早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。
◾️「過去の私」が教えてくれたこと
「最近投稿している写真とか見てて思ってたんだけど、前より表情が良くなったというか、周りにいる人を含めて雰囲気が優しくなったよね。何というか、良い意味で肩の力抜けている感じ」
親友の運転教習に付き合っている帰り道、遠方に引っ越してしまった友達から電話で伝えられた。隣であたふた運転している親友に思わず視線を送ると、彼女も同意見だったようでどうにか首を縦に振っていた。
ーーそうかな、いやそうだと思う。
見た目的な変化で言えば、髪の毛を数年ぶりにブリーチして金髪にした。誰かのウケを意識していた丈の長いスカートや高いヒールの登場回数はめっきり減った。身体に刻んだものは隠さなくなったし、つい先日また一つ大きく刻み込んだ。夏の湿気にやられて患部の不快な痒みは治っていないが、あと2週間ほど経ったら完全に私の一部となってくれるだろう。どう頑張っても一般のプールや温泉施設には入ることができない見た目となったけれど、風呂場の鏡を見るたびに、衣服の端から姿が覗くたびに、歪な隙間を埋められている安心感に浸っている私がいる。
画面に指を滑らせ、カメラロールにずらりと並んだ写真を見返していく。
写真の中の私は、他の誰の名前でもなく「私」として写っている。昔の私は誰かの“女”としての顔、誰かにとって都合のいい“役割”の顔ばかりをしていた。それを本当の私だと信じて疑わなかったことが、今となっては少しだけ不気味に思えてしまう。
好きなことをやった方が、生きやすい。
言葉にすると途端に陳腐で、どこか自己啓発本の一文みたいに思えてしまうけれど、実際のところそれ以上でも以下でもないのだと思う。
好きなことをやっていても、もちろん全てが上手くいくわけではない。以前よりも誰かの顔色を窺わない分だけ、真正面からぶつからないといけない瞬間がある。言葉を尽くしても、手を尽くしてもどうにもならずに投げ出したくもない。でも嫌いなことをしているときに受ける傷の方が、ずっと後に長引く。誰のためかもわからない行動で削れていく自分ほど、救われないものはないと過去の私が教えてくれた。
◾️誰かの願いを映し出す人形ではない
好かれたくて選んだ服、正しそうだから選んだ言葉、期待に応えるための笑顔。
それらをひとつひとつ脱ぎ捨てていくようにして、私はようやく好きなものを手に取りはじめた。無理をしない、ではなく、自分に嘘をつかないというだけで、世界の温度がほんの少しだけ変わる気がした。
誰かに見せるための正しさではなく、自分がまとっていて安心できる正しさを。
真正面から好きなものを好きと言い、好きな人に好きと伝える。
たったそれだけのことに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろう。もう誰かの目を気にして喉の奥に押し込めたりはしない。自分の心だけが知っている嘘の重さに、もう耐えきれないから。
今、私の周りにいる人たちの輪郭は、やわらかくて温かい。
そこにいる私も同じようにそうでありたいと思う。
誰かの理想に寄せた私ではなく、好きなことをしている私を好きになってくれる人たちの中で、ようやく背負ってきた重荷を降ろして、何の意図もない笑顔を見せられるようになった。
私として息をしている実感が、少しずつ身体に馴染んでいく。誰かの願いを映し出す人形ではなく、私として、これからの時間を刻んでいきたい。
文:神野藍