『あんぱん』が終わり『ばけばけ』が始まった。NHKの朝ドラの話だ。

それなりに愉しめた『あんぱん』だが『ばけばけ』にはなんともいえない解放感がある。ヒロインのモデルである小泉セツは昭和初期に亡くなっていて、第二次世界大戦中の日本が描かれる心配がないからだ。



 筆者は5年前『「エール」五郎「麒麟」義昭の共通点、朝ドラ・大河における戦争観の歪みと葛藤を考える』という記事を書いた。2020年度前期の朝ドラ『エール』は「軍歌の覇王」とも呼ばれた作曲家・古関裕而が主人公のモデル。しかし、その軍歌を手がけたことについて、史実にはない過剰な反省をする場面が盛り込まれた。以下、その記事から引用してみる。



 



・・・・・・ではなぜ、そういう史実に近い姿が描かれなかったのかといえば、盛り上がりに欠けるから、感動的でないから、というのが大方の見方だ。たしかに悲劇的要素もないと、ドラマは盛り上がらないし感動も生みにくい。ただ、その根っこにはやはり自虐史観がある。作り手も視聴者も、あの戦争は悪、われわれ日本人は反省すべきだという感覚を前提にしているため、ともすれば過剰なほど、戦争の暗さや残虐性が強調されるし、悲劇的効果もいっそう高まるのである。象徴的なのは、主人公が恩師の戦死の直後に泣きながらうめく台詞だ。



 「僕、僕、何も知りませんでした。

何も知りませんでした。ごめんなさい。ああ、ごめんなさい」



 この「ごめんなさい」は計6回出て来るが、正直、いたたまれなかった。いまだに中国や韓国に謝れと言われ、米国が落とした原爆についても「過ちは繰返しませぬから」と誓い続ける日本の姿まで重なって見えたからだ。・・・・・・



 



 そんな『エール』の最終回は、番外編的な趣向で、キャストたちが古関メロディーを歌うというコンサート形式。だが、軍歌は完全に省かれてしまっていた。古関の業績の一部が黒歴史扱いされているようで、これについてもいたたまれなかったものだ。



 そして『あんぱん』はといえば、主人公もその夫も青年期に第二次世界大戦を経験する。主人公は「愛国の鑑」と称えられる教師となって、軍国教育を行い、のちの夫は召集されて、飢餓による栄養失調や弟・友人の死など苛酷な目に遭う。戦後、世の中の価値観が一変したことに主人公はショックを受け、夫とともに「逆転しない正義」を模索していくという流れだ。言わずと知れた、その夫が漫画家のやなせたかし(劇中では、柳井嵩)で、ふたりはともに『アンパンマン』という平和的なヒーローを作り上げるという成功譚である。



 戦地でのパートでは、中国人の男の子が母を殺した日本兵になつきながらも、最終的に復讐を遂げるエピソードが挿入された。

やなせが手がけた『チリンのすず』という羊と狼の物語が参考にされているらしい。



 せめてもの救いは、ドラマと戦争が重なった時期が5月から6月だったことだ。毎年、テレビをはじめとするメディアのあちこちで、戦争への反省がしつこく呼びかけられる夏ではなかった。ところが、これで安心と思いきや『あんぱん』は最終盤の9月、昭和の晩期が描かれる時期にも戦争を持ち込んできた。何人もの登場人物の癒しきれない葛藤が呼び起こされ、それによって戦争の悲惨さを強調することで、アンパンマンの平和性をさらに際立たせる狙いだったのだろう。 



 これにはちょっとやりきれない気分になった。その気分は政界において、戦後80年が過ぎてもなお「談話」とか「見解」とかを発出しようとする動きに感じるやりきれなさとも通じるものだ。





 その動きの中心にいる政治家について、筆者は姿を見るのも声を聞くのも拒絶している。名前を書くのも不快なので、この記事に写真が使われたりしたら卒倒するかもしれない。ただ、その動きに同調する人たちもいて、それはこうした反省めいた行為がじつは心地よい快楽だからだろう。



 そもそも、彼らとて反省すべき当事者ではなく、そのぶん、お気楽な行為なのだ。この流れは終戦直後に首相を務めた東久邇宮稔彦王による「一億総懺悔」から始まったが、そのときは意味も効果もあった。

ケンカに負けた側が謝り、反省をアピールして許しを請うことは、不利益の軽減や立場の回復につながるからだ。



 しかし、強国に復帰し、かつての敵国との仲も修復した時点でその必要はなくなる。そもそも、戦争はそのときどきの利害関係から必然的に生じるもので、どちらが良いわけでも悪いわけでもない。



 局面が変わればそのつど切り替え、時がたてばたつほど、あれは昔の人がやったこととして済ませていくに限る。



 そういう意味で、10年前に当時の安倍晋三首相が発出した「70年談話」は遅まきながら、上手く区切りをつけるものだった。こんな文言が盛り込まれたからだ。



「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」



 これについて、筆者は当時こんな感想をつぶやいていた。 





・・・・・・戦争と人間を分けたがる人も多い。戦争は絶対にダメだが、人間は本来ダメじゃない、みたいに。でも、平和を願うのも、戦争に走るのも、同じ「人間性」だという認識を持たないと見えてこないものがある。平和を願うなら、たぶん、なおさら必要な認識。

そういえば昨夜、妻に「戦争って何だろうね」と問われ「危険だが、なかなかやめられない伝統的な祭り」にたとえてみた。ただ、二度の大戦、特に最終段階の原爆投下はある意味、世界的な抑止力になってるのでは。人類の平和に、日本は結果として身を挺して貢献してるのかもしれない。昨夜、安倍談話について考えながら、この中にあるように、こういうのはもう終わりにしていいのではと感じた。例年以上に目立ったテレビの戦争特番も、是非論や善悪論でやってると、意見の両極化を助長する弊害があるし。戦後生まれに謝罪を背負わせない云々の文言には、評価と感謝をしたい。あと、安倍首相も戦後生まれなわけで、そのあたりも巧くできてるなと。そういう意味では、村山談話は仕方ないし、今上帝の姿勢もわかるのだけど、次の天皇はもう語る必要はないだろう。そこまで行ってようやく戦後が終わる。本来はサンフランシスコ講和や日中共同声明で大方済んでるはずなのだけど。・・・・・・





 10年後の今も、だいたい同じ認識だ。それゆえ、いまだに反省したがる人にはもどかしく感じるし、その共有を強制されてはたまらない。



 こういう反省には、意味も効果もないのだ。むしろ、反省を繰り返すことで平和が保てるというのは、憲法九条さえあれば攻め込まれずに済むというのと同じで、危険な絵空事だろう。建設的な対策を怠らせてしまうという点で、弊害にもつながる。



 



 さて、話を朝ドラに戻そう。『あんぱん』で主人公が「愛国の鑑」として邁進している頃、こんなタイトルのネットニュースを見かけた。



 『大罪を犯すヒロイン…「あんぱん」は朝ドラ史上最も残酷な物語に 空虚な正義と身近な正義が対立』



 なんというか「大罪」や「空虚な」という決めつけにモヤっとしたものだ。また、80年も過ぎた今、その結果を十分に知る立場からの後出しじゃんけん的な気楽さも感じてしまう。ドラマとはいえ、その時代を一生懸命に生きていた人たちへの敬意にも欠けているのではないか。



 ただ『あんぱん』がそういう捉え方をされる構造を持っていたことも否めない。戦争を反省してやり直したからこそ現在の日本がある、というのは、史実以上に強く深く日本人の精神性に刷り込まれてきた神話のようなものなのだ。そこに忠実なほうが感動を生みやすい。『あんぱん』の感動は、そんな神話化された予定調和を貫いたことでもたらされたといえる。



 もっとも、予定調和の到達点が「逆転しない正義」というのはどうなのだろう。これは「絶対的正義」とも言い換えられるが、そもそも、人間のやることに「絶対」はない。『あんぱん』はやなせたかし夫妻が持つアンパンマン的なゆるい楽天性が底流にあったおかげで、全体的に押しつけがましさが希薄だったものの、それでも「正義」の連呼にはうるさくも感じた。正義というのは、戦争との親和性も高く、取り扱い注意なものだからだ。



 実際、反省だけでは建設的対策が生まれないように「逆転しない正義」が今後の有事に効果的だとも限らない。そういえば「70年談話」の頃、こんなツイートもしていた。



 



・・・・・・個人的にはこの、地理的歴史的条件がいろいろ絡み合って生れた現代日本の平和というものが、もうちょっと続けばいいなとも思うけど。70年もたてば、そろそろ限界なんだろうな、って気もする。中国次第ってところも大なのかな。・・・・・・



 



 その後の10年で、世界はより殺伐としてきて、日本周辺もまたしかりだ。当たり前のことだが、自分の幸せは自分で、自国の平和は自国で守るしかない。現実の世の中にはばいきんまんよりタチの悪い敵もいるのに、助けてくれるアンパンマンはいないのだから。



  



文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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