算的には大奮発だった。一点豪華主義というか、その分、ほかのページはカリスマ節約主婦ばりのやりくりでしのいだ。







 



 そもそも『03』と『SPY』では人件費=編集部の人数からして大きく違う。上記の号のクレジットを見ると、『03』は「EDITOR」と名の付くスタッフが編集長含め12人。『SPY』は名目上の編集長である社長を含めても6人だ。戦力差は明らかだが、この時期の『03』と『SPY』は、扱うテーマや執筆陣、混沌とした誌面の雰囲気に共通するものがあった。個人的にも『03』は好きな雑誌だったし、一方的にほんのりライバル視もしていた(向こうは歯牙にもかけていなかったと思うけど)。



 しかし、『SPY』は91年10月号、『03』は同11月号をもって休刊となる。最終号の特集が『03』は「テレビ―つまらぬ電波に愛の手を」で『SPY』は「吉本興業の研究」というのも何となく重なるところがある。フジテレビや吉本興業に問題噴出の今見ると、このテーマでジ・エンドとなったのは皮肉なめぐり合わせにも映る。



 冒頭で述べたとおり、1991年はバブル崩壊の年でもあった。両誌の休刊は必ずしもそれが原因ではないが(要は売れ行きが芳しくないということで、SEX特集とかやりだすのは危険信号)、結果的に「バブルと共に去りぬ」ということになった。



 『SPY』の休刊を機に、私は会社を辞めてフリーの道を選んだ。前回書いたとおり、レギュラー仕事は決めていたし、もともとの給料が安かった(手取りで20万円に届かず)ので辞めても惜しくなかった。その時点ではまだ世間にもバブルの余熱が残っており、自分一人食っていくぐらいはどうにでもなると思っていたところもある。



 果たして、翌年には所得倍増、3年後にはめでたく年収1000万を突破した。世間的にはバブルは崩壊したが、個人的にはそこからがバブルだった(というか仕事相応のギャラをもらっただけだが)。もし『SPY』がつぶれてなかったら、そのまま会社員として安月給で働いていた可能性は高い。人生何が幸いするかわからないものである。





文:新保信長 

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