早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。

いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と偏愛」#12は「一通の手紙を添えて最後の献本をした後に、私の元に届いたメッセージ」





◾️本当に渡さなければいけない人



 真っ赤な箱の前で立ち尽くしている。両手に抱えたものをそのまま銀色の小さな口に入れていいのだろうか。時刻は24時前。このまま意味のあるようでない時間を過ごしても、何も起きることはないだろう。悩んでいる自分自身が情けなく、それは段々と怒りに変化した。思い切って抱えたものを差し込み、その姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。カタンと音がして、もう時を戻すことができない合図を受け取る。どう転んでも事実は変えられない。数十分前に歩いてきた道を引き返し、そのまま今夜起きた全てを忘れようと眠りへと落ちた。





 最後の献本をした、赤い縁のレターパックに、一通の手紙を添えて。





 そもそも発売前に関係者へは送り終え、私の手元にあった10冊の在庫も大半が執筆中にお世話になった人や仲の良い人に配り終えていた。

残る数冊は保管用に取っておこうと本棚に並べていた、はずだった。ずっと頭の中で「本当に渡さなければいけない人」を考えては、「送ったところで突き返されるだけだ」と勝手に答えを出し、話を終わらせていた。わざわざ私の柔らかい部分を荒らすような真似はしたくない。そう思いながら日常を過ごしていた。





 少しだけ時間を戻そうと思う。





 私には他人には簡単に見せられないような傷を抱えていた。いくら私の言葉に変換しようが、いくら親しい人に話そうが解決できないようなものたち。それらを上手く綺麗に身体の中に押し込んで、さも「全て乗り越えてきました」という涼しい顔をしてやり過ごしていた。神野藍として取り繕えても、私の中には深く深く根を張り、変わったようで変わらない日々を送っていた。手放せなかった、というよりも手放すことを選ばず、ちゃんと前に進んでいるように見えれば、それだけで十分に満足していた。私を縛る社会性の鎖が緩んだ瞬間に、顔を出して、深い付き合いをすればするほど厄介な姿が見え隠れしていた。





◾️私の中に巣喰う怪物



 目の前に、朝のような人間が現れた。



 本人は夜型だと笑って間に受けなかったけれど、私からしてみれば「私の中に生まれた感情」を無に返してくれるような温かさと力を兼ね備えていた。眩しいなと素直に思っていた。歩いてきた道も、それこそ獲得してきた言語も違う感覚があって、何時間も話し続けた夜が不思議でたまらなかった。暫く執筆も順調だった。更新される度に送られてくる感想を読むのが毎週の楽しみになり、少しずつ紡ぎ出される言葉も、私自身も変化が起きているのを感じていた。ただその反面で、私の中に巣喰う怪物はじりじりと灼かれていっていた。眩しい。羨ましい。でも、そんな人を私と同じところまで引きずり落としたい。私の中で何かが分裂していく。分裂していくほどに、現実の時間に黒い影を落としていた。そして、それを直視して何か手を施すほどの勇気があの頃の私にはなかった。



 どれだけ神野藍としてどんなに前に進んでも、私としては深い巣穴に置いて行かれたままで、何かに触れている感覚がなかった。最後は私が相手の身体の中心まで引き裂いて、柔らかいものを抉り出してしまった。



 子供だったな、と思う。それだけでは済まされないのは分かりながら、そう表現するのが最も適切であった。そして時間が経つごとに、相手を許せない感情よりも私が私を許せない感情が上書きされていった。





◾️ようやく手元に帰ってきた言葉



 ここ数ヶ月、次の場所に向かう準備が進んだことや新しく関係を結んだ人間のおかげもあって、私が纏っていた分厚い皮を選択的に剥がし、巣穴に閉じこもっていた怪物はいつの間にか陽の光を眩しそうに見上げていた。ただ、少しずつ変化が訪れる中で、影を落とした記憶はより一層濃くなるばかり。



 最後まで自分勝手だな、というのは承知の上で、長らく本棚に置いてあった紺色の本を手に取り、大きな封筒の中に詰め込んだ。





 数日前、私の元に届いたのは返送されてきた封筒ではなく、一通のメッセージだった。





 今の私なら、すんなり言葉を言葉のままで受け取れていた。これが許しなのかは分からないけれど、24歳のあの日に渡した言葉がようやく手元に帰ってきた。それと同時に遠くのどこかに味方が一人増えたような気がした。





どうか、幸せが降り注ぎますように。



そう静かに祈って、元の世界に戻っていく。隣で私の手を握ってくれる人がいて、私自身もようやく、私を支え始めている。私の世界にも光が差し込んできたようだ。





文:神野藍

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