摂食障害、特に拒食症は「緩慢なる自殺」などとも形容される。制限型にせよ、排出型にせよ、重篤な場合は生存に必要な栄養すら摂らなくなるのだから、言い得て妙でもある。
ただ、がんなどで栄養が摂れず、痩せるケースについては、そういう形容はされない。つまり、摂食障害の拒食においては当事者の意志が大なり小なり働いていると見なされるからこその形容なのだ。
そんな拒食の本質を、体現し続けているのが女優の遠野なぎこだ。2014年に「摂食障害。食べて、吐いて、死にたくて。」を書き、さまざまな心の病に苦しめられてきたことをカミングアウト。子役として芸能界入りして、体型が変化しやすい思春期にさしかかった頃、母親に、
「吐いちゃえば、太らないんだよ。ほら、やってごらん」
と、痩せる方法を教えられたことなどを赤裸々に綴っていた。
その前年には「一度も愛してくれなかった母へ、一度も愛せなかった男たちへ」を書き、両親から受けた虐待などについて告白。以来、SNSでの発信にも積極的で、かれこれ10年以上、病と闘う姿をさらけ出してきている。
昨年11月にはインタビュー(週刊女性プライム)で、
「周りに理解されないし、死にたくなるくらい苦しい。でもひとりじゃないからねと、わかってる人間がいるんだよって、伝えられたらと思っています」
と、発言。3月には別のインタビュー(文春オンライン)で、母と絶縁後「死ね」という幻聴に悩まされるようになったことや、自傷行為がひどくなったり、自殺未遂をしたりしたことなどを明かした。
なお、昨年は有名人による摂食障害のカミングアウトが目立った。
本サイトでも記事にした元AKB48・岡田奈々の動画配信だったり、モデルの関あいかが書いた「摂食障害モデル 165センチ、32キロだったわたしへ」だったり。ただ、遠野の告白は本質への迫り方において群を抜いている。「摂食障害。食べて、吐いて、死にたくて。」というタイトルや、母との絶縁で生じた幻聴、自傷行為、自殺未遂といったエピソードから、死の代償行為としての病という実相が浮き彫りになっているからだ。
死にたいけど死ねない、そのかわり、食べたり吐いたり、痩せたり切ったりしながら、生きづらさをまぎらわす、そのこと自体も「死にたくなるくらい苦しい」ことだけど、一瞬だけ楽になれたりもするという切羽詰まった状況。特に拒食で病的に痩せることは、自らの苦痛を具現化して周囲から心配されることにもつながる。たとえ「緩慢なる自殺」のようであってもなお、拒食にはそれだけの効果があるのだ。
それゆえ、その効果を理解し、死ぬかわりに痩せる、という行為を自覚的に実践する人も増えてきた。
「死にたいけど痩せ姫としてならまだもう少し生きながらえてもよい」
「痩せ姫として生きると決めている 痩せていないと生きていけない 痩せていないときっと自死する」
などとSNSでつぶやく人がいたりする。もちろん、痩せ続けながら生き続けることは不可能なので、命を落としてしまう人もいないわけではない。
5年前に32歳で亡くなったSさんもそのひとりだ。バレエきっかけの摂食障害のほか、うつ病やパニック、過呼吸、睡眠障害などにも苦しめられていた彼女は晩年「痩せ」を極めることに生きる意味を見つけ、こんなことをSNSに書いていた。
「痩せてなくちゃわたしじゃないんです。痩せてなくちゃ自分を大切にしてあげられない。痩せてなくちゃ自分を愛してあげられない。わたしはもう、心の声を大切に生きる。痩せ姫として生命の灯火が消えるまで。ほっといてよ、そっとしておいてよ。もう充分頑張ってきたんだから、消え方くらい好きに選ばせてよ。まだ頑張って生きなきゃいけないの?そこまでして命長らえてなんになる?いろんなことあって仲良し家族になれて、めでたしめでたしハッピーエンドでいいじゃない。
そこから一年余りあとには「早く死にたい」から「いつ死んでもいいやー」に変わったという前向きな(?)つぶやきも。ただ、そのつぶやきから4日後、母親が彼女の代わりに、こう報告した。
「とうとう心臓が止まり 永遠の眠りにつきました。母親としてはまだ受け入れ難い事実です。でも もうこれで苦しみから解放されて、痩せ姫からオーロラ姫になれます。悲しまないでくださいね」
そんな彼女の最期から連想されるのは「緩和ケア」というものだ。もっぱら、がん末期の苦痛に対して施されるが、それに限らず、死にたいほどの生きづらさ全般においてそういうものがあってもよいのではないか。Sさんにとっては「痩せ」を極めることが、一種の緩和ケアだった。
こういう人は彼女だけではない。「痩せ」を極めることに生きる意味を見つけ、両親を納得させ、その意志を貫いて、21歳で亡くなった人がいる。
その最期については、拙著『痩せ姫 生きづらさの果てに』の版元経由で、彼女の父が筆者に送ってくれた手紙で判明した。そこには「多分、人生で最高の時間を過ごせています」などと綴られ、自らの死後に届けられることが前提だったことから、
「やっとなんです。
とも書かれていた。
こうした生き方及び死に方に憧れる痩せ姫も少なくない。それがなぜなのか、参考になるかもしれない指摘がある。前出の本のまえがきで紹介した心理学者・植木理恵の言葉だ。
「人はみな死にたいんです。でも、めちゃめちゃ生きたくもある。死にたいけど生きたいという問題を解決するのは、死ぬことなんです」
つまり、人生を深く考えれば考えるほど、死に誘われやすいともいえる。実際、生と死の問題を突き詰めがちな宗教家や哲学者、芸術家たちにも拒食に惹かれ、痩せを極めて死ぬ人たちがいる。断食によって即身仏や聖女を目指したり、シモーヌ・ヴェイユやフランツ・カフカのように粗食や菜食をしながら思索に耽り、その不健康な生活が命取りになったり。現代の痩せ姫たちもその根底には、生をめぐる深刻な葛藤があり、人生の本質に迫った発言は宗教や哲学、芸術におけるそれを思わせたりもする。
もともと「痩せたい」気持ちも強いから、それを極めることで死に近づき、楽になりたいという方向へも進みやすいわけだ。ただ、がんにおける緩和ケアがほぼ死を迎えるための準備であるのに対し「痩せ」を極めるという緩和ケアはそれだけとも限らない。
前半で触れた遠野なぎこは、なかば絶望しつつも、何かが変わることを期待してさまよっているのかもしれない。いや、多くの痩せ姫がそういう闇のなかで光を探しているのだろう。(再配信)
文:宝泉薫(作家、芸能評論家)