頻繁に叫ばれ、社会を住みにくくしている言葉がある。「ハラスメント」「キャンセル・カルチャー」「マインド・コントロール」だ。
◾️「ハラスメント」とはそもそもどういうものか?
「ハラスメント」はもともと「いじめ」とか「嫌がらせ」を意味する英語であり、法律や組織のルールとして明文化しにくい問題、セーフ/アウトを判定しにくい人間関係をめぐる問題に対処するために用いられるようになったものだが、近年この言葉は濫用されがちだ。“ハラスメント”の疑いをかけられた有名人が、社会的に抹殺(キャンセル)されることがしばしば起こる。「ハラスメント」とはそもそもどういうものか考えてみよう。
私はさほどの有名人ではないが、ネット上で絡まれることはしょっちゅうある。全く根拠のない、筋が通らない言いがかりに対し、「バカだな」と返すと、どこかの学生・院生らしき、あるいは、そう装っている人間が、「教授がバカだと言った。アカハラだ」と言い出すことがある。アカハラをどう捉えているのだろうか。自分が教えたことのない、どころか、どこの誰とも分からない匿名の人間に対してどうやって“ハラスメント”をするのだろうか? 大学教授は、学生を自称する匿名の人間を叱責したら、それだけで“ハラスメント”になるとでも考えているのか。
更に言えば、先日、そういう連中の中に、わざわざ私の勤め先に、「仲正はネット上で私たちにバカ、バカ言っている。学生にも言っているに違いない。アカハラだ。
上記の私の経験はかなり極端な例だが、こうしたネットで蔓延る「ハラスメント」の水増しから逆算する形で、本来の「ハラスメント」とはどういうものか考えることができる。先ず、「ハラスメント」が成立するには、最低限誰から誰へのハラスメントなのか人物を特定しないと、意味をなさないだろう。ハラスメントを受けたとされる人の実名を公にする必要はないが、どこの誰か分からない、名前を知らないだけではなく、性別、年齢、職業、国籍、居住地域も知らない匿名の人間に対し、「ハラスメントを行なった」と主張するのは無意味である。確認しようがないのだから。
◾️「セクハラ」「アカハラ」とされる決定的な要因とは
法的・規範的な意味での「ハラスメント」と単なるトラブルや嫌がらせを区別する決定的な違いがあるとすれば、それは、前者が、実社会での権力関係に基づいているということである。
「セクシュアル・ハラスメント」を法的概念とし定式化したのは、反ポルノ条例案でも知られる――BEST T!MESに掲載した拙稿『自発的に性産業で働いている人たちのことをフェミニズムは一体どう考えているのか?』を参照――ラディカル・フェミニストのキャサリン・マッキノン(一九四六― )である。マッキノンは、『働く女性のセクシュアル・ハラスメント』(一九七九)で、「最も広く定義したセクシュアル・ハラスメントは、不平等な力関係(unequal power)の文脈における性的要求の望まれない押し付けを指す」と述べている。
◾️「パワハラ」に明確な基準はあるのか?
厚生労働省のHPでは、「パワー・ハラスメント」は、「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの3つの要素を全て満たすもの」と定義されている。「セクハラ」は、その一部と見なされているようで、「「職場」において行われる「労働者」の意に反する「性的な言動」により、労働者が労働条件について不利益を受けたり、就業環境が害されること」とされている。
こうした定義からも、組織的な権力関係があり、上下関係ゆえに一方の要求、願望を他方が拒否できない状況での嫌がらせや押し付けを拒みにくい状況を念頭に置いているのは明らかだろう。ただ、「ハラスメント」は、通常の法律・道徳概念のように、これをやったらアウトで、これならセーフという明確な基準がない。どうして、そういう曖昧なものが法律用語に参入してきたかというと、それは、近代社会では当人同士の「合意」が、合法性・正当性の基準になっているからだ。
他人の身体にメスを入れたり、医薬品の実験材料にするのは、原則違法だが、本人が合意していれば合法である。格闘して相手にケガをさせれば、犯罪であれば、事前に試合に関する合意が成立していれば、合法である。暴力でセックスを強いれば強姦罪になるが、相手が暴力的に振る舞うことについて合意していれば、原則罪に問われない。
ただ、形の上では「合意」した、あるいは、明確な拒絶の意志を示していなくても、相手の権力を恐れてのことで、実質的な合意はなく、強制によるものではないか、と疑われる場合もあることを私たちは経験的に知っている。そこで、形式的な「合意」があっても、権力関係による圧力が明白な場合は、実際には強制であり、刑法上の犯罪であるかは別にして、違法だと認定するために、「ハラスメント」という概念が導入されたのである。
「ハラスメント」を適用する際の基本はあくまで、組織的な権力関係があることと、それゆえに合意があったかどうかが疑わしい状況があったということだ。何か個人的なトラブルがあり、一方が社会的地位や知名度が高かったら、それだけでハラスメントになることはあり得ない。そんなことを言い出したら、全ての争いごとはハラスメントになってしまう。
◾️有名人をターゲットにしたキャンセル運動の内実
また、実際に「ハラスメント」であったかどうか認定するには、最低限、①それが組織の運営に必要な指示・指導の範囲を逸脱していたかどうか、②相手が本当はそれを嫌がっていた、受け入れていなかったことを認識できる指標はあったのか――の二点ははっきりさせる必要がある。「本人が嫌だと思えば、ハラスメントだ」という言い方があるが、それはあまりにミスリーディングだ。正確には、「本人が嫌だと思ったのであれば、どういう行為であれ、ハラスメントに当たる可能性が生じる」であって、ハラスメントを受けたと言う側の言い分がそのまま通るはずがない。①と②について第三者的な視点から検討しなければならない。法学では、「通常(理性)人 reasonable man」の基準と言う。
ただ、「第三者」と言っても、本当に客観的な立場の第三者などいない。よく言われるように、たとえ悪意やエコひいきのつもりはなくても、男性は男性の、女性は女性の、会社経営者は経営者の、労働者は労働者の、医者は医者の、患者は患者の、〇〇人は他民族ではなく同じ〇〇人の視点に同化して判断しがちだ。
本来は認定が難しいはずなのに、有名人をターゲットにしたキャンセル運動では、ハラスメントを受けたという“被害者”が名乗り出ると、「被害者が名乗り出ているのだから、何もなかったはずはない」という雑な断定によって、“より有名人”である方がハラスメントをしていたと決めつけられ、裁判も正規の調査もないうちに激しい攻撃に晒される。これは、「ハラスメント」概念の水増しである。本来の適正な意味で使うようにしないと、一方的なネットリンチの口実にされるし、インフレ・濫用のために「ハラスメント」という言葉が軽くなっている。
◾️雑なマインド・コントロール論の濫用が社会を悪くする
こうしたハラスメントの曖昧さは、統一教会問題やホスト問題に見られるマインド・コントロール(MC)論の濫用とも繋がっている――詳しくは、これまでBEST T!MESに掲載された拙稿『「統一教会問題」と「ホスト問題」の意外な共通点とは』などを参照。信者の高額な献金や女性客の金遣いが、たとえ形の上で自発的な合意によるように見えても、第三者から見て、おかしいということはある。しかし、本人がやめようと思えばやめられるはずの宗教やホストクラブに、企業や学校と同じ「ハラスメント」概念を適用することはできない。反統一のサヨクもさすがに、高額献金をハラスメントとは呼ばない。
そこで組織的な圧力の代わりに、MCによって断れない状況に追い込まれている、ということにしてしまう。無論、MCされている状態とはどういう状態か科学的に定義されていないし、その人がどういう状況でどうMCされて、何を具体的に決めたつもりにさせられたのか、明らかにされることはない。悪い(と予め決まっている)奴を、思い切り叩き潰すための口実にすぎない。
「ハラスメント」の方は、問題・領域ごとにかなりのばらつきがあるものの、徐々に判定のためのルールが整えられつつあるが、MCについてはそんなものは一切ない。統一教会問題の推移を見る限り、私はMCされたと本人が主張すれば、そのまままかり通ってしまうことになりかねない。理不尽な要求でも断りにくい関係性、心理的な状況で、「ハラスメント」を当てはめにくいものがあるのは確かであり、それを法はどう扱うべきか考える必要がある。しかし、それを「MCによって心が操られ、自由意志がない状態…」と断定するのは雑すぎる。
近代社会の基礎になっている「合意」が本当に自発的なものなのか、何かの強制によって「合意」したふりをさせられていないか疑い、いろんな角度から吟味することは必要だ。しかし、疑わしいからといって、関係ないネット民が強制によるものと勝手に決めつけてハラスメント認定してキャンセル運動を起こしたり、怪しい集団だと思ったら、MCだと騒ぎまわって相手を追い詰めるといったことが頻発したら、余計に住みにくい社会になる。
文:仲正昌樹