曖昧な告発と世間の空気によって犯罪者にされたジャニー喜多川と、潰されてしまった事務所。その流れは、今年の中居正広、さらには国分太一をめぐる騒動にも引き継がれている。

悪役を作って叩きまくる快楽。しかし、その流行は誰もが叩かれる対象になる時代の到来ではないのか。そんな違和感と危惧を、ゲス不倫騒動あたりまで遡り、検証していく。第6回は「『ゲス不倫』で始まった、メディアと世間が〝法を超えて〟裁く〝私刑〟のブーム。ジャニーズはその最大の犠牲者だ」



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第6回「ゲス不倫」で始まった、メディアと世間が「法を超えて」裁く「私刑」のブーム。ジャニーズはその最大の犠牲者だ



 SMAP解散騒動でジャニーズ事務所が揺らぎ始めた2016年、芸能界、ひいては大衆の気分を大きく変えるもうひとつの社会現象が起きた。ベッキーの「ゲス不倫」から始まった「文春砲」ブームだ。



 20年には「あれから4年、ゲス不倫騒動のベッキーはいつになったら許されるのか?」という記事を書いたが、そこから5年たっても、ベッキーの復権は認められていない気がする。それどころか、彼女の再始動を手助けした中居正広も、真相不明のスキャンダルで消えてしまった。



 「ゲス不倫」が有名人叩きにもたらした影響は大きく、今となっては「禍根」と呼びたいほどだ。あれ以降「不倫はウケる」という認識が大々的に広まり『文春』以外のメディアもこぞって、この手のネタに殺到。あたかもゴールドラッシュのような状況が、今も続いている。



 それはもちろん、不倫ネタという「ゴールド」を消費する読者や視聴者が大勢いるからに他ならない。いわば、誰かの不倫をみんなで叩くことが新たな「エンタメ」として確立してしまったのである。



 そのきっかけというべき「ゲス不倫」では、文春砲の二の矢三の矢というものも注目された。当事者たちの否定的言い分を次々と覆してみせるやり方に、世間は一種のゲーム感覚を共有しつつ、一緒に楽しめるわけだ。



 また、この成功は「文春が書くことはけっこう事実っぽい」というイメージにつながった。これがのちのち、ジャニーズ騒動でも意味を持つことに。告発者の証拠なき証言だけで文春報道を鵜吞みにしたり、過去の裁判で文春がジャニーズに勝訴したと誤解したりする人が続出したのは「文春砲」のブランド化によるところが大きい。



 なお、二の矢三の矢のほか、布石というものもある。ジャニーズ騒動においては、15年の1月に「ジャニーズ女帝メリー喜多川 怒りの独白5時間」(週刊文春)という記事が出た。事実上の経営トップだったメリーが、SMAPのマネージャー・飯島三智を嫌っていることが、そこで表面化。メリーの娘でありながら、母に反感を持つ藤島ジュリー景子は最近、この記事についてこんな感想を語っている。



 「正気じゃないと感じました。

記者がいる場に社員を呼び出して吊るし上げるなんて明らかにおかしいことだし、そこで口にしていた言葉もむちゃくちゃだし」(『ラストインタビュー 藤島ジュリー景子との47時間』早見和真)



 実際、こうした言動はメリーにとって悪手となってしまう。記事が出た1年後に、SMAPの解散騒動が始まり、メリーと飯島の確執が明らかになったからだ。これは記事の内容を裏付けただけでなく、メリー、ひいてはジャニーズ事務所にネガティブなイメージをもたらした。そのイメージが、のちのジャニーズ騒動でも、マイナスに働いてしまうのだ。



 



 それはさておき、話を不倫に戻すと――。



 「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」という言葉がある。不倫に首を突っ込むのは野暮な行為のはずで、そのあたりはメディア側だっておそらく承知の上だ。



 たとえば、筆者は18年に文藝春秋の木俣正剛常務取締役(当時)と再会した。『週刊文春』や『月刊文藝春秋』の編集長も務めた彼は重役室から編集部の方向を眺めつつ「毎週毎週、不倫ネタというのもねぇ」などと自嘲気味に話していたものだ。



 なお、再会した理由は筆者が01年に別の出版社から出した著書を再編集した本を作るためだったが、これはあまり売れなかった。商売である以上、売らなければならないわけで、それゆえ、メディアも不倫をネタにし続ける。それこそ、この年に起きた渡部建(アンジャッシュ)の「多目的トイレ不倫」を報じた『文春』は完売したという。

このとき、筆者はこんな文章を書いた。



 「もともと、近松門左衛門の時代から、不倫はメディアと世間が一緒になって盛り上げてきたが、ここ数年の勢いには目を見張らされる。いまや『不倫報道』がひとつの文化になりつつある印象だ。たとえば、渡部と佐々木希、相方の児嶋一哉が示した三者三様の謝罪を比較研究してみたり、と、変にアカデミックなのである。そして、不倫をした有名人は活動自粛を強いられるのが当たり前になってきた。これは芸能、あるいは笑いといった伝統文化を、不倫報道という新たな文化が凌駕してしまったということかもしれない。ただ、その新文化は、有名人の活動を自粛させてまで味わう価値があるのだろうか。アンジャッシュ、あるいは渡部もそれなりに面白いのだし、不倫報道を楽しみつつ、同時に本業でも頑張れ、というわけにはいかないのだろうか。もちろん、主婦層を中心に、許せないという人も一定数いるだろう。が、あんたが不倫されたわけでもあるまいし、とか、人の恋路を邪魔するやつはなんとやら、とか、そんなことも言いたくなるのだ。とはいえ、不倫報道を楽しむ人がこれほど多くなってくると、そこに水を差すほうがかえって野暮だということにもなりかねない。どうやら、不倫報道は現代日本を象徴する『文化』として定着してきたようである。」



 さらに付け加えるなら、自分が裁く側になったつもりで「まだまだ許してやらない」とじらしていたぶる快楽も生じ始めているように思う。

不倫をした有名人が復帰しようとしても、苦情を入れて邪魔しようとするのはその快楽を味わうためだろう。本来、許す許さないは不倫に関わった当事者だけの問題のはずだが、SNSの発達もあいまって、メディアと世間と有名人の関係性がいびつに変化。その結果、第三者というか赤の他人まで、不倫を裁けるような空気感ができてしまった。





 そんななか、ジャニーズ騒動が勃発。真相不明とはいえ、勝ち組と思われていた芸能事務所で未成年へのセクハラが大量に行なわれていたかもしれないという疑惑は、叩いて裁く快楽に目覚めた大衆を熱狂させた。



 不倫ですら許せないのだから、それ以上に由々しき問題が起きていたとすれば、もっと徹底的に叩いて裁いてやろうというわけだ。



 そこには、性愛の絡んだ不道徳なものを拒絶したいという気分の高まりも影響している。いや、極端にいえば、性そのものを嫌悪する感覚だ。



 それを実感させられたのが、コロナ禍が始まった20年、志村けんが亡くなったときのことだ。訃報にかこつけ、彼の「下ネタ芸」を批判する声が一部で起きることに。これに危機感を覚え「『日本の喜劇王』志村けんの死で終わりかねない、笑える性教育という文化」という記事を書いた。志村の「下ネタ芸」は、特に子供たちにとって、そういう役割も果たしていたからだ。



 ジャニー喜多川をめぐる噂についても、性教育のようなところがあったのではないか。噂の真偽はさておき、なるほど、そういう趣味の人がいるのか、そこからああいうエンタメが生まれるのか、人間って面白いな、などという妄想をかきたてられた人もいるはずだ。もちろん、逆に、そんな趣味なんて許せない、そこから生まれるエンタメなんて嫌いだと感じた人もいるだろう。



 ただ、その噂は噂のまま終わった。死後も事件化していないのだから、それは犯罪でもないわけで、噂をどう思うかは人それぞれの価値観だ。



 ここではっきりと言えるのは、普遍的な利便性志向が生み出す「文明」と違って「文化」は個性的な多様性嗜好から作られるということ。結婚がもっぱら人類共通の文明となってきたなか、不倫に走ってしまう人もいて、そこから面白い芝居や小説も世に出たりした。石田純一の「不倫は文化」発言もそういうことを意味していたわけだ。



 が、その時代に比べ、今は不倫の捉えられ方が変わってしまった。「文化」というより、法を超えた「悪」として見なされるようになったのである。



 それゆえ、メディアと世間が一緒になって、裁くこともできてしまう。そんな流れのなかで、ジャニーズ騒動もまた、法を超えた「悪」として処理されたわけだ。



 そのため、法的にはなんの問題もないにもかかわらず「法を超えた救済」をするハメとなった。それを提案したのが、弁護士を中心とした集団だったのだから、もう馬鹿げているとしかいいようがない。メディアや世間のみならず、司法関係者まで「悪ノリ」しているわけだ。



 そしてついには、そういう空気によって元首相が暗殺される悲劇も起きた。第7回では、そのあたりにも触れることとする。



 



文:宝泉薫(作家、芸能評論家)

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