「投手陣の調子を数値に換算」長嶋野球は、意外にも“データ野球...の画像はこちら >>



今月3日、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が都内の病院で亡くなった。享年89。

プロ野球史にその名を刻む不世出のスーパースターは、華やかなプレーで球界を沸かせただけでなく、監督としても結果を残した。投手陣の調子を6項目で数値化し、「四分の一戦略」「三段論法野球」といった独創的な采配論を展開。一方で「野球はケンカのようなもの」と語り、データと人間の感覚を巧みに使い分けた。スポーツ紙の番記者たちが書き下ろした1993年刊行の書籍『真説・長嶋茂雄』(KKベストセラーズ)から抜粋して特別配信する。



■投手陣の調子を数値化

 半世紀に渡る歴史を刻んだ後、昭和六十二年十一月に解体された後楽園球場。その監督室は長嶋茂雄の六年間の歓喜と、それに勝る苦悩を見届けた。



 選手ロッカーの前の通路を突き当たり、右へ折れたところに監督室があった。今の東京ドームに比べると半分以下のスペース。わずか5坪足らずの小部屋に、事務机とかロッカーが殺風景に配置されていた。



 試合前、いつも資料を小わきに抱えて入っていく高橋スコアラーの姿があった。その日の対戦チーム、対戦投手のデータを、長嶋監督は入念にチェックした。先乗りの小松スコアラーの報告もおろそかに扱わなかった。



 スコアラーの草分け的存在だった尾張久次さんがある監督の下で先乗りスコアラーを務めた時、旅先から送り続けた報告書が封も切らずに積み置かれてあるのをオフになって見つけ、ガッカリしたという話がある。



 データを使うか使わないかは監督次第。長嶋監督の下で、スコアラーはやりがいがあった。



 対戦相手のデータだけではない。長嶋監督はたとえばこんなデータも求めた。ブルペンの捕手の所に、日々の投手陣の調子を数値に換算して報告させたのだ。



 項目は六つ。



  • ストレート
  • カーブ
  • シュート
  • スライダー
  • コントロール
  • 集中力
  •  と分けて4.5点が満点。2.5あれば先発投手としてまずまずとされた。



     そんなデータに基づいて、独特の戦略も打ち出した。



    「四分の一戦略」という表現をしたことがあった。



     野球を考える要素として①自チームの投手力②自チームの打力③リーグ全体の投打力④リーグの中で自チームの位置する力…を取り上げ、「その相互のバランスを取っていくのが戦略の基本になる」という、少し難しい理屈である。



    「三段論法野球」というのも、当時の長嶋語録に残っている。



    「一つの試合を序盤、中盤、終盤に区切って考え、あらかじめ展開を計算しておく」という意味だった。確かに投手の使い方などにその考え方は表れていた。先発と抑えだけでなく、高橋善や小川といった中継ぎ投手が、取り分け長嶋野球では重要な位置を与えられていた。



    「今の野球は、センチ野球どころかミリ野球ですよ」と冗談めかして語ったことがあったが、データの上に立って采配を振るおうとという姿勢は生半可なものではなかった。





    ■数字とアナログ感覚のバランス

     数字を重視した長嶋監督。しかし、もちろん数字だけに頼っていたのではない。こんなふうに語ったこともあった。



    「結局野球はケンカのようなもんだ。人間対人間の戦いですよ」



    「打席に入る時は、ゲートで激しく足踏みする奔馬のような気持ちになるべきなんだ」



     つまりは「数字は野球では無視できないが、数字が野球のすべてではない」ということだった。



     たとえば、相手投手と巨人の各打者との対戦成績はしっかり把握しているが、試合毎の代打の起用は、試合前の練習を自らじっくり観察することで決めた。



     その観察方法も、バッティングケージの後ろから見るだけという単純なものではない。

    セカンド後方から、あるいは外野をジョギングしながら、時にはスタンドに座って見ることもあった。



     真夏の強烈な日差しを楽しみながら、一塁側スタンド内野C席のあたりに座って、よく選手の動きを観察していた。フッとなごんだ顔になって、こんな昔語りをしたことがある。



    「中学生のころは、ほら、外野席のあの辺でよく巨人戦をみたもんだよ。そのころから、大きくなったら満員のお客さんを沸かしてやろうなんて考えてたもんだ」



     もっと意外な場所も指定席となっていた。一塁側ベンチの横に半地下の放送室があり、休憩を装ってそこに陣取りながら、視線は鋭く選手の動きを追っているのだ。もちろん選手はだれ一人気付かない。観察されているとは知らないから、普段監督の前では見せない動きを見せてしまうこともあった。



     ウグイス嬢の務台鶴さん(故人)や山中美和子さんたちは、いつもそんな監督のためにお菓子を用意して待っていた。彼女たちとの雑談を楽しみながら、その視線はチラッ、チラッとグラウンドに飛んでいる。



     ある選手が打撃練習をしている。タイミングの取り方が悪くなったと見るや、「渡辺真知子の何とかが翔んだって歌ねえ。

    あれリズミカルだからかけてやってよ」と注文が飛ぶ。



     また、長嶋監督はこんな言い方をしたこともあった。



    「いまの野球は8割方やることは同じで、あとの2割はチーム事情に応じたことをやる。その2割で失敗すればクソミソに言われるんだ」



     長嶋野球は特にその2割が良きにつけ、悪しにつけ反響を呼んだ。バスターの多用。九回二死一塁からの単独スチール。無死一、二塁でのエンドラン。スリーバント・エンドラン…。



     川上時代のヘッドコーチ、牧野茂氏(故人)は当時評論家として長嶋批判の急先鋒に立ち、



    「若い監督に言いたいことがある。セオリーは時代に応じて変わるが、それでも野球には基本的にやってはならないことがある」とまで言い切った。



     その牧野氏にしても、昭和五十一、二年の連続リーグ制覇の際には長嶋野球をベタほめしていたものである。「2割で失敗すればクソミソに言われる」とは、まさに当時の長嶋監督の実感だったろう。

    現役時代が称賛に包まれていただけに、一転批判のさらしものとなる身はいかに辛かったことか。ある大敗の試合後、後楽園を出て迎えの車まで歩く途中、残酷な少年ファンにこんな声を掛けられたことがあった。



    「負けた気持ちはどうですか」



     自宅にはやけ気味の巨人ファンから電話がかかってくる。電話帳には載せていないのにどこで調べてくるのか、嫌がらせ電話は尽きなかった。だから前回の監督時代、長嶋家の電話番号は再三変更された。



    ※江尻良文他著『真説・長嶋茂雄』(ベストセラーズ)より抜粋

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